ブーローニュの聖母
Notre-Dame de Boulogne


 ブーローニュの聖母のカニヴェ。当店の商品です。


 フランス本土の北東端、ベルギーとの国境付近に、英仏海峡に面する町、ブーローニュ=シュル=メール(Boulogne-sur-Mer ノール=パ=ド=カレー地域圏パ=ド=カレー県 註1) があります。636年頃、当時小さな漁村であったブーローニュに、小舟に乗った聖母マリアが出現しました。この出来事によってブーローニュ=シュル=メールは聖母マリアの大巡礼地となりました。


【「ブーローニュの聖母」の出現に関する伝承】

 ダゴベルト1世 (Dagobert I, 603 - 639) の治世、聖オメール (St. Omer) がこの地の司教であった636年頃のことです。夕刻、ブーローニュの村人たちが村の高みにある礼拝堂に集っていたところ、彼らの前に聖母が出現し、川辺に不思議なものがあるので見に行くようにと命じました。果たして村人たちが急いで川辺に向かうと、そこには帆も櫂も無い無人の小舟が流れ着いており、聖母子像が乗せられていました。像は木で出来ており、高さは1メートルほどで、幼子イエズスを左腕に抱く聖母の姿を刻んだものでした。像はこの世のものとも思えない妙なる光に包まれており、あたりには幸福な安らぎが満ちていました。村人たちはこの像を村の礼拝堂に運んで安置しました。

 また別の伝承に拠ると、ある日、聖母マリアが櫂も帆も無い小舟に乗ってブーローニュの海岸を訪れました。村人たちが聖母に名を問うと、聖母は「漁(すなど)る者たちの守護者にして、恩寵の源、敬虔の泉」と名乗り、「あなたがたと、あなたがたの村に、神の光が注ぎますように。わたしの名において、すぐに聖堂を建てなさい」と命じました。



【ノートル=ダム・ド・ブーローニュの歴史】

 ブーローニュに出現した聖母を象った同名の聖母子像「ノートル=ダム・ド・ブーローニュ」と、聖母子像を安置するブーローニュ司教座聖堂は、中世から20世紀に到るフランスの歴史とともに歩みました。以下では四つの時期に分けて、12世紀から19世紀までの歴史を概観します。


1. 12世紀から16世紀半ばまで

 1100年頃、ブーローニュ公夫人イド (Ide/Ida de Boulogne, Ste. Ide, c. 1040 - 1113)、後の聖イドの命により、大きなロマネスク式聖堂の建設が始まりました。聖堂は主要部分の建設に200年を要し、最後にゴシック式の内陣が完成したのは16世紀初頭のことでした。

 聖イドには大勢の子供がいましたが、そのうちのひとりゴドフロワ・ド・ブイヨン (Godefroy de Bouillon, c. 1058 - 1100) は 1095 - 1099年に行われた第一次十字軍に従軍して、1099年、エルサレムを攻略します。ゴドフロワは王に選ばれましたが、キリストが茨の冠を被ったエルサレムで王冠を戴くことはできないとして、「聖墳墓の守護者」(Avoué du Saint-Sépulcre) を名乗り、男爵の称号に甘んじました。ゴドフロワには城砦を象った冠が贈られましたが、ゴドフロワはこれを数々の聖遺物とともに母イドの許に送り、イドはこの冠で聖像を飾りました。ゴドフロワの冠はフランス革命期に破壊されましたが、後になって復元されています。


(下) Émile Signol (1804 - 1892), "Godefroy de Bouillon, Passage du Bosphore en 1097", 1854




 この頃のブーローニュはサンティアゴ・デ・コンポステラへの道に組み込まれて、あたかも現代のルルドのように有力な巡礼地となりました。カンタベリー大司教であったパヴィアのランフランク (Lanfranc de Pavie, 1005 - 1089) や、クレルヴォーの聖ベルナール (Bernard de Clairvaux, 1090 - 1153) のほか、アンティオキアやシナイ山の司教たち、後にはフランス国王フィリップ2世 (Philippe II dit Philippe Auguste, 1165 - 1223)、同ルイ9世 (Louis IX de France, 1214 - 1270)、イングランド国王ヘンリー3世 (Henry III, 1207 - 1272)、フランス国王フランソワ1世 (François I, 1494 - 1547)  もブーローニュを訪れています。


 1308年にはフランス国王フィリップ4世 (Philippe IV, dit Philippe le Bel, 1268 - 1314) の娘イザベル (Isabelle de France, 1292 - 1358) とイングランド国王エドワード2世 (Edward II, 1284 - 1327) の結婚式が、聖地ブーローニュに各地の王を招いて盛大に行われました。このときフィリップ4世は金とエマイユのリモージュ製聖遺物箱をブーローニュの聖堂に寄進しています。

