聖アウグスチノ会則
REGULA SANCTI AUGUSTINI




(上) Fra Angelco, "La Conversione di Sant'Agostino", 22.5 x 34.5 cm, Musée Thomas-Henry, Cherbourg


 「聖アウグスチノ会則」(REGULA SANCTI AUGUSTINI) は、西方教会の歴史において最も重要な古い修道会則で、ヒッポの聖アウグスティヌス (Aurelius Augustinus Hipponensis, 354 - 430) が修道生活に関して書き遺した教えが中心になっています。

 「聖アウグスチノ会則」は聖アウグスティヌスの名を冠するいくつかの修道会のみならず、律修聖堂参事会(註1)や一部の騎士修道会、また「ドミニコ会」(Ordo fratrum Praedicatorum) や「聖母のしもべ会」(Ordo Servorum Beatae Mariae Virginis, O. S. M.) にも採用され、フランシスコ会、カルメル会にも影響を与えています。


【「聖アウグスチノ会則」の原典となった著作】

 卓越した知性を持つ最も偉大な教父のひとり、ヒッポの聖アウグスティヌスは、さまざまな分野に亙る数多くの著作を残しています。このうち次の三つは宗教者の共同生活に関して論じており、「聖アウグスチノ会則」の原典と看做されています。

・「第211書簡」("EPISTOLA CCXI")

・「第 355説教」及び「第 356説教」("SERMONES CCCLV & CCCLVI")

・「修道士の仕事について」("DE OPERE MONACHORUM")


 これらの著作の内容は次の通りです。

・「第211書簡」("EPISTOLA CCXI")

 アウグスティヌスの妹ペルペトゥア (PERPETUA) は女子修道院の院長を務めており、この修道院にはアウグスティヌスのいとこ一人と姪一人も在籍していました。この修道院で新しい院長を決める際に問題が起こり、アウグスティヌスはこれを解決するために「第211書簡」を書き送りました。

 「第211書簡」において、アウグスティヌスは当面の問題に関する事柄のほかに、修道生活に不可欠の徳(愛、清貧、服従、世を捨てること等)、及び実践(労働の割り当て、長上と下位の修道女の間の相互的義務、姉妹愛、共同の祈り、断食、個人の能力に応じた禁欲、病者の世話、沈黙、食事の際の朗読等)について論じています。


・「第 355説教」及び「第 356説教」("SERMONES CCCLV & CCCLVI")

 「第 355説教」と「第 356説教」はひとまとめにして「聖職者の生活と道徳について」("DE VITA ET MORIBUS CLERICORUM SUORUM") という名前でも知られています。

 アウグスティヌスの司教館では、共住司祭たちがアウグスティヌスとともに修道生活を営んでいました。「第 355説教」と「第 356説教」において、アウグスティヌスはこの修道生活が初代教会の使徒たちに倣い、金銭を共有して清貧を守る生活様式であることを述べています。


・「修道士の仕事について」("DE OPERE MONACHORUM")

 聖アウレリウス (St. Aurelius) は 391年頃からカルタゴ司教を務めた人物です。この時代には、正統教義を定めるために教会会議が頻繁に開かれましたが、聖アウレリウスは多数の教会会議で指導的な役割を果たし、アウグスティヌスをはじめとする同時代人の尊敬を集めました。

 当時のカルタゴでは、修道士たちが「瞑想」の名の下に怠惰な生活を送っており、アウレリウスはこれを憂慮していました。アウグスティヌスはアウレリウスの依頼によって「修道士の仕事について」("DE OPERE MONACHORUM") を著し、聖書に記録されている使徒の生活を例に引いて、修道士は労働に励むべきであると論じました。


【「聖アウグスチノ会則」を採用する修道会など】

 「聖アウグスチノ会則」は、聖アウグスティヌスの名を冠するいくつかの男子修道会、女子修道会に採用されています。男子修道会には次のものがあります。


・聖アウグスチノ盛式律修参事会 CANONICI REGULARES SANCTI AUGUSTINI (C. R. S. A.)

