お言葉通り、この身になりますように 《キリストの花嫁のブレスレット型ロザリオ 小さいサイズ 有効長 16 cm》 フィルマン・ピエール・ラセールによる少女マリアのメダイ付 フランス 1920 - 30年代


ブレスレットの全長 (メダイから留め金までを一直線に伸ばして測ったサイズ) 20 cm

ブレスレットの有効長 (装着時のサイズ) 16 cm


ビーズの直径 8.5 mm


突出部分を除くメダイの直径 12.5 mm



 1920 - 30年代のフランスで制作されたブレスレット型ロザリオ。コミュニオン・ソラネルのときに、花嫁姿の少女が持った品物です。装着時に有効な長さは約 16センチメートルです。





 クルシフィクスの代わりに使われているメダイには、聖母マリアの美しい横顔が浮き彫りにされています。神の花嫁として選ばれ、天使ガブリエルから受胎を告知された処女マリアは、薄く柔らかな花嫁ヴェールを被って目を閉じ、メシアを産むということの意味を敬虔な祈りのうちに神に問いかけています。


 現代に比べると、昔は我が国でも元服、裳着が低い年齢で行われました。平安時代の貴族女性は十二歳から十四歳で裳着を行いました。古い時代ほど成人が早い傾向は、我が国以外にも当てはまります。新約聖書時代のユダヤ人は、男女とも十二、三歳で成人を迎えました。男性は家族を支えないといけないので、実際の結婚は成人の数年後でしたが、女性はほとんどの場合、成人後間を置かずに結婚していました。受胎を告知されたときのマリアの年齢に関して「ルカによる福音書」は何も語っていませんが、聖書学者は歴史学的データに基づき、このときのマリアの年齢を十代半ばであったと考えています。

 十六世紀後半から十七世紀前半にかけて活躍したマニエリスムの画家フランシスコ・パチェコ(Francisco Pacheco del Río, 1564 - 1644)は、ベラスケス(Diego Velázquez, 1599 - 1660)とアロンソ・カノ(Alonzo Cano, 1601 - 1667)の師にあたります。 パチェコの娘フアナ(Juana Pacheco, 1602 - 1660)はベラスケスと結婚しています。

 美術の教育者でもあったフランシスコ・パチェコは、数冊の著書を著しました。そのうちの一冊、1649年にセビジャで出版された「絵画の技術 ― 古来の方法とその卓越性」("Arte de la pintura, su antigüedad y su grandeza", Sevilla: Simón Fajardo, 1649)において、受胎告知を受ける少女マリアの年齢に関し、パチェコが論じている箇所を引用します。テキストは近世カスティジャ語で、日本語訳は筆者(広川)によります。文意を通じやすくするために補った語は、ブラケット [ ] で囲みました。


      Sin poner a pleito la pintura del Niño en los brazos, para quien tuviere devoción de pintarla así, nos conformaremos con la pintura que no tiene Niño, porque ésta es la más común...     両腕に幼子を抱く聖母を我々が描くのは、抱かれる幼子への信心ゆえである。[それゆえ聖母とともに]幼子を描くことに、我々は反対するわけではない。聖母は幼子を抱いて描かれる場合が最も多い。
      Esta pintura, como saben los doctos, es tomada de la misteriosa mujer que vio San Juan en el cielo, con todas aquellas señales; y, así, la pintura que sigo es la más conforme a esta sagrada revelación del Evangelista, y aprobada de la Iglesia Católica, la autoridad de los santos y sagrados intérpretes y, allí, no solo se halla sin el Niño en los brazos, más aún sin haberle parido, y nosotros, acaba de concebir, le damos hijo...     [しかしながら]学識ある人々が知っているように、[単身の聖母を描いた]この絵は、福音記者聖ヨハネが天国で見(まみ)え、彼(か)のあらゆる印を有する神秘的な女性を描いたものである。それゆえ私が範とする絵は、福音記者に示されたこの聖なる啓示に最も合致しており、カトリック教会、諸聖人の権威、及び聖なる学者たちに是認されているのであって、両腕に幼子を抱いていないのみならず、未だ幼子を産んでいない。この女性は懐妊したばかりであり、我々は彼女に一人の息子を与えるのである。
      Hase de pintar, pues, en este aseadísimo misterio, esta Señora en la flor de su edad, de doce a trece años, hermosísima niña, lindos y graves ojos, nariz y boca perfectísima y rosadas mejillas, los bellísimos cabellos tendidos, de color de oro; en fin, cuanto fuere posible al humano pincel.     それゆえに、いとも清らかなるこの神秘のうちにあって、最も美しい年齢である十三歳の聖母を描くことが必要なのである。十三歳の聖母は誰よりも美しい少女であり、その眼は澄んでいて軽はずみなところが無く、鼻と口は完璧な形である。頬は薔薇色で、最高に美しい髪は長く、金色であり、つまりは人間の筆で描ける限り[の美しさでなければならない]。
         
