小さな楕円形メダイを一回り大きな枠に鑞付け(ろうづけ 溶接)し、宙に浮くように軽やかなデザインで仕上げた美しいメダイ。内側のメダイには、表(おもて)面にノートル=ダム・ド・ルルド(ルルドの聖母)の横顔、裏面にノートル=ダム・ド・ルルド出現の場面を、高度なエマイユ技法で表しています。
エマイユの色は青が中心です。青は天空の色であるゆえに天国の象徴であり、「マリアン・ブルー」と呼ばれてマリアの象徴でもあり、フランスを象徴する色でもあります。
表(おもて)面には、いまだ少女に過ぎない歳若き聖母のミニアチュール(細密画)を、エマイユ・パン (email peint)、すなわち手描きエマイユで描いています。
手描きエマイユでは「フリット」(仏 fritte 英 frit)と呼ばれる絵具を使います。「フリット」は非常に細かいガラス粒子を、ニンニクの精油等、焼成後に煤を残しにくい油で溶いたものです。描画には筆を使うのが基本ですが、細い線を描くために針状の道具を使うこともあります。
本品は次のような過程で制作されています。
1. ブロンズを鋳造して、マリアの横顔のカメオを制作する。
2. マリア像の背景に濃いスマルト(青色半透明ガラス)のフリットを塗布して焼成する。
3. メダイ裏面に明るいスマルト(青色半透明ガラス)のフリットを塗布し、一度目よりもわずかに低い温度で二度目の焼成を行う。
4. メダイ表(おもて)面のマリア像の部分に明るいスマルト(青色半透明ガラス)のフリットを塗布し、二度目よりもわずかに低い温度で三度目の焼成を行う。これによりマリアの全体が明るい青色の半透明エマイユで被われる。なおメダイ裏面のエマイユもこれと同じ温度で焼成される。
5. マリアの顔に肌色不透明ガラスのフリットを塗布し、三度目よりもわずかに低い温度で四度目の焼成を行う。これによりマリアの顔が不透明の肌色エマイユで被われる。
6. マリアの顔に眼と髪を描き、後光を金色のフリットで縁取り、四度目よりもわずかに低い温度で五度目の焼成を行う。
7. 楕円形画面の全面に無色透明ガラスのフリットを塗布し、最も低い温度で六度目の焼成を行う。
8. メダイの縁に金めっきを施す。
フリットの色が異なると融点も異なるため、手描きエマイユの焼成は多数回に及びますが、変色や滲(にじ)みを避けるために、焼成温度の調整は困難を極めます。最後に塗布する無色透明のガラスのフリットが陶磁器でいう釉薬(うわぐすり)の役割をし、下の各層を保護するとともに、表面に艶を与えます。
浅浮き彫り(フランス語で「バス=タイユ」)の上にガラス・エマイユを施す技法は「エマイユ・シュル・バス=タイユ」(l'émail sur basse-taille)
と呼ばれ、本品はその一例です。この技法に使われる色ガラスは、完成品における厚さが非常に薄いゆえに透明(トランスペアレント transparent)に見えますが、少しでも厚味を増すと、非常に濃い色のせいで半透明(トランスルーセント
translucent)になります。上の説明で、二色のスマルト(コバルトガラス)を「半透明ガラス」「半透明エマイユ」と表記したのは、この理由によります。
この楕円形メダイは、縦横の画面サイズが 14 x 10ミリメートル、聖母の顔の高さが4ミリメートルしかありません。フランスはエマイユ工芸が発達した国で、小さな画面に手作業で描かれた本品の細密エマイユも美術工芸品と呼べる水準に達しています。中世以来発達を続けたフランス・エマイユ工芸の技術が、アール・ポピュレール(art
populaire 民衆芸術)である信心具にも活かされています。
裏面にはルルドにおける聖母出現の場面を八角形の画面に浮き彫りで表し、明色のスマルト(明るい青色のコバルトガラス)によるエマイユを施しています。
キリスト教において、「八」は山上の垂訓(マタイによる福音書 5~7章)に述べられた八つの幸福を表します。また「八」という数字は、天地創造に要した日数すなわち完全数「七」の次の数であるゆえに、物事の新たな始まり、新生、生まれ変わり、新しい命の象徴でもあります。全身を水中に浸す洗礼が行われていた時代に、洗礼堂が八角形のプランで建てられていたのも、「八」が有するこの象徴性ゆえです。
この面に彫られているのは、1858年3月25日、ルルドの聖母が16回目に出現した際に、ベルナデットに名前を問われたときの様子です。
エヴァの罪に傷つかない無原罪の御宿り、聖母マリアは、素足で茨の繁みに立っています。聖母の右手首には、15連のロザリオが掛けられています。少女ベルナデットはヴェールを被り、右手にシエルジュ(大ろうそく)、左手にロザリオを持って、聖母の前に跪いています。
この日、ベルナデットに名を問われたマリアは、胸の前で手を合わせて眼を天に向け、「わたしは無原罪の御宿りです」(Que soy era Immaculada Concepciou. /Je suis l'Immaculee Conception.) と答えました。
この面は単色の色ガラスによる「エマイユ・シュル・バス=タイユ」(浅浮き彫りにエマイユ掛け)で、ガラスの厚みの差にしたがって色ガラスの諧調(明暗)が変化します。浮き彫りの立体性あるいは奥行きが、エマイユを掛けることでいっそう強調されているのがよくわかります。
「エマイユ・シュル・バス=タイユ」では、下地の金属板を彫りくぼめ、窪みの内部に浅浮き彫りを制作します。浮き彫りの最も突出した部分は、窪みを囲む金属の縁よりもわずかに低くなっています。この窪みに半透明の色ガラスのフリットを入れて焼成すると、浮き彫りの高低にしたがって色ガラスの諧調が無段階に変化し、奥行きを感じさせるエマイユが出来上がるのです。
「エマイユ・シュル・バス=タイユ」のメダイは、奥行を視覚的に強調することで、深みのある精神性、神秘性さえ感じさせます。世俗のメダイユや勲章、ジュエリーとは位置づけの異なる信心具に、「エマイユ・シュル・バス=タイユ」はこのうえなくふさわしい技法です。
上部の環にはフランス語で「プラーク・オール・ラミネ」(plaque or laminé) と刻印されています。これは英語でいう「ロールド・ゴールド・プレイト」(rolled
gold plate) のことで、1960年代半ば以降に多用されるようになった「エレクトロプレイト」に比べて金の層が格段に厚く、優れた品質を誇ります。60年以上前に制作されたにもかかわらず、本品の金(きん)が剥がれていないことからも、この時代の「プラーク・オール・ラミネ」(ロールド・ゴールド・プレイト)の質の高さがわかります。
メダイは全体的にたいへん良好なコンディションです。エマイユにも破損はありません。拡大写真では金属部分があまり綺麗に見えませんが、実物は写真よりもずっと綺麗です。