 この聖遺物箱はリモージュの金細工師ギュイヨーム・ジュリアン (Guillaume Julien) の作品で、直径 70.6ミリメートルの平たい円筒形で、122グラムの重量があります。1111年頃、ゴドフロワ・ド・ブイヨンがエルサレムから母(聖イド)に送ったキリストの「聖血」が入っており、現在クリプト(地下礼拝堂)に安置されています。


(下) フィリップ4世が贈った聖遺物箱。金の板にエマイユで植物文様を描いています。蓋にラテン語で「イエズス・キリストの御血より」(DE SANGUINE IESU CHRISTI) と書かれています。




 ブーローニュ伯ははもともとアルトワ伯の封臣でしたが、アルトワ伯ルイ2世 (Louis II de Flandre, 1330 - 1384) が亡くなると、アルトワ伯領はブルゴーニュ公領に組み込まれました。しかるに 1477年、最後のブルゴーニュ公シャルル (Charles de Valois-Bourgogne, dit Charles le Téméraire, 1433 - 1477) の死によって、旧ブルゴーニュ公領の大部分はハプスブルク家のものになりました。ただしオーヴェルニュとブーローニュの伯でありラ・トゥール領主であったベルトラン6世 (Bertrand VI de La Tour d'Auvergne, 1417 - 1497) は、1477年、ルイ11世がピカルディーを王領とした際、ブーローニュをフランスに譲りました。このときルイ11世は剣も帽子も着けずに聖母像の前に跪き、重量2000エキュの金で出来た心臓を捧げました。またルイ11世は、将来即位するフランス国王たちが同様の捧げ物をするように定めました。


 イングランド国王ヘンリー8世 (Henry VIII, 1491 - 1547) は、1544年7月19日から約二ヶ月間に亙ってブーローニュを包囲し、9月にブーローニュを占領しました。1546年のアルドル条約 (le traité d'Ardres) によって、ヘンリー8世は1554年までブーローニュを占領し、その期間が満ちたときにフランスが200万エキュでブーローニュを買い戻すことが定められました。

 ブーローニュを占領している間に、イングランドはブーローニュの聖母の聖堂から聖母像そのものを含む数多くの宝物を奪い、次いで聖堂の大部分を取り壊して、残りの部分を武器庫に使いました。1550年、ブーローニュはアンリ2世 (Henri II, 1519 - 1559) によって40万エキュで買い戻され、聖母像も聖堂に戻されました。


2. 宗教戦争の時代

 1553年、神聖ローマ皇帝カール5世 (Karl V, 1500 - 1558) は、ブーローニュの南東約20キロメートルにあるテルアンヌ (Thérouanne ノール=パ=ド=カレー地域圏パ=ド=カレー県)を攻略します。当時テルアンヌには司教座が置かれていましたが、司教はブーローニュに逃れて留まりました。そのためブーローニュの聖母の聖堂は、司教座聖堂となりました。(註2)


 1557年10月11日の夜、ブーローニュ司教座聖堂はユグノーの襲撃に遭いました。ユグノーの過激な指導者であった貴族ジャン・ド・フロアール (Jehan de Frohart) の部下、ベルトラン・ブリヤール (Bertrand Brillart) は、数人の仲間とともに「ブーローニュの聖母」の首に縄を掛けて引き倒しました。彼らは聖堂に放火して木造部分を焼き、ステンドグラスを壊し、さらに「ブーローニュの聖母」像をも焼こうとしましたが、像は燃えませんでした。ジャン・ド・フロアールはヴィムルー(Wimereux ノール=パ=ド=カレー地域圏パ=ド=カレー県 註3)にある自身の居城、オンヴォー城 (château d'Honvault) に聖母像を持ち帰り、厩肥の山に投げ捨てました。

 しかし「ブーローニュの聖母」像は厩肥に埋められても傷みませんでした。そこでジャン・ド・フロアールは聖母像を洞窟の中の井戸に投げ込みました。伝承によると、瀆聖を嘆く聖母の涙が落ちる音が、井戸から時折聞こえてきたといいます。ジャン・ド・フロアールは、聖母像を探しに井戸に来る者はいないであろうと考えたのですが、ジャン・ド・フロアールの息子の妻は信心深い女性であったので、聖母像を井戸から出して、安全なところに隠しました。

 1598年の「ナント勅令」によってカトリックとプロテスタントの融和が到来すると、ジャン・ド・フロアールは悔恨の情を抱きました。息子の妻はジャンに聖母像が無事であることを打ち明けましたが、聖母像をどのような形でブーローニュのカトリック教会に返却すればよいか、ジャンは悩みました。

