ノートル=ダム=ド=ロレト国立墓地
la nécropole nationale de Notre-Dame-de-Lorette, Ablain-Saint-Nazaire


 1939年頃の絵葉書


 「ノートル=ダム=ド=ロレト国立墓地」(La nécropole nationale de Notre-Dame-de-Lorette) は、ベルギーとの国境に近い北フランスの町アブラン=サン=ナゼールにあるフランス最大の軍人墓地です。第一次世界大戦の激戦地であった「ノートル=ダム=ド=ロレトの丘」を整備してバシリカと塔を建て、この地で戦死した人々をはじめ、全世界の戦争犠牲者を記念しています。


【ノートル=ダム=ド=ロレトの丘】

 六角形のフランス国土の北端付近、アブラン=サン=ナゼール(Ablain-Saint-Nazaire ノール=パ=ド=カレー地域圏パ=ド=カレー県)に、「ノートル=ダム=ド=ロレト(ロレトの聖母)の丘」(la colline de Notre-Dame de Lorette) と呼ばれる海抜 165メートルの丘陵があります。


 ノートル=ダム=ド=ロレトの丘に建っていた聖堂。1815年に再建され、1870年頃に増築された建物。1915年の絵葉書より。


 アブラン=サン=ナゼールの画家フロラン・ギベール (Florent Guilbert) がイタリアのロレトに巡礼に出かけ、病気を治されたことを感謝して、1727年、ノートル=ダム=ド=ロレトに捧げた小聖堂を地元の丘に建てました。この故事ゆえに、イタリアから遠く離れたこの場所は「ノートル=ダム=ド=ロレトの丘」と呼ばれるようになりました。この小聖堂はフランス革命期の 1794年に破壊されましたが、1815年に再建され、1870年頃に増築されて、「ロレトの聖母」への巡礼者を集めていました。




(上) 「ノートル=ダム=ド=ロレトの丘」の戦略的重要性の解説図。1915年の絵葉書より。


 ところで、上の鳥瞰図がよく示しているように、ノートル=ダム=ド=ロレトの丘は、この付近の戦略的要衝でした。それゆえに第一次世界大戦初期である 1914年10月から翌年 10月までの一年間に亙って、この丘を巡り、フランス軍とドイツ軍の間で非常に激しい戦闘が繰り広げられました。「ノートル=ダム=ド=ロレトの戦い」では、フランス側に四万五千人にのぼる戦死者を出しました。「ロレトの聖母」へ巡礼地であった丘の上の小聖堂も、原形をとどめないまでに破壊されました。

 「ノートル=ダム=ド=ロレトの戦い」における戦死者の遺骨は第一次大戦後になって集められ、1928年、この丘に面積 25ヘクタールを超えるフランス最大の軍人墓地、「ノートル=ダム=ド=ロレト国立墓地」(La nécropole nationale de Notre-Dame-de-Lorette) が完成しました。「ノートル=ダム=ド=ロレト国立墓地」はこの戦死者たちを埋葬するとともに、すべての戦争によるすべての国の戦争犠牲者を記念しています。


【トゥール・ランテルヌ】

 1920年代の絵葉書


 墓地の中心部西側にそびえるのは「トゥール=ランテルヌ」(la Tour-Lanterne 光の塔)と名付けられた塔で、基部の一辺が12メートル、高さが52メートルあります。塔の上部では3000カンデラの光源が一分間に五回転しており、最大70キロメートル先からでも視認可能です。塔の上部には二百段以上の階段で登ることができます。また塔の基部にはクリプト(地下聖堂)があり、第二次世界大戦の無名戦士たち、強制収容所の犠牲者たち、アルジェリア戦争の戦死者たち、インドシナ戦争の戦死者たちが葬られています。

 「トゥール=ランテルヌ」を設計したのは、リールの建築家ルイ=マリ・コルドニエ (Louis-Marie Cordonnier, 1854 - 1940) です。後述のバシリカと同じ1921年6月19日、ペタン元帥 (Philippe Pétain, 1856 - 1951) によって定礎され、1925年8月2日、当時の首相であった数学者ポール・パンルヴェ (Paul Painlevé, 1863 - 1933) の司式で落成しました。ちなみに建築家ルイ=マリ・コルドニエは、リジューのバジリク・サント・テレーズの設計者でもあります。


【バシリカとステンド・グラス】




 「トゥール=ランテルヌ」の東側には、バシリカがあります。これはラテン十字交差部に採光塔のあるロマネスク様式と、ビザンツ様式の簡素な外観とを融合させた建物で、東西 46メートル、南北 14メートルの大きさがあります。このバシリカはトゥール=ランテルヌと同様、ルイ=マリ・コルドニエが設計したもので、ペタン元帥がトゥール=ランテルヌが定礎したのと同じ1921年6月19日に、アラス司教ウジェーヌ・ジュリアン師 (Mgr. Eugène-Louis-Ernest Julien, 1856 - 1930) が定礎を行いました。

 バシリカの敷地を含むノートル=ダム=ド=ロレトの丘は粘土質でぬかるむうえに、激戦地であったために塹壕や穴が多く、また道路からも離れていたので、建設工事は困難を極めました。バシリカは強化コンクリートで基礎を固めた上に建てられ、リール(Lille ノール=パ・ド・カレー地域圏ノール県)やベテューヌ(Béthune ノール=パ・ド・カレー地域圏パ=ド=カレー県)の瓦礫も建材として使用されました。難工事の末に完成した聖堂は、1937年9月5日に祝別されました。





(上) ノートル=ダム=ド=ロレト国立墓地のバシリカ シャルル・ロランによるステンドグラス 「聖クロティルド」


 バシリカに見られるステンドグラスの大部分は、宗教画を得意とした画家アンリ・パンタ (Henri Ludovic Marius Pinta, 1856 - 1944) の原画に基づき、シャルトルの名匠シャルル・ロラン (Charles Lorin,1874 - 1940) が制作したものです。ステンドグラスの図柄は、アラス (Arras)、ブーローニュ=シュル=メール (Boulogne-sur-Mer)、サントメール (Saint-Omer) の紋章のほか、フランスを守るのに項があったり北フランスに縁がある君主たち(シャルルマーニュ、フィリップ2世、ルイ9世ゴドフロワ・ド・ブイヨン、カール・マルテル)の像、夫クローヴィスをカトリック(二ケア派)に改宗させた王妃聖クロティルドの像が表されています。翼廊西側には戦うフランスの像、翼廊東側には月桂樹の冠を戴く勝利のフランス像が表されています。


 ノートル=ダム=ド=ロレト国立墓地には連合王国(イギリス)の兵士のための区画も設けられたため、連合王国は返礼として6枚のステンドグラスをバシリカに寄贈しています。この6枚はステンドグラス、フレスコ画、水彩画を得意としたアーツ・アンド・クラフツの芸術家ヘンリー・ペイン(Henry Albert Payne RWS, 1868 - 1940) の作品で、1929年8月4日に除幕されました。ペインの作品は第二次世界大戦中の 1940年に損壊しますが、1947年に修復されました。



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