     「絵画の技術 ― 古来の方法とその卓越性」 セビジャ、シモン・ファハルド書店 1649年    "Arte de la pintura, su antigüedad y su grandeza", Sevilla: Simón Fajardo, 1649


 ほとんどのメダイや受胎告知画に描かれるマリアは、若い大人の女性です。マリアが成熟した姿で表される理由は精神的成熟の形象化、すなわちアブラハムやヨブにも勝るマリアの信仰の可視的表現と考えることができます。しかしながら本品メダイにおいて、マリアはフランシスコ・パチェコが勧めるような年若い少女として表されています。歴史的事実に忠実なこの表現は、年長のマリア像に慣れた我々の目に却って新鮮に映ります。

 マリアは神の摂理を無条件に信じ、全てを神に委ねました。年若い少女マリアは咲き誇る野の白百合(κρίνον, Lilium candidum)であり、少女マリアの女性美は、ソロモンの栄華に勝る白百合の美に譬えることができます。





 マリアをはじめとする聖女像は、メダイの浮き彫りや小聖画等の信心具に表現される場合、髪をほぼ完全にヴェールで覆って表されるのが通例です。なぜならば長い髪は地上に生きる女性の性的魅力の象徴であり、祈りの為の美術には不必要と判断されるからです。祈る女性たち自身、地上に身を置きつつも天上界に目を向けて神に焦がれ、ときにはその魂が肉体を離れてエクスタシス(希 ἔκστασις 身体の外に立つこと、脱魂状態)に陥るわけですから、肉体の美しさはそれ自体が悪いものではないにせよ、祈りには無関係で必要の無いものということになりましょう。

 しかしその一方で、ナジル人であったサムソンが髪を剃られて力を失った故事(「士師記」十六章十九節)からもわかるように、古来多くの民族において、髪は神の力が宿るところとされました。女性の場合も事情は変わりません。古代、中世の男女が髪を短くするのは罪を悔いる場合のみです。聖職者の剃髪にも同様の意味があります。

 本品のマリアはヴェールを被っていますが、髪を完全に隠してはいません。マリアの顎の向こうにも長い髪が覗いています。髪が長いのは当時の女性としては当たり前のことですが、通常のキリスト教図像において聖女の髪がヴェールの下に隠されるにも関わらず、本品のマリアが長い髪を覗かせているのは、神の愛、神の力が少女を覆い、聖霊が少女に降ったことの視覚的表現です。


 マリアの後方、肩の上に見えるア・ペ(AP)は、メダイユ工房の刻印です。マリアの前方に彫られた名前(F. LASSERRE)は、本品のメダユール(仏 un médailleur メダイユ彫刻家)であるフィルマン・ピエール・ラセールのサインです。

 フィルマン・ピエール・ラセール (Firmin Pierre Lasserre, 1870 - 1943) は 1870年6月6日、ピレネーの西端近くの小村バロート=カミュ(Barraute-Camu アキテーヌ地域圏ピレネー=アトランティック県)に生まれました。画家、彫刻家でもあったメダイユ彫刻家エメ・ミレ (Aimé Millet, 1819 - 1891)、及び画家アルベール・ブレオテ (Albert Bréauté, 1853 - 1939) に師事し、サロン展では 1921年に銅メダル、1923年に銀メダル、1927年に金メダルを受賞しています。またレジオン・ドヌール章シュヴァリエを贈られています。





 メダイの裏面には百合が刻まれています。百合は聖母の象徴であるとともに、一本の百合に三輪の花が咲いているさまは、神が三位一体であることの象徴でもあります。それゆえ受胎告知のマリアと白百合を表裏に彫った本品のメダイは、マリアが神の恩寵に満たされ、女の中で祝福された方(GRATIA PLENA, BENEDICTA IN MULIERIBUS)であることを示しています。

 受胎を告知された際、マリアは「お言葉通り、この身になりますように」と答えました。この返答はマリアの無条件的信仰を表します。このように無条件的な神への信仰に関し、イエスは「マタイによる福音書」 6章 25節から 34節、及び「ルカによる福音書」 12章 22節から 34節において、イエスは次のように説いておられます。「マタイによる福音書」 6章 25節から 34節をネストレ=アーラント26版、ノヴァ・ヴルガタ、新共同訳により引用します。