 この頃、ブーローニュから10キロメートルあまり東南東のデーヴル(Devres ノール=パ=ド=カレー地域圏パ=ド=カレー県)の森に、ヴェスパシアン・ド・フォンテーヌ (Vespasien de Fontaines) という隠修士がいました。1607年、ジャンは死を前にしてヴェスパシアンに聖母像のことを打ち明け、ヴェスパシアンから知らせを受けたブーローニュの司祭アントワーヌ・ジロ (Antoine Gillot) がオンヴォー城を訪れて、聖母像をブーローニュに持ち帰りました。

 ブーローニュの人々は聖母像の帰還に熱狂しました。真正の「ブーローニュの聖母」であると確かめられた後も、聖母像はしばらくの間ブーローニュから16キロメートル南東のサメル(Samer ノール=パ=ド=カレー地域圏パ=ド=カレー県)にあるサン=ヴュルメル修道院 (l'abbaye de Saint-Wulmer) に預けられ、司教座聖堂が新しく建て直された1630年になってようやく、元の場所に戻されました。


3. 17世紀からフランス革命期

 1477年、ブーローニュを譲られた際に、ルイ11世は重量2000エキュの金の心臓をブーローニュの聖母に捧げ、将来のフランス国王たちも同様の捧げ物をするように定めたのでしたが、この誓いは果たされていませんでした。ルイ13世 (Louis XIII, 1601 - 1643) は、ブーローニュの聖母に金の心臓を捧げる費用に充てるため、ブーローニュにおいて大規模な伐採を命じました。またルイ13世の妃アンヌ・ドートリシュ (Anne d'Autriche, 1601 - 1666) と子ルイ14世 (Louis XIV, 1638 - 1715) は、ブーローニュ司教座聖堂に祭壇と内陣仕切りを造るために、12,000リーヴルを寄進しました。ルイ15世 (Louis XV, 1710 - 1774) は 6,000リーヴルを寄進しています。


(下) ブーローニュの聖母に金の心臓を捧げるルイ14世。フランス革命の際に破壊されたブーローニュ司教座聖堂の大理石浮き彫り。ブーローニュ=シュル=メール市立美術館 (Château-musée de Boulogne-sur-Mer) 蔵




 フランス革命期の 1793年、「ブーローニュの聖母」はついに焼却されてしまいます。右手は焼却の前に像から外されていたので、辛うじて難を逃れました。聖母像の右手は、現在は手を象った聖遺物箱に入れられて安置されています。ブーローニュ司教座聖堂は武器庫、倉庫に使われたあと、払い下げられて取り壊され、石材は売却されました。「ブーローニュの聖母」像は、革命の混乱が過ぎ去ったあと、復元像が制作されましたが、司教座聖堂は再建されないまま、当地の受胎告知修道会修道院(註4)の礼拝堂が代わりに使われていました。


4. 19世紀

 1814年の王政復古により即位したルイ18世 (Louis XVIII, 1755 - 1824) は、「ブーローニュの聖母」像に巡礼を行いました。19世紀の初めにおいて、ブーローニュ=シュル=メール旧司教座聖堂は破壊されたままでしたが、1827年以降、ブノワ・アガトン・アフラング神父 (Mgr. Benoît Agathon Haffreingue, 1785 - 1871) の主導の下に再建が始まり、1875年に壮麗な聖堂が完成しました。聖堂は 1879年にバシリカとされました。

 ブーローニュ=シュル=メールの「無原罪の御宿りのバシリカ」(La Basilique Notre-Dame de l'Immaculée Conception) はネオ・ゴシック様式で、内陣の上部には高さ約 100メートルの円蓋付きの塔があります。128 x 42メートルの広さがあるクリプトは、フランス国内でも最大のものの一つです。

(下) ブーローニュ=シュル=メールの「無原罪の御宿りのバシリカ」 クリプトの一部






【ノートル=ダム・デュ・グラン・ルトゥール 大いなる回復の聖母】

 多色刷り石版による小聖画 「ノートル=ダム・デュ・グラン・ルトゥール」 当店の商品です。


 1943年から 1948年にかけて、「ノートル=ダム・ド・ブーローニュ」(Notre-Dame de Boulogne ブーローニュの聖母)を象った四体の聖母子像がフランス全土を巡回し、平和の回復と捕虜の帰還を祈るとともに、神への立ち返り、回心を呼びかけました。このときフランス全土を巡った「ノートル=ダム・ド・ブーローニュ」は、「ノートル=ダム・デュ・グラン・ルトゥール」(Notre-Dame du Grand Retour 大いなる回復の聖母)と呼ばれています。

