グアダルーペの聖母 (メキシコ)
Nuestra Señora de Guadalupe, Virgen de Guadalupe (México)





 1531年12月9日から同12日にかけて、メキシコ・シティの北数キロにあるグスタボ A. マデロ(Gustavo A. Madero, D. F.) 地区のテペヤック (Tepeyac) と呼ばれる丘で、メキシコ先住民のフアン・ディエゴ (San Juan Diego Cuauhtlatoatzin, 1474 - 1548) に対して聖母マリアが出現し、フアン・ディエゴが羽織っていたティルマと呼ばれる先住民のマントに聖母の姿が写されるという奇跡が起こりました。これがグアダルーペの聖母で、メキシコ文化の最大のシンボルとなっています。


【「グアダルーペの聖母」という名称について】

 もともとグアダルーペ (Guadalupe) はアラビア語ワディ(wadi 川)とラテン語ルプス(LUPUS オオカミ)に由来するスペインの川の名前です。714年のムーア人侵入の際に隠されたと思われる聖母子像が14世紀の初めにこの川の岸辺で発見され、像を安置するための修道院が建てられました。これがエストレマドゥーラ州グアダルーペにあるグアダルーペの聖母王立修道院 (El Real Monasterio de Santa María de Guadalupe)で、聖母に捧げられた最も重要な修道院として、中世カスティリア(スペイン)において大きな勢力を有していました。


(下) エストレマドゥーラの修道院に安置されているグアダルーペの聖母 (Virgen de Guadalupe)。この聖母はスペインにある黒い聖母のひとつで、福音記者ルカの手によるとの伝承があります。




 1492年に新大陸に到達してスペインに戻ったクリストファー・コロンブスは、最初の巡礼先としてエストレマドゥーラの「グアダルーペの聖母修道院」を選び、ここで神に感謝の祈りを捧げました。このことからもわかるように、大航海時代のスペイン人の多くはグアダルーペの聖母を崇敬しており、その結果としてこの聖母は新大陸にも大きな影響を及ぼしました。そのひとつが 1531年にテペヤックに出現した「グアダルーペの聖母」なのです。


【図像学的解釈】

 グアダルーペの聖母はヨハネの黙示録12章1節 (*) に現れる聖母の姿であるとも、無原罪の御宿りの姿であるとも言われます。

* ヨハネの黙示録 12章1節 (新共同訳)
 また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。

 さらに、グアダルーペの聖母をアステカの末裔であるメキシコ先住民文化に関連付け、スペインに滅ぼされたアステカの神々の図像体系が聖母の姿に反映されているとする解釈もあります。これに基づくと聖母のマントの青緑はアステカの創造神オメテオトル (Ometeotl) の色であり、聖母の衣の帯は豊穣のシンボルである妊婦のしるしと考えられます。またグアダルーペの聖母は先住民文化において重要な地位を占めるリュウゼツラン(竜舌蘭)の女神との習合であるとの説もあり、聖母のマンドーラ(mandorla 全身を囲む後光)がリュウゼツランの葉と棘に似ていること、グアダルーペの聖母の祭日にリュウゼツランの発酵酒が供されることがその根拠となっています。


 リュウゼツラン


【テペヤックにおける聖母出現の経緯】

 1648年にメキシコで出版されたスペイン語の小冊子「グアダルーペなる神の母、おとめマリアの御姿」 ("Imagen de la Virgen María, Madre de Dios de Guadalupe") および 1649年にメキシコで出版されたナワトル語による 36ページの小冊子「大いなる出来事」 ("Huei tlamahuicoltica omonexiti in ilhuicac tlatocacihuapilli Santa María totlaconantzin Guadalupe in nican huei altepenahuac México itocayocan Tepeyacac") によると、その経緯は以下の通りです。


(下) 「大いなる出来事」の表紙




 1531年12月9日、フアン・ディエゴが自分の村を出てテペヤックの丘を通り、町に向かって歩いていると、名前を呼ぶ声が聞こえてきました。フアン・ディエゴが急いで行ってみると、アステカの女王のように高貴な様子の少女がいました。少女は 15歳くらいで、光に包まれていました。彼女は現地のナワトル語でフアン・ディエゴに話しかけ、自分がいま立っている場所に、自分に捧げた礼拝堂を建てるよう、メキシコ司教に伝えるように依頼し、「わたしは愛と憐れみ、助けと保護を人々に与えましょう。わたしはあなたがたの慈しみ深き母であり、この地に住むすべての人々、すべての人類、わたしを愛し、求め、わたしを信じるすべての人の慈しみ深き母です。わたしには人々の泣き声、悲しみの声が聞こえます。わたしは多くの悩み、苦しみ、不幸を取り除きましょう」と語りました。

 この少女が聖母マリアであることを悟ったフアン・ディエゴは指示されたとおりにヌエバ・エスパーニャ司教フアン・デ・スマラガ (Juan de Zumarraga, 1468 - 1548) (*) のもとに赴きますが、司教はすぐには彼の話を信じることができず、証拠となるしるしが必要だと言いました。