    Nestle-Aland 26. Auflage NOVA VULGATA 新共同訳
  25  Διὰ τοῦτο λέγω ὑμῖν, μὴ μεριμνᾶτε τῇ ψυχῇ ὑμῶν τί φάγητε [ἢ τί πίητε,] μηδὲ τῷ σώματι ὑμῶν τί ἐνδύσησθε: οὐχὶ ἡ ψυχὴ πλεῖόν ἐστιν τῆς τροφῆς καὶ τὸ σῶμα τοῦ ἐνδύματος;   Ideo dico vobis: Ne solliciti sitis animae vestrae quid manducetis, neque corpori vestro quid induamini. Nonne anima plus est quam esca, et corpus quam vestimentum?    「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
  26  ἐμβλέψατε εἰς τὰ πετεινὰ τοῦ οὐρανοῦ ὅτι οὐ σπείρουσιν οὐδὲ θερίζουσιν οὐδὲ συνάγουσιν εἰς ἀποθήκας, καὶ ὁ πατὴρ ὑμῶν ὁ οὐράνιος τρέφει αὐτά: οὐχ ὑμεῖς μᾶλλον διαφέρετε αὐτῶν;   Ideo dico vobis: Ne solliciti sitis animae vestrae quid manducetis, neque corpori vestro quid induamini. Nonne anima plus est quam esca, et corpus quam vestimentum?   空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
  27  τίς δὲ ἐξ ὑμῶν μεριμνῶν δύναται προσθεῖναι ἐπὶ τὴν ἡλικίαν αὐτοῦ πῆχυν ἕνα;   Quis autem vestrum cogitans potest adicere ad aetatem suam cubitum unum?   あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
  28  καὶ περὶ ἐνδύματος τί μεριμνᾶτε; καταμάθετε τὰ κρίνα τοῦ ἀγροῦ πῶς αὐξάνουσιν: οὐ κοπιῶσιν οὐδὲ νήθουσιν:   Et de vestimento quid solliciti estis? Considerate lilia agri quomodo crescunt: non laborant neque nent.   なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
  29  λέγω δὲ ὑμῖν ὅτι οὐδὲ Σολομὼν ἐν πάσῃ τῇ δόξῃ αὐτοῦ περιεβάλετο ὡς ἓν τούτων.   Dico autem vobis quoniam nec Salomon in omni gloria sua coopertus est sicut unum ex istis.   しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
  30  εἰ δὲ τὸν χόρτον τοῦ ἀγροῦ σήμερον ὄντα καὶ αὔριον εἰς κλίβανον βαλλόμενον ὁ θεὸς οὕτως ἀμφιέννυσιν, οὐ πολλῷ μᾶλλον ὑμᾶς, ὀλιγόπιστοι;   Si autem fenum agri, quod hodie est et cras in clibanum mittitur, Deus sic vestit, quanto magis vos, modicae fidei?   今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
  31  μὴ οὖν μεριμνήσητε λέγοντες, Τί φάγωμεν; ἤ, Τί πίωμεν; ἤ, Τί περιβαλώμεθα;   Nolite ergo solliciti esse dicentes: “Quid manducabimus?”, aut: “Quid bibemus?”, aut: “Quo operiemur?”.   だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
  32  πάντα γὰρ ταῦτα τὰ ἔθνη ἐπιζητοῦσιν: οἶδεν γὰρ ὁ πατὴρ ὑμῶν ὁ οὐράνιος ὅτι χρῄζετε τούτων ἁπάντων.   Haec enim omnia gentes inquirunt; scit enim Pater vester caelestis quia his omnibus indigetis.   それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
  33  ζητεῖτε δὲ πρῶτον τὴν βασιλείαν [τοῦ θεοῦ] καὶ τὴν δικαιοσύνην αὐτοῦ, καὶ ταῦτα πάντα προστεθήσεται ὑμῖν.   Quaerite autem primum regnum Dei et iustitiam eius, et haec omnia adicientur vobis.   何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
  34  μὴ οὖν μεριμνήσητε εἰς τὴν αὔριον, ἡ γὰρ αὔριον μεριμνήσει ἑαυτῆς: ἀρκετὸν τῇ ἡμέρᾳ ἡ κακία αὐτῆς.   Nolite ergo esse solliciti in crastinum; crastinus enim dies sollicitus erit sibi ipse. Sufficit diei malitia sua.   だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」


 6章 28節において、新共同訳が野の「花」と訳している語は、ギリシア語原文ではクリナ (希 κρίνα) となっています。クリナはクリノン(希 κρίνον) の複数対格形で、クリノンはギリシア語で白百合(羅 Lilium candidum)を指します。この語はノヴァ・ヴルガタにおいてリリア(LILIA)と訳されています。リリアはリリウム(LILIUM 百合)の複数対格形です。

