クール・ヴァンデアン
le cœur vendéen




(上) ヴァンデ県旗 流麗なカリグラフィー風のクール・ヴァンデアンは、ミシェル・ディル(Michel Disle, 1934 - 2019 註1)が 1989年にデザインしたものです。


 クール・ヴァンデアン(仏 le cœur vendéen)はヴァンデ地方の心臓、あるいはヴァンデのハート形という意味で、重なり合う二つの心臓を模(かたど)ります。


【フランス革命とヴァンデ戦争】

 フランス革命は 1789年7月14日、国王の絶対的権力の象徴であったバスチーユ要塞が、市民に攻撃された事件に端を発します。当初は穏健な政変であった革命は徐々に過激化し、1793年1月21日に国王ルイ十六世を、およそ九か月後の 1793年10月16日には王妃マリー・アントワネットを、いずれもギロチンで処刑するに至りました。

 一方、フランスを取り巻く国々の君主たちは親戚関係にあるブルボン家の人々の身を案じ、また過激化する革命の伝播を恐れて、1792年以降、フランス革命政権との対立から各地で戦争が始まりました。この時期にフランスと各国の間で起きた戦争を、まとめてフランス革命戦争(仏 les guerres de la Révolution française)と呼んでいます。


(下) 重なり合う二つの愛と生命 《クール・ヴァンデアン cœur vendéen 銀製ペンダント 24.4 x 11.8 mm》 神の愛とともに燃える人の愛 フランス 1989年頃 当店の商品です。




・フランス革命戦争の始まりと長期化

 オーストリアの君主である神聖ローマ皇帝レオポルト二世は、マリー=アントワネットの実兄でした。革命のさなかに身を置く妹を案じたレオポルト二世は、1791年8月27日、ドレスデン近郊のピルニッツ城においてプロイセンと共同宣言を発表しました。これは両国がフランスの内政に実力で干渉することも辞さないとの内容であったため、フランス革命政府を強く刺激しましたが、革命の過激化を阻む効果はありませんでした。およそ八か月後の 1792年4月20日、フランス立法議会はオーストリアへ宣戦布告し、遂に戦争が始まりました。

 この時代のフランス軍はアンシャン・レジーム期の軍隊がそのまま残ったものであり、士官に任じられていたのは貴族階級でした。そのため革命防衛戦争における士官の士気は当然のことながら極めて低く、フランス軍は敗北を重ねました。このような状況の下、フランス立法議会は 1792年7月11日に祖国防衛の志願兵を募り、戦線の立て直しに成功します。しかしながら当時の志願兵は個々の戦役(註2)が終わるたびに除隊する制度であり、また各戦役は冬が来れば終結するものとされていたので、12月の到来とともにフランスの戦力は大きく殺がれました。この事態に危機感を抱いた国民公会(立法議会の後身)は、1793年2月24日、フランス全土から三十万人の兵を半ば強制的に徴募する法令(仏 La levée de 300,000 hommes)を可決しました。


・三十万人徴募令とヴァンデ戦争の勃発



(上) Pierre-Narcisse Guérin, "Henri de la Rochejaquelin", 1817, huile sur toile, 216 x 142 cm, Musée Municipal de Cholet


 フランス西部、ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏のヴァンデ県(la Vendée)は、中世のポワチエ伯領(Le comté de Poitou)または近世のポワトゥ(Le Poitou)のうち、ビスケー湾(大西洋)に面する地方です。かつてはバ=ポワトゥ(Bas-Poitou)と呼ばれていました。ヴァンデは保守的な農村地帯で、住民は篤信のカトリックが多くを占めており、革命政権が次々に打ち出す反カトリック的政策に反感が高まっていました。

 国民公会が可決した三十万人徴募令は富裕な者にも貧しい者にも平等に適用される建前でしたが、実際は徴募された富裕な市民が金銭の支払いによって貧しい者を代理を立て、自身は徴募を逃れることが可能な仕組みになっていました。代理人制度は不平等と感じられ、フランス各地で反発を招きましたが、とりわけヴァンデでは農民の一揆が大規模な内戦に発展しました。これをヴァンデ戦争(仏 la Guerre de Vendée)と呼びます。


・戦争の終結とヴァンデ地方の荒廃

 反カトリックの革命政府に従来から反感を抱いていた反乱軍はカトリック王党軍(仏 l'Armée catholique et royale)を名乗り、わずか二週間でヴァンデ地方のおよそ三分の二を攻略しました。やがて政府軍が反撃に転じると、カトリック王党軍は徐々に押されて最終的に敗北し、ほとんどの捕虜は集団で処刑されました。