(*) ヌエバ・エスパーニャ (Nueva Espana) は現在のアメリカ合衆国南西部から中央アメリカ、カリブ諸国、およびフィリピン諸島を含む地域です。フアン・デ・スマラガが正式にヌエバ・エスパーニャ司教に叙階されたのは 1533年ですが、すでに 1527年の時点でカルロス1世によってヌエバ・エスパーニャ司教に推されていました。

 フアン・ディエゴはテペヤックの丘に引き返し、司教に信じてもらえなかったことを聖母に話して、自分よりも優れた人を使者に選ぶように頼みましたが、聖母は司教への使者はどうしてもフアン・ディエゴでなければならないと言いました。

 翌10日、フアン・ディエゴはふたたび司教に会いに行きましたが、やはりしるしを求められました。フアン・ディエゴがこのことを聖母に話すと、聖母は翌日(12月11日)にしるしを与えることを、フアン・ディエゴに約束しました。

 12月11日の夜、フアン・ディエゴがおじのフアン・ベルナルディノ (Juan Diego Bernardino, ca. 1460 - 1544) を訪ねると、フアン・ベルナルディノは病気で危篤状態に陥っていました。翌12日の朝、フアン・ディエゴは「病者の塗油」の儀式(病人が亡くなる前に行うカトリックの秘蹟)をしてもらうために司祭を呼びに行きましたが、テペヤックの丘を通るのを避けたにもかかわらず彼の前に聖母が現れ、おじは死なないと話し、丘に登って花を集めるように指示しました。季節は12月で、花など咲いているわけがありません。しかしフアン・ディエゴが丘に登ると、そこにはメキシコ司教の故郷であるカスティリア(スペイン)の薔薇がいくつも咲いていました。聖母はフアン・ディエゴのティルマ(マント)にカスティリアの薔薇の花々を包み、司教以外の人の前ではティルマを開かないようにフアン・ディエゴに命じました。フアン・ディエゴがふたたび司教を訪ねてティルマを開くと、たくさんの薔薇の花がこぼれ落ち、グアダルーペの聖母の姿がティルマに写されていました。司教はこの奇跡を目の当たりにして、ティルマの前に跪きました。

 司教はこの日から2週間以内に、聖母が出現した場所に礼拝堂を立てる命令を下し、聖母の姿が写されたティルマをフアン・ディエゴに託しました。その後フアン・ディエゴは 1548年に 74歳で亡くなるまで堂守として礼拝堂の近くに住み、訪れる巡礼者たちに聖母出現の様子を語り伝えました。


【「グアダルーペの聖母」伝承の歴史】

 現在知られている形でテペヤックにおける聖母の出現を述べた最初の記録は、1648年にメキシコで出版された小冊子「グアダルーペなる神の母、おとめマリアの御姿」 ("Imagen de la Virgen Maria, Madre de Dios de Guadalupe") です。この本はメキシコ・シティの教区司祭ミゲル・サンチェスによるもので、メキシコで生まれたスペイン人読者のためにスペイン語で書かれ、聖書への言及を多く含んでいました。メキシコ司教に関する言及はこの本において初めて為されています。

 次に現れる重要な資料は 1649年にメキシコで出版されたナワトル語による 36ページの小冊子「大いなる出来事」 ("Huei tlamahuicoltica omonexiti in ilhuicac tlatocacihuapilli Santa Maria totlaconantzin Guadalupe in nican huei altepenahuac Mexico itocayocan Tepeyacac") です。この本はテペヤックの司祭ルイス・ラソ・デ・ラ・ベガ (Luis Laso de la Vega) によるものですが、もともと 1556年にアントニオ・バレリアーノ (Antonio Valeriano, c. 1531 - 1605) が書いたものである (*) として、聖母出現の経緯に加えて、聖母が起こした14の奇跡と、メキシコにおける聖母崇敬の歴史を記述しています。

* アントニオ・バレリアーノはメキシコ現地のナワ族出身の高名な地方行政官で、フランシスコ会士ベルナルディノ・デ・サアグン (Bernardino de Sahagun, 1499 - 1590) とともに、スペイン人が侵入する以前のアステカ文明を記述した貴重な資料「フィレンツェ文書」 ("The Florentine Codex" or "Historia General de las Cosas de la Nueva España") と呼ばれる文書を編纂した学者でもあります。

 またグアダルーペの聖母に捧げる特別な祈りやミサ、祝日の設定をローマ教皇庁に申請するために作成されたスペイン語資料「1666年手続き録」("Informaciones Jurídicas de 1666") にはフアン・ディエゴと彼に出現した聖母に関する数多くの人々の証言が集められています。


【懐疑論】

 テペヤックに聖母が出現したとされる 1531年から 1640年代までの間にこの奇跡を記録した確実な資料が見当たらないことから、テペヤックにおける聖母出現の史実性は歴史家の間で強く疑われています。

