稀少品 心身を癒し給うブルターニュの守護聖女 《サンタンヌ・ドーレ巡礼記念メダイ》 生命と愛のエクス・ヴォートー 17.3 x 12.0 mm


突出部分を含むサイズ 縦 17.3 x 横 12.0 mm


フランス 二十世紀前半



 フランス北西部ブルターニュにある聖アンナの聖地、サンタンヌ・ドーレ(Sainte Anne d'Auray)の巡礼記念メダイ。愛らしいサイズの作品で、植物文で飾られた心臓(ハート)形が特徴です。





 新約聖書正典は二十七巻の独立した書物を一冊にまとめたものです。二十七巻のうち最初の四巻はイエス・キリストの伝記となっており、これを福音書といいます。福音(ふくいん、エヴァンゲリオン)とは「良い知らせ」という意味です。正典福音書は「マタイによる福音書」、「マルコによる福音書」、「ルカによる福書書」、「ヨハネによる福音書」の四書ですが、このうち「マタイによる福音書」一章一節から十七節、ならびに「ルカによる福音書」三章二十三節から三十八節にはイエスの家系が記録されています。

 イエスの家系の記述に関して「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」を比べると、両福音書に共通する先祖の名が大きく異なることに気付きます。すなわち両福音書が挙げるアブラハムからダヴィデまでの人名は概(おおむ)ね一致していますが、ダヴィデよりも後の代の人名はイエスの祖父に至るまで大きく相違し、イエスの父ヨセフに至ってようやく一致します。

 「マタイによる福音書」と「ルカによる福書書」はヨセフの父として別々の人物名を挙げていますが、一見したところ矛盾するようにも思える両福音書の記述は、二人の父のうち一方をヨセフの実父、もう一方をヨセフの義父(妻マリアの実父)と考えれば合理的に説明できます。この説では「マタイによる福音書」がヨセフの家系を、「ルカによる福音書」がマリアの家系を、それぞれ記述していると考えられています。二世紀に成立した外典「ヤコブ原福音書」によると、マリアの父の名はヨアキム、母の名はアンナです。「ルカによる福音書」がこれと整合するとすれば、エリはおそらくエリアキムの別名であり、「ヤコブ原福音書」のヨアキムと同一人物ということになります。エリアキムというユダヤ人名は、「マタイによる福音書」一章十三節にも出てきます。





 本品の表(おもて)面には、半艶消しの布目模様を背景に、聖アンナが娘マリアと並んで立つ姿が浮き彫りで表されています。アンナとマリアを囲むように、唐草風の植物文が刻まれています。

 聖アンナに関する後代の人々の知識は「ヤコブ原福音書」に依拠していますが、同書によるとマリアは三歳から十二歳までエルサエム神殿の至聖所で育てられたことになっています。したがってアンナの横に立つマリアは、十二歳になって神殿を出たときの姿ということになります。十二歳のマリアの体格が母に比べて小さすぎますが、これはマリアが小さく表されているのではなく、むしろアンナが大きく表現されているのであって、中世から近世の西ヨーロッパでアンナが誇った絶大な人気を思い起こさせます。




(上) ブルターニュのパルドン祭 1890年頃の彩色フォトグラヴュア 画面サイズ 23 x 18 cm 当店の商品です。


 フランスの北西端から大西洋に突き出たアルモリカ、ブルターニュ半島は、聖アンナへの崇敬がとりわけ篤い地方です。フランス最大の巡礼地がピレネー山中のルルドであることは言を俟ちませんが、殊ブルターニュに関しては、サンタンヌ・ドーレこそがキリスト者の訪れるべき巡礼地と考えられています。

 ブルトン語で書いた作家アナトール・ル・ブラーズ(Anatole Le Braz, 1859 - 1926)が蒐集した伝説によると、聖アンナはブルターニュ地域圏フィニステール県にある海辺の小村プロネヴェ=ポルゼ(Plonevez-Porzay)の出身で、冷酷な領主に嫁ぎました。夫は子供嫌いで、アンナが妊娠してマリアを生むと母子を城から追い出し、母子はトレファンテク(Trefuntec)の海岸から天使が導く舟に乗って、ガリラヤにたどり着きます。娘のマリアはガリラヤで成長し、後にイエスを生みます。アンナはその後ブルターニュに戻り、ドゥアルヌネ(Douarnenez)の入り江に面したラ・パリュ(la Palue)、現在のプロネヴェ=ポルゼ(Plonévez-Porzay ブルターニュ地域圏フィニステール県)に居を定めて、祈りと慈善の生活を送りました。イエスはペトロとヨハネを伴ってラ・パリュにアンナを訪ね、祖母の求めに応じて泉を湧出させました。