 「マタイによる福音書」 6章 25節から 34節に並行する「ルカによる福音書」 12章 22節から 34節を確かめると、27節には次のように記されています。


    Nestle-Aland 26. Auflage NOVA VULGATA 新共同訳 
  27 κατανοήσατε τὰ κρίνα πῶς αὐξάνει: οὐ κοπιᾷ οὐδὲ νήθει: λέγω δὲ ὑμῖν, οὐδὲ Σολομὼν ἐν πάσῃ τῇ δόξῃ αὐτοῦ περιεβάλετο ὡς ἓν τούτων.   Considerate lilia quomodo crescunt: non laborant neque nent; dico autem vobis: Nec Salomon in omni gloria sua vestiebatur sicut unum ex istis.   野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

 福音書のこれらの個所で、イエスは神の摂理への信頼、信仰を説くために、栄華を極めたソロモン王の装いにも勝る白百合の美しさを引き合いに出しておられます。それゆえ白百合は神への深い信頼、確固たる信仰の象徴とされるようになりました。本品メダイにおいて、神の節理を無条件に信じる少女マリアは野の白百合に譬えられています。





 本品の金属部分は銀に金をめっきしています。このような素材をヴェルメイユ(仏 vermeil)といいます。ヴェルメイユの原意は緋色(鮮紅色、ヴァーミリオン)で、この原義はラテン語ウェルミクルス(羅 VERMICULUS 小さな虫)すなわち赤色染料を取るケルメスカイガラムシ(Kermes vermilio, PLANCHON, 1864)に由来します。

 古い時代には水銀アマルガム法による金めっきが行われ、この過程で発生する酸化水銀(II)(HgO)は多く赤味がかった色を呈するゆえに、古い時代のヴェルメイユ製品が赤みがかった色合いを有しました。水銀アマルガム法による金めっきは非常に危険で近代以降には行われなくなりましたが、ヴェルメイユすなわち緋色の物という名称は現在まで使われています。十九世紀以降に制作されたヴェルメイユは、金の薄板を高温高圧によって銀の表面に鑞(ろう)付けした製品です。


 上の写真で右側に写っているのは引き環の基部にある環で、純度八百パーミル(800/1000 八十パーセント)の銀を示すテト・ド・サングリエ(仏 la tête de sanglier イノシシの頭)の検質印(ホールマーク)が見えます。左側に写っているのはメダイ上部に突出した環で、純度八百パーミルの銀を示すクラブ(仏 crabe 蟹)の検質印が刻印されています。八百パーミル(八十パーセント)はフランスで制作されたアンティーク銀製品の標準的な純度です。

 フランスには純度八百パーミルの銀を示す二種類の検質印があります。モネ・ド・パリ(仏 la Monnaie de Paris パリ造幣局)の検質印はテト・ド・サングリエ(イノシシの頭)、それ以外の検質所の検質印はクラブ(蟹)を模(かたど)りますが、純度は同じです。二種の検質印が混在する本品は、フランスの別々の地方で制作された材料を産み合わせて制作されたことがうかがえます。





 写真ではわかりませんが、本品のビーズには独特のシラー(独 Schiller)があります。ビーズが動くにつれ、深みがある光の筋が動く様子は、オーソクレーズ(ムーンストーン)のような宝石質の長石に似ていますが、ルーベで気泡が確認できることから、鉱物ではなく工芸ガラス製であることがわかります。




(上) 絹のリボンを結んだ立体カニヴェ 「初聖体の日」 フランス 十九世紀末 当店の販売済み商品


 本品のビーズはその白さによって無原罪の御宿りを象徴しています。コミュニオン・ソラネルの際、キリストの花嫁である少女たちは聖母に倣い、清らかな信仰のうちに生涯を送ることを誓います。この日、少女が身に着けるドレス、ヴェール、手袋はすべて白に揃えられます。手に持つシエルジュ(仏 cierge 大蝋燭)も白です。このような装いに、白色ガラスのブレスレットはよく似合ったことでしょう。





 上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。





 本品は九十年ないし百年近く前にフランスで制作された真正のヴィンテージ品ですが、充分に良好な保存状態です。ヴェルメイユのメダイは突出部分の金が剥げていますが、銀製メダイ自体は細部まで良く残っています。ガラス製ビーズに罅(ひび)や欠損は無く、チェーンにも脆弱な個所はありません。留め金も正常に動作します。特筆すべき問題は何もありません。





本体価格 15,800円 販売終了 SOLD

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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