 上述のふたつの本にはヌエバ・エスパーニャ司教フアン・デ・スマラガが奇跡の証人として登場しますが、司教の著述のなかにはフアン・ディエゴやテペヤックに出現した聖母に関する言及は見当たりません。

 また司教が亡くなる前にヌエバ・エスパーニャで出版された教理問答書には「世の救い主はもはやこの時代に奇跡を必要とされない」との記述が見られます。

 1556年にフランシスコ会士フランシスコ・デ・ブスタメンテ (Francisco de Bustamente) はヌエバ・エスパーニャ副王の前で行った説教のなかで、グアダルーペの聖母崇敬は「現地人マルコが描いた絵が奇跡であると思わせるゆえに」現地住民にとって有害であると断じています。

 1611年には第4代ヌエバ・エスパーニャ副王のドミニコ会士マルティン・デ・レオン (Martin de Leon) がグアダルーペの聖母をアステカの地母神トナンツィン崇拝の偽装であるとして非難し、「グアダルーペの聖母」奇跡譚に登場する司教フアン・デ・スマラガの事跡に詳しい19世紀の歴史学者ホアキン・ガルシア・イカスバルセタ (Joaquin Garcia Icazbalceta, 1824 - 1894) は、1883年の報告書において、フアン・ディエゴが実在の人物ではないと述べています。


【エスカラダ写本】

 フアン・ディエゴは2002年に列聖されましたが、ちょうど列聖に向けての審査と手続きが進んでいる時期である1995年に「エスカラダ写本 (Codex Escalada)」あるいは「1548年写本 (Codex 1548)」と呼ばれるナワトル語文書が世に出ました。これは絵を多用した鹿皮の文書で、テペヤックにおける聖母出現とフアン・ディエゴの死を記述しており、発見者のイエズス会士シャビエル・エスカラダは 16世紀半ばのものであると主張しました。

 しかしながらこの文書にはアントニオ・バレリアーノ(前出)に関する言及があります。アントニオ・バレリアーノは「大いなる出来事」の出版人ラソ・デ・ラ・ベガによって彼の本(「大いなる出来事」)の原著者とされながらも、歴史学者の間では関与が否定されています。
 またエスカラダ写本は高名なフランシスコ会士ベルナルディノ・デ・サアグン(前出)の署名が見られます。しかしベルナルディノ・デ・サアグンは現地人たちがグアダルーペの聖母を「トナンツィン」と呼んでいるとして、ドミニコ会士マルティン・デ・レオン(前出)と同様の批判をしています。

 近世以前のヨーロッパでは著作の信憑性を高めて世に広げるために、権威ある過去の人物を後世の著作の著者に擬することが多く行われていました。キリスト教関連の事例だけを取ってみても、古くは数々の福音書を初めとする外典偽典から偽ディオニシウス文書、コンスタンティヌスの寄進状、偽イシドールス文書など、枚挙に暇がありません。アントニオ・バレリアーノが「大いなる出来事」の原著者とされたのも同様の例ですが、エスカラダ写本はこれをそのまま事実として記述しています。
 またベルナルディノ・デ・サアグンがメキシコにおけるグアダルーペの聖母崇敬を助長する本を書くのは、彼自身の考え方、立場に矛盾します。

 以上の理由によってエスカラダ写本の真正性は強く疑われており、ある研究者はエスカラダ写本を評して「ルカが描いてペテロが署名した『サウロの改心』の絵が発見されたようなものだ」と皮肉っています。(Brading, D.A. Mexican Phoenix. Our Lady of Guadalupe: Image and Tradition Across Five Centuries, Cambridge University Press: Cambridge, 2001)


 エスカラダ写本


【カトリック教会とグアダルーペの聖母】

 ローマ教皇ベネディクトゥス14世は1754年5月25日の回勅「ノーン・エスト・クイデム (NON EST QUIDEM)」のなかでグアダルーペの聖母をヌエバ・エスパーニャの守護聖人とし、聖母に捧げる特別のミサと祈祷書を承認しました。1910年、教皇ピウス10世はグアダルーペの聖母をラテン・アメリカの守護聖人と宣言し、1935年にピウス11世はグアダルーペの聖母をフィリピンの守護聖人としました。1945年、教皇ピウス12世はグアダルーペの聖母を「メキシコの女王にして全アメリカの女帝」とし、1946年に全アメリカの守護聖人としました。

 教皇ヨハネ・パウロ2世は1979年に教皇として初めて世界各国を訪問した際に、テペヤックのグアダルーペの聖母教会を訪れ、1990年5月6日にフアン・ディエゴを列聖した際にも同所を再訪しています。また1999年にグアダルーペの聖母を全アメリカの守護聖人と宣言し、その翌日にもテペヤックの教会を訪問しています。さらに2002年7月31日にはフアン・ディエゴを列聖し、12月9日をフアン・ディエゴの祝日、12月12日をグアダルーペの聖母の祝日と定めました。

 グアダルーペの聖母のレプリカはヴァティカンのサン・ピエトロ聖堂やパリ司教座聖堂(ノートル=ダム・ド・パリ)を含む各地の教会に安置されています。



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