 「聖アウグスチノ盛式律修参事会」とは、聖アウグスチノ会則を採用する各地の聖堂参事会のことをいいます。「聖アウグスチノ盛式律修参事会」はひとりの人物が創始した修道会ではなく、互いに独立しています。

 特によく知られている「聖アウグスチノ盛式律修参事会」として、ローマのラテラノ至聖救世主律修参事会 (CONGREGATIO SANCTISSIMI SALVATORIS LATERANENSIS, I Canonici Regolari del Santissimo Salvatore Lateranense)、トゥールーズのサン=セルナン教会律修参事会、パリにあったサン=ヴィクトル律修参事会が挙げられます。


・聖アウグスチノ隠修士会 ORDO EREMITARUM SANCTI AUGUSTINI (O. E. S. A.)

 1200年代初頭、シエナの周辺に数名の隠修士から成る集団が数多く形成されました。当初、これらの集団に聖職者は含まれていませんでしたが、やがて聖職者が加わると、教区の司牧に一定の役割を果たすようになりました。互いに独立していたこれらの集団は、1223年頃から緩やかなつながりを形成し始め、共通して聖アウグスチノ会則を採用するようになりました。

 教皇アレクサンデル4世はこれら隠修士の修道会をひとつにまとめるために、それぞれの修道会から代表者をローマに呼びよせて合併に向けての討議を行わせ、1256年5月4日、教書「リケット・エックレシアエ・カトリカエ」("LICET ECCLESIAE CATHOLICAE ラテン語で「カトリック教会に相応しいことは」の意)によって、聖アウグスチノ隠修士会を認可しました。


・跣足アウグスチノ会 ORDO AUGUSTINIENSIUM DISCALCEATORUM (O. A. D.)

 リスボンに生まれたトマス・デ・アンドラダ神父 (Tomás de Andrada, 1529 - 1582) は、15歳のときに聖アウグスチノ隠修士会に入会しました。トマス神父は師であるルイス・デ・モントヤ (Luis de Montoya, O. E. S. A. 1497 - 1569)、及び摂政でもあった枢機卿エンリケ(後のポルトガル王エンリケ1世 Henrique I de Portugal, 1512 - 1578 - 1580) からも協力を得て、同会の改革を志しましたが、怠惰な会員たちの不支持ゆえに事態は進行せず、また当時のポルトガル王セバスティアン1世 (Sebastião I, 1554 - 1578) のモロッコ遠征に随行して捕虜となり、その4年後には神父自身が亡くなったために、改革は実現しませんでした。

 トマス神父の遺志を継いだのは、高名な学者であり詩人でもあったスペインの聖アウグスチノ隠修士会士ルイス・ポンセ・デ・レオン (Luis Ponce de León, O. E. S. A. 1527 - 1591) です。1561年にサラマンカ大学の神学教授に就任したルイスは、聖アウグスチノ隠修士会の会憲の見直しに着手し、カスティジャ王フェリペ2世 (Felipe II, 1527 - 1556 - 1598) も同会の改革を後押ししました。1588年、アンドレ・ディアス (Venerable Andrés Díaz, O. E. S. A. + 1596) を中心とする改革派の修道士たちが、トレドの東80キロメートルにあるタラベラ・デ・ラ・レイナに最初の改革派修道院を設立しました。その後、多数の改革派修道院がカスティジャに開設され、早くも1606年には国王フェリペ3世 (Felipe III, 1578 - 1598 - 1621) により、フィリピンに改革派修道士たちが宣教師として派遣されました。1622年、教皇グレゴリウス15世 (Gregorius XV, 1554 - 1621 - 1623) は「跣足アウグスチノ会」を正式に認可しました。

 教皇ピウス10世 (Pius X, 1835 - 1903 - 1914) は 1912年、スペインの跣足アウグスチノ会を、「聖アウグスチノ観想修道会」(ORDO AUGUSTINIANORUM RECOLLECTORUM, O. A. R.) として正式に認可しました。聖アウグスチノ観想修道会は「托鉢修道会」として最も新しく認可された修道会です。


 なお上記以外の多数の律修参事会においても、「聖アウグスチノ会則」が採用されています。良く知られている律修参事会としては、「プレモントレ会」、「サン・ヴィクトル参事会」が挙げられます。


