聖なる家のバシリカ
Basilica della Santa Casa, Loreto




 ロレト (Loreto) は長靴の形をしたイタリア半島のふくらはぎのあたり、アドリア海にほど近いマルケ州アンコーナ県の町です。ロレトには、天使によってナザレから運ばれてきた聖母マリアの生家、「聖なる家」(La Santa Casa) があり、この小屋を保護するために、美しいバシリカが建設されています。

 1910年にロレトの聖母は飛行機の操縦士の守護聖女とされ、毎年 9月8日に行列が行われています。


【ロレトの「聖なる家」】

 ロレトの「聖なる家」があるバシリカはカトリック教会有数の大巡礼地で、その伝統は 15世紀あるいはそれ以前に遡ります。

 「聖なる家」自体は床の寸法 8.5 x 3.8 メートル、高さ 4メートル程の質素な石造りの小屋で、北側に入り口、西側に窓があります。もともとの壁は上方へと延長されて、天井は半円穹窿となっています。

 小屋の内部にはレバノン杉の黒い聖母子像が安置され、その下には祭壇があって、「ここで言葉は肉となった」(HIC VERBUM CARO FACTUM EST.) と刻まれています。 「ロレトの聖母」像において、聖母子は一つのマントに包まれていますが、これは三位一体の第二の位格である神なるイエズスが、処女マリアを通して受肉したことを表現する図像で、16世紀末に考案されたものです。




 興味深いことに、「聖なる家」は地表に置かれているだけで、地中部分の基礎を欠いています。また壁の漆喰及び建物の床となっている岩石はロレト近辺のものではなく、ナザレにおいて普通に見られるものであるともいわれています。

 ロレトの聖なる家では数々の奇跡的な治癒が起こり、歴代の教皇や、聖カルロ・ボッローメオ (St. Carlo Borromeo, 1538 - 1584)、聖フランシスコ・サレジオ (St. Franciscus Salesius, 1567 - 1622)、聖イグナチオ・デ・ロヨラ (St. Ignatius de Loyola, 1491 - 1556)、聖アルフォンソ・リグオリ (St. Alphonsus Maria a Ligorio, 1696 - 1787) 等の聖人たちをはじめ、多数の巡礼を集めてきました。1580年代以降には、ロレトの聖なる家に倣った小屋がヨーロッパ各地に建てられて、その数はやがて数百にも及びました。1587年には教皇シクストゥス5世によって「ロレトの連祷」が公認されました。


 16世紀中頃のヨーロッパは宗教改革によってカトリック教会が大きな打撃を受けていた時代であるとともに、東方ではオスマン・トルコがその隆盛の絶頂期を迎えていた時代でした。東ローマ帝国は 1493年5月29日、コンスタンティノープルが陥落して滅亡し、西ヨーロッパの巡礼者が聖地を訪れることもできなくなっていました。

 しかし 1571年10月7日、ローマ教皇、スペイン、ヴェネツィア・ジェノヴァをはじめとするイタリアの諸国家、マルタ騎士団の連合艦隊が、レパントの海戦においてオスマン・トルコを破りました。教皇ピウス5世はこの勝利を聖母に感謝し、10月7日を聖母の祝日に定めました。この祝日は「ロザリオの聖母の日」を呼ばれるようになって、聖母の信心会が各地に結成されました。

 ロレトの聖なる家への巡礼が盛んになったのには、以上のような時代背景があります。ロレトの聖母と聖なる家は、宗教改革によって打撃を受けたカトリック教会の再建に大きな役割を果たしました。ロレトの聖母は 1669年に「マルティロロギウム・ローマーヌム」("Martyrologium romanum ad novam kalendarii rationem et ecclesiastica historia veritatem restitutum, Gregorii XIII pont. max. iussu editum") に加えられ、1699年にはロレトの聖母に捧げる聖務日課とミサが定められています。


【ロレトの「聖なる家」に関する伝承】

 ロレトの聖なる家が初出する文献は、1474年に出版されたフラヴィオ・ビオンド (Flavio Biondo seu FLAVIUS BLONDUS, 1392 - 1463) の「イタリア・イルストラータ」("Italia Illustrata", 1448 - 58) です。バティスタ・マントヴァーノ (Battista Mantovano, seu BAPTISTA MANTUANUS, 1447 - 1516) の著作にもロレトの聖なる家への言及があります。ロレトの「聖なる家」に関して現在伝わっている形の伝承は、バティスタの著作にみられるもので、その内容は次の通りです。

 ロレトの「聖なる家」は聖母が生まれ育った家であるとともに、天使ガブリエルから受胎を告知されたときに住んでいた家、幼少のイエズスと暮らした家、またイエズスの昇天後に聖母が住んだ家でもあります。使徒たちがこの家を教会としましたが、コンスタンティヌス1世(大帝)の母后ヘレナ (St. Helena, FLAVIA JULIA HELENA AUGUSTA, 246/50 - 330) の指示によって、家を保護するバシリカが建てられ、エルサレム王国の時代まで、ナザレにおいて崇敬を集めていました。

 やがてイスラムが勢力を盛り返して失地を回復し、1291年、最後の拠点アクラが陥落してエルサレム王国が滅びると、聖母の家は天使によってクロアティアのリエカ Rijeka (フィウメ Fiume)近郊に運ばれました。突然出現した家に驚いた羊飼いたちが教区司祭を現場に案内したところ、聖母マリアが現れて、これが聖母の家であることを示したといわれます。聖母の家はリエカにおいて数々の病気治癒の奇跡を起こしましたが、イスラム教徒がアルバニアに侵入したために、1294年12月10日、再び天使によってリエカからロレトまで運ばれました。聖なる家はロレトに運ばれた後にも三度位置を変え、翌 1295年に現在の位置が確定しました。