 全フランスの町や村では、「ノートル=ダム・デュ・グラン・ルトゥール」を地元に迎えて熱狂しました。大人や若者たちは裸足になって聖母の台車を牽き、子供たちはその周りを歩き、女性たちも沿道に出て、住民総出で聖母子像を迎えたのです。フランス本土における「ル・グラン・ルトゥール」は 1947年に終了しましたが、四体の「ノートル=ダム・デュ・グラン・ルトゥール」がそれまでに立ち寄った場所は 88司教区の 16,000教区、その行程は12万キロメートルに及びました。聖母像は行く先々で祈りと熱狂を以って迎えられ、回心をもたらし、奇蹟を起こしました。




註1 ブーローニュ=シュル=メール (Boulogne-sur-Mer) とは、フランス語で「海辺のブーローニュ」という意味です。ローマ帝国時代、ブーローニュは「ボノニア」(BONONIA) あるいは「ボロニア」(BOLONIA) と呼ばれていました。

 北イタリアのボローニャ(Bologna エミリア=ロマーニャ州ボローニャ県)は、紀元前四世紀にこの地を攻略したボイイー族 (BOII) によって「ボノニア」(BONONIA) と名付けられました。ボノニアはケルト系の地名と考えられていますが、ラテン語地名としても採用され、現在のボローニャは、ラテン語では「ボノニア」と呼ばれています。

 定説によると、ブーローニュ=シュル=メールの「ブーローニュ」は、このボノニア、すなわちボローニャに由来します。「ガリア戦記」によると、紀元前55年、ユリウス=カエサルは現ブーローニュ=シュル=メールに艦隊「クラーッシス・ブリタンニカ」(CLASSIS BRITANNICA) を集めて宿営し、ブリタンニア侵攻の準備をしました。その際にこの場所が、イタリアのボノニア(ボローニャ)に因み、「ボノニア」と呼ばれるようになったと考えられています。


 「ブーローニュ」という地名はフランス国内の各地にあります。有名なところでは、パリ市街西端にあたる16区の西半分を占める広大な「ブーローニュの森」(le bois de Boulogne) が挙げられます。

 このページの本文で後述するように、フランス国王フィリップ4世 (Philippe IV, dit Philippe le Bel, 1268 - 1314) の娘イザベル (Isabelle de France, 1292 - 1358) とイングランド国王エドワード2世 (Edward II, 1284 - 1327) の結婚式が、1308年、聖地ブーローニュ=シュル=メールで盛大に行われました。

 パリに戻ったフィリップ4世は、パリから手軽に巡礼に訪れることができるよう、ブーローニュの聖母の聖地をパリ近郊に作ることに決め、フィリップ5世 (Philippe V, c. 1292 - 1322) の手によって、1319年あるいは20年、現在の「ブーローニュの森」の少し南に、新聖堂の定礎が行われました。聖堂は「ノートル=ダム=ド=ブーローニュ=ラ=プティット」(Notre-Dame-de-Boulogne-la-Petite 小さなブーローニュの聖母教会)と名付けられ、1330年、パリ司教ユーグ2世 (Hugues II de Besançon, c. 1270 - 1332) によって祝別されました。聖堂にはブーローニュの聖母を象った銀製鍍金の聖母像が納められました。

 「ノートル=ダム=ド=ブーローニュ=ラ=プティット」は、現在では「ノートル=ダム=デ=ムニュ・ド・ブーローニュ=ビアンクール」(l'église Notre-Dame des Menus de Boulogne-Billancourt ブーローニュ=ビアンクールの小さき者たちの聖母教会)と呼ばれています。


註2 1801年、第一執政ナポレオンと教皇ピウス7世の間にコンコルダ(concordat 政教条約)が結ばれました。ブーローニュ=シュル=メール司教区とサン=トメール (Saint-Omer) 司教区は、コンコルダに基づいて、1801年9月29日、アラス (Arras) 司教区に統合されました。これにより、アラス司教区の領域は、フランス共和国の行政区であるパ=ド=カレー県と一致することとなりました。1853年11月23日以降、司教区の名前は「アラス=ブーローニュ=サントメール司教区」(le diocèse d'Arras-Boulogne-Saint-Omer) となっています。

註3 ヴィムルーはブーローニュ=シュル=メールの北西に接する町です。

註4 受胎告知女子修道会 (Les Sœurs de l'Annonciade, ORDO DE ANNUNTIATIONE BEATAE MARIAE VIRGINIS, O.Ann.M.) はフランシスコ会に属する観想修道会です。ブーローニュ=シュル=メールにあった受胎告知女子修道会の修道院は、現在はブーローニュ=シュル=メール市立図書館となっています。




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