 イエスが湧き出させた泉の傍らには礼拝堂サンタンヌ・ラ・パリュ(la chapelle Sainte-Anne-la-Palud)が建てられて、病者と貧者の避難所となりました。ここはブルターニュの聖アンナにまつわる最古の巡礼地で、伝承によるとその歴史を六世紀初頭に遡ります。フランス革命が起こるまで、サンタンヌ・ラ・パリュ礼拝堂はランデヴェネック(Landévennec ブルターニュ地域圏フィニステール県)の聖ゲノレ修道院(l'abbaye Saint-Guénolé de Landévennec)に属していました。なりました。聖ゲノレ修道院は 1793年に廃院になり、荒れるに任されましたが、1950年にベネディクト会系スビヤコ会(仏 la congrégation de Subiaco Mont-Cassin 羅 CONGREGATIO SUBLACENSIS, Cong. Subl. O.S.B.)が地所を購入し、同年から 1965年にかけて新聖堂が建設されました。毎年八月の最後の終末には大勢の巡礼者が集まり、当地で大パルドン祭(Le grand Pardon)が行われています。サン=タンヌ=ラ=パリュの大パルドン祭は千数百年の伝統を誇り、ブルターニュのパルドン祭のなかでも最古のものです。




(上) イヴ・ニコラジク フランスの小聖画(部分) 当店の商品です。


 また別の伝承によると、聖アンナは 1623年から翌年にかけてモルビアン県オーレ(Auray)の農夫イヴ・ニコラジク (Yves Nicolazic, 1591 - 1645)に何度も出現し、自分(聖アンナ)にゆかりの地である彼の村に、聖アンナに献じた礼拝堂を建設することを求めました。1625年3月7日、自身に対する聖アンナの出現を証明するために、ニコラジクは大勢の村人が見守る場で地中から一体の像を掘り出します。この像は後に当地のカプチン会の修道士たちによって手が加えられて聖アンナの像として認知されるようになり、やがてヴァンヌ司教は当地における聖アンナ崇敬と礼拝堂建設を許可しました。

 礼拝堂が建てられたニコラジクの村はサン=タンヌ=ドーレ(Sainte-Anne-d'Auray)と呼ばれて、聖アンナはブルターニュの守護聖人となりました。この地で毎年行われるパルドン祭はブルターニュのパルドン祭のなかでも最大の規模で、ルルド、リジューに次ぐフランス第三の巡礼地となっています。






 イヴ・ニコラジクに聖アンナが出現した十七世紀前半は、ヨーロッパに魔女狩りのあらしが吹き荒れた時代でした。しかしながらブルターニュでは、知識人階級に属さない一般の民衆が魔法使い、魔女として裁かれることはほとんどありませんでした。

 ヨーロッパはキリスト教文化圏であるとはいえ、民衆の子弟に教育が普及する以前、民衆は現代人の目から見れば信じ難い無知と蒙昧の只中にありました。読み書きや計算のみならず、宗教に関しても、民衆はキリスト教の最も基本的な事柄さえまったく理解していませんでした。キリストがいつの時代の人であるかも、エルサレムがどこにあるかも知らず、聖母はイエスよりもずっと偉い女神だと思っていました。原罪などという言葉は聞いたこともありませんでしたし、魂の救済などという不可視の事柄は理解されず、作物の豊作や病気治癒をはじめとする現世利益こそが、宗教がもたらす救いと考えられていました。