 そもそもアウグスティヌスの「第211書簡」("EPISTOLA CCXI") は妹が院長を務める女子修道院のために書かれたものであり、後世においても多数の女子修道会が「聖アウグスチノ会則」を採用しています。「聖アウグスチノ会則」に従う女子修道会のうち、「ウルスラ会」(Ordo Sanctae Ursulae, O. S. U.)、「聖母訪問会」(Ordo Visitationis Beatissimae Mariae Virginis, V. S. M.)、「聖母被昇天修道会」(Augustiniani ab Assumptione, A. A.) は多数の国、地域で活動し、特によく知られています。


【「聖アウグスチノ会則」とドミニコ会】

 「聖アウグスチノ会則」はドミニコ会にも採用されています。

 グスマンの聖ドミニコ (St. Domingo de Guzman, 1170 - 1221) は 1194年、エル・ブルゴ・デ・オスマ (El Burgo de Osma) の司教座聖堂で聖アウグスチノ修道会の会則に従って共同生活をする律修司祭となりました。1204年、ドミニコと司教ディエゴは教皇インノケンティウス3世 (Innocentius III, 1161 - 1198 - 1216) からカタリ派への宣教を託されてラングドック(南フランス)に赴き、1206年の終わり頃、カタリ派から改宗した女性たちを受け入れるために、同派が支配するプルイユ (Prouille) に修道院を創設します。このあと、ディエゴはカタリ派に対抗する説教師を呼び寄せるためにスペインに帰国し、そのまま亡くなりましたが、ドミニコはフランスにとどまり、カタリ派への宣教を続けました。1215年、ドミニコはトゥールーズの裕福な市民の援助により一軒の家を与えられて、6人の同志と共に修道規則に則った祈りと懺悔の生活を始め、ほどなくしてトゥールーズ司教フルク・ド・マルセイユ (Foulques de Marseille, 1155 - 1231) から、トゥールーズ地方を巡回して説教する許可状を与えられています。

 同1215年、ドミニコは新しい修道会の認可を求めるためにローマに行きました。この年に開かれた第四ラテラノ公会議は、カノン13において新しい修道会の設立を禁じました(註2)が、ドミニコは「聖アウグスチノ会則」を採用したために、教皇ホノリウス3世 (Honorius III, 1148 - 1216 - 1227) から修道会の認可を得ることができました。ドミニコの修道会、すなわち清貧と宣教の使徒的生活を送るドミニコ会は、この後大きく発展することになります。



註1 律修聖堂参事会とは、共住して修道生活を送る律修聖堂参事会員及び律修司祭の集団で、修道会と多くの共通点を有します。

註2 第四ラテラノ公会議「カノン13」は次の通りです。和訳は筆者(広川)によります。


CONCILIUM LATERANENSE IV CANON XIII 第四ラテラノ公会議 カノン13
"DE NOVIS RELIGIONIBUS PROHIBITIS" 新しい宗旨の禁止について
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Ne nimia religionum diversitas gravem in Ecclesia Dei confusionem inducat firmiter prohibemus ne quis de cætero novam religionem inveniat sed quicumque voluerit ad religionem converti unam de approbatis assumat.  宗旨における如何なる違いも神の教会に混乱をもたらすことが無きように、以下の行為を厳禁する。現在公認されている諸々の宗旨間の違い以外の事柄について、何びとも新しい宗旨を案出するべからず。宗旨に帰依することを欲する者は誰でも、認可済みの宗旨からひとつを選ぶべし。
Similiter qui voluerit religiosam domum fundare de novo regulam et institutionem accipiat de religionibus approbatis.  同様に、新しく修道会を設立せんと欲する者は、その宗旨の会則と制度を、認可済みの修道会から採用すべし。
Illud etiam prohibemus ne quis in diversis monasteriis locum monachi habere præsumat nec unus abbas pluribus monasteriis præsidere.  さらに以下の行為を禁ずる。何びとも複数の修道院に独居房を有するべからず。ひとりの修道院長が多数の修道院を治めるべからず。



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