(下) Giovanni Battista Tiepolo, The Miracle of the Holy House of Loreto (details), c. 1744, oil on canvas, 147 x 93 cm, The J. Paul Getty Museum, Los Angeles




 ロレトの聖なる家に関する伝承は以上の通りですが、ユリス・シュヴァリエ (Ulysse Chevalier, 1841 - 1923 註1) はその著書(Notre Dame de Lorette. Etude critique sur l’authenticite de la Santa Casa, 1906) において、次の事実を指摘しました。

・ロレトあるような聖母の家がそもそもナザレに存在していたという古い記録は無く、聖家族の家としてナザレで巡礼を集めていたのは洞窟であったこと

・1291年にナザレから突如として家屋が消え失せたというような出来事はパレスティナ側の記録に見当たらないこと、

・聖母の家がロレトに運ばれてきたのは伝承によると 13世紀の終わりであるが、ロレトの聖なる家に関する記録は、15世紀半ばの著作であるフラヴィオ・ビオンドの「イタリア・イルストラータ」以前に遡らないこと

・古い記録によると、12世紀から13世紀にかけて、ロレトには聖母に奉献された聖堂があったこと。すなわち聖母の家がロレトに運ばれてきたとされる 13世紀の終わりよりも前の時代に、ロレトは聖母崇敬の土地であったこと


 それゆえロレトの聖なる家の起源に関しては、霊験あらたかな聖母像がリエカからロレトに運ばれ、これを安置した小屋が崇敬を集めるようになって、やがて聖母の家の伝承が生まれたのではないかと考えられています。


【聖なる家のバシリカ】

 ロレトの聖なる家のバシリカ (Basilica della Santa Casa di Loreto) はジュリアーノ・ダ・マイアーノ (Giuliano da Maiano, c. 1432 - 1490)、ジュリアーノ・ダ・サンガッロ (Giuliano da Sangallo, c. 1443 - 1516)、ドナート・ブラマンテ (Donato Bramante, 1444- 1513) の手によって建設された後期ゴシック様式の聖堂です。正面の三つのブロンズ製扉、及び中央入り口の上にある等身大の聖母子像は、いずれもジロラモ・ロンバルド (Girolamo Lombardo, c. 1505/10 - 1584/89) の作品です。また内部はドメニキーノ (Domenichino, 1581 - 1641) やグイド・レーニ (Guido Reni, 1575 - 1642) によるモザイクで飾られています。

 聖なる家は大理石の衝立で囲われています。この衝立はブラマンテの構想によるもので、四つの面には聖母の生誕、受胎告知、イエズスの降誕、聖なる家のロレト到着が彫刻されています。衝立の製作が始まったのは 1507年で、完成までに数十年の歳月がかかっており、サンソヴィーノ (Andrea dal Monte Sansovino, c. 1467 - 1529)、ジロラモ・ロンバルド(前出)、バンディネッリ (Bartolommeo Bandinelli, 1493 - 1560)、グリエルモ・デッラ・ポルタ (Guglielmo della Porta, c. 1500 - 1577) をはじめとするルネサンス期の彫刻家たちが鑿(のみ)を振るっています。




註1 ユリス・シュヴァリエはカトリック司祭で、リヨンのカトリック大学の教授でもあった人です。常に客観的、実証的態度で資料に接し、数多くの優れた研究を成し遂げました。

 トリノの聖骸布に関するシュヴァリエの研究はよく知られています。シュヴァリエは聖骸布を科学的に分析して、14世紀よりも以前に遡るものではないことを示しました。トリノの聖骸布に関するシュヴァリエの著作には次のものがあります。

Le Saint Suaire de Turin est-il l'original ou une copie ?, Chambery, 1899
Etude critique sur l'origine du Suaire de Lirey-Chambery-Turin, Paris, 1900
Le Linceul du Christ, Paris, 1902
Le Saint Suaire de Lirey-Chambery-Turin et les defenseurs de son authenticite, Romans, 1901 et Paris, 1902
Le Saint Suaire de Turin, Paris, 1902
Le Saint Suaire de Turin et le Nouveau Testament, Paris, 1902
Autour des origines du Suaire de Lirey, avec documents inedits, Paris, 1903

 シュヴァリエの最も重要な著作は「レペルトワール」で、中世に関する浩瀚かつ優れた資料集成として知られています。

Repertoire des sources historiques du moyen age (Bio-bibliographie, 1877 - 88, Topo-bibliographie, 1894 - 1903)



関連商品


 ロレトの聖母 聖なる家のメダイ




イタリアの教会と修道院 ローマ・カトリック インデックスに戻る

諸方の教会と修道院 ローマ・カトリック インデックスに移動する


キリスト教に関するレファレンス インデックスに移動する


キリスト教関連品 商品種別表示インデックスに移動する

キリスト教関連品 その他の商品とレファレンス 一覧表示インデックスに移動する



アンティークアナスタシア ウェブサイトのトップページに移動する




Ἀναστασία ἡ Οὐτοπία τῶν αἰλούρων ANASTASIA KOBENSIS, ANTIQUARUM RERUM LOCUS NON INVENIENDUS