 カトリック王党軍がほぼ壊滅しても、生き残った者はゲリラ戦を続けました。ゲリラに対処するために政府が送り込んだ掃蕩部隊は、ヴァンデにおいて略奪、放火、強姦、殺人など悪逆非道の限りを尽くし、コロンヌ・アンフェルナル(仏 les Colonnes infernales 地獄の縦隊)と呼ばれました。ヴァンデ地方は徹底的に破壊され、政府は 1796年までに戦争の終結を宣言しました。


【クール・ヴァンデアンの歴史的発展】



(上) 聖心と鳩のソヴガルド 「われ、イエスの聖心に安らぎを見い出せり」 修道女による信心業の刺繍作品 額のサイズ 縦 25 x 横 22センチメートル 当店の商品です。


 古来心臓は愛と生命の座と考えられ、その形は重要な象徴性を有してきました。重なり合う二つの心臓もガロ・ロマン期には既に見られる意匠で、普遍性を有します。それゆえクール・ヴァンデアンは他の地域を含め広く分布する心臓の象徴的モティーフが、ヴァンデ地方の歴史において人々の意識にたびたび上ることにより、この地方で特に大きな意味を持ち、愛好されるに至ったものと考えられます。


 キリストの聖心に対する近世的な信心はマルグリット・マリ (Margueritte Marie Alacoque, 1647 - 1690) に始まりました。いっぽう聖心の崇敬をバ=ポワトゥに広めたのは、この地域で慕われる聖人ルイ=マリー・グリニョン・ド・モンフォール(Louis-Marie Grignion de Montfort, 1673 - 1716)です。ヴァンデ地域に心臓のモティーフが広まったのは、ド・モンフォール神父に負うところが大きいと考えられます。

 1793年にヴァンデ戦争が起こると、カトリック王党軍の士官と兵士たちはキリストとカトリック教会への忠誠を示すために聖心を旗印とし、ソヴガルド(une sauvegarde)を身に着けました。ソヴガルドには「止まれ!此処にイエスの聖心あり」という言葉が書かれているゆえに弾除けと考えられ、着用する者を悪しき死(病者の塗油を受けない即死)から護る護符の役割を果たしました。このページの少し上に示した写真はカトリック王党軍の軍人アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン(Henri de la Rochejacquelein, 1772 - 1794)を描いています。アンリの心臓と重なる位置には、ソヴガルドが縫い付けられています。




(上) Michel Disle, Vendée, 1989


 クール・ヴァンデアンはこの地方の男性が使うエパングル・ド・コル(épingle de col 襟元の飾り)に使われ始めたモティーフで、当初は左右に一つずつの透かし細工の心臓を繋いだ形状でした。クール・ヴァンデアンのモティーフは女性の間にも次第に広まり、その過程で王冠と十字架が付加されました。王冠と十字架は忠実さの象徴であり、愛を象徴する心臓が王冠と十字架を戴く意匠は、婚姻の貞操を表していました。

 クール・ヴァンデアンが重なり合う心臓となったのは、十九世紀初頭のことです。二重の心臓はイエスの聖心とマリアの汚れなき御心、すなわち神から人へ向かう愛と、人から神へ向かう愛が一体となるさまを表すとともに、男女の愛が重なり合うさま、及びカトリック教会と国王への忠誠をも表します。

 1943年には、重なり合う心臓の上に十字架と王冠を載せ、ウトリークェ・フィデーリス(羅 UTRIQUE FIDELIS)の銘を添えた意匠が、ヴァンデ県の紋章に定められました。ラテン語の句ウトリークェ・フィデーリスは、いずれに対しても忠なり、互いに忠なりという意味です。




(上) クラダ・リング クール・ヴァンデアンと共通性がある意匠の例 当店の販売済み商品


 十九世紀前半以降、フランスの各地域では固有のジュエリーが発展しました。地域固有のジュエリーは、フランス語でビジュ・レジオナル(bijou régional 単数形)、ビジュ・レジオノ(bijoux régionaux 複数形)と呼ばれます。

 クール・ヴァンデアンはこんにちのヴァンデ県においても愛好され、企業や諸団体をはじめ、さまざまな活動のシンボルとして用いられるほか、しばしばビジュ・レジオナルの意匠にも取り入れられます。クール・ヴァンデアンはヴァンデ地方の愛郷心の象(かたど)りです。

 しかしながら愛と生命の座である心臓は、あらゆる地域で重要な意味を担う象徴であり、二つの心臓を並べたり重ねたりした意匠も、時と場所を問わず見出すことができます。それゆえクール・ヴァンデアンは普遍的な価値を象徴する優れた意匠として、万人に好まれる美しいモティーフとなっています。


註1 Michel Disle, Naissance: le 26 octobre 1934 - Décès: le 17 janvier 2019, Neuilly-sur-Seine
   Ecole National Supérieure des Arts Appliqués, Paris, 1956. Cours Supérieur d'Esthétique Industrial, Paris, 1957. Un co-fondateur de Carré Noir

註2 戦役とは、作戦とそれに付随する一連の戦闘行動のこと。



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