 このような状況はどの地方においても似たり寄ったりでしたが、ブルターニュはとりわけ迷信的信仰が盛んな地方で、まじまい等のソルセルリ(仏 sorcellerie 魔術)が日常生活に深く根を下ろしていました。したがってこの地方で魔女狩りが猖獗を極めたとしても何ら不思議はないはずです。にもかかわらず民衆が魔法使い、魔女として裁かれることが少なかったのは、魔術が全住民の日常生活とあまりにも一体化していたため、平たく言えば「手の付けようがなかった」からであろうと考えられています。ブルターニュにはびこる数々の迷信は、無知で愚かな民衆の無害な習俗、まじめに取り上げるに足りない馬鹿げた言い伝えとして、知識階級から相手にされなかったのだと考えられています。





 イヴ・ニコラジクに聖アンナが出現した時代、ブルターニュの民衆は半ば異教的な世界に暮らしていました。ブルターニュの泉はもともとケルトの神の聖所でしたが、この地にキリスト教がもたらされると、ほとんどの泉は聖アンナあるいは聖母の庇護の下にあるとされ、多様な病気を癒す聖なる泉と考えられるようになりました。

 本品メダイは全体がクール(仏 cœur 心臓、ハート)を模ります。浮き彫りにされた聖アンナの胸にも、光を放つクールが大きく表されています。聖アンナのメダイにおいてクールのモティーフはたいへん珍しく、筆者(広川)は本品以外の作例を目にしたことがありません。本品のもう一つの特徴は、非常に目立つ植物文です。アンナとマリアの背景は一段低くなり、布目模様で艶消し処理されています。これとは逆にアンナとマリアは浮き彫りとなって突出し、さらに艶があるためにたいへん目立つのですが、植物文も二人の聖女と同じ高さに突出し、艶が出るように研磨されています。また単なる装飾意匠と考えるには余りにも大きく、殊によると聖女たちよりも目立ちます。


 メダイを取り巻く植物は、聖なる泉を取り囲んで生える薬草をイメージしています。薬草はブルターニュのソルシエール(仏 sorcière 魔女)すなわち民間治療師の仕事道具です。薬草に囲まれた聖アンナと娘マリアは、聖なる泉そのものです。新しい水を湧出し続ける泉は、生命の源に他なりません。

 本品がクール(心臓)をモティーフにしている理由が、ここで明らかになります。サンタンヌ・ドーレの巡礼記念メダイである本品は、意匠においてもブルターニュそのものなのです。すなわち心臓は生命の本源ですが、本品はブルターニュの聖アンナの泉をこの心臓と同一視することにより、聖アンナの泉、あるいは聖アンナ自身が、活き活きとした信仰生活の源であることを表しているのです。聖アンナこそが信仰生活の源であり、信仰生活を賦活してくれる方である、という本品の含意は、聖アンナの胸にクールを刻むことによって紛う方なきように強調されています。このように聖アンナの功徳を強調するのは、ブルターニュのメダイならではの特徴です。





 裏面にはフランス語で「スヴニール・ド・サンタンヌ」(仏 Souvenir de Ste Anne)と刻印されています。「サンタンヌ・ドーレ巡礼記念」という意味です。

 本品を裏面から見ると、クール(心臓)を模ったエクス・ヴォートーそのものです。エクス・ヴォートー(羅 EX VOTO)とはラテン語で「誓願された事柄に基づきて」という意味ですが、聖人への奉献物を指してこのように呼んでいます。巡礼者が誓願を立てるとき、あるいは聖人の執り成しによって願いが叶ったお礼を伝えるときに、エクス・ヴォートーが奉納されます。

 エクス・ヴォートーの形に決まりは無く、身体の部位の形や器物の形など様々なものがありますが、おそらく最も多いのが心臓形です。生命と愛の座、心臓を模った本品には、生命と愛を守り給えという聖アンナとマリアへの祈りが籠められています。





 上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。二人の聖女の高さは八ミリメートルほどにすぎませんが、サンタンヌ・ドーレのスタチュ・ミラキュルーズ(仏 la statue miraculeuse 奇跡の像)を忠実に写しています。聖アンナの胸には大きな心臓が輝いています。





 上の写真は本品を男性店主の手に乗せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。





 本品は数十年前のフランスで制作された神聖のアンティーク品ですが、古い年代あるにもかかわらず、たいへん良好な保存状態です。造形が美しいのみならず、ブルターニュとケルト文化の薫り高い本品は、実用性ある小さな美術品ペンダントとして日々ご愛用いただけます。





11,800円

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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