ピュヴィス・ド・シャヴァンヌによるパンテオンのための連作 「眠るパリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ」 ブロンズ製プラケット


74 x 37 mm  重量 76.0 g

フランス  1920 - 30年代



 19世紀後半のフランスを代表する画家のひとり、ピエール・セシル・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ Pierre Cécile Puvis de Chavannes, 1824 - 1898) が生涯の終わりに制作し、パリのパンテオンに飾られている油彩の大作、「眠るパリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ」("Ste. Geneviève veillant sur Paris endormi") に基づく浮き彫り作品。

 聖ジュヌヴィエーヴ (St. Geneviève, c. 419/422 - 512) はパリ近郊のナンテール (Nanterre) に生まれた中世初期の聖女で、パリ市の守護聖人として知られます。ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは、パンテオンのために、1870年代と1890年代の二度に分けて、この聖女をテーマにした作品群を制作しました。


(下) Puvis de Chavannes, "Ste. Geneviève ravitaillant Paris", "Ste. Geneviève veillant sur Paris endormi", 1893 - 98, huile sur toile, Panthéon, Paris




  「眠るパリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ」はピュヴィス・ド・シャヴァンヌの遺作であり、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌによる数々の名作のなかでも最も有名な作品です。「眠るパリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ」には、画家自身による次の言葉が添えられています。

 Geneviève, soutenue par sa pieuse sollicitude, veille sur Paris endormi.  ジュヌヴィエーヴは、子を想う信仰深き母の愛情を以って、眠れるパリを見守っている。

 "soutenue par sa pieuse sollicitude" を直訳すると「敬虔な配慮に支えられて」となりますが、"sollicitude"(配慮、世話)というフランス語は、母が幼い子供を心配してあれこれと世話を焼くような場合に使われる言葉であり、守護されるべきパリを常に気に懸ける守護聖女ジュヌヴィエーヴの、母のように強い愛情と優しさを感じさせます。


 聖ジュヌヴィエーヴのモデルを務めたピュヴィス・ド・シャヴァンヌの妻マリ・カンタキュゼーヌは、画家がこの作品を制作している途中の1898年8月に亡くなりましたが、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは妻の死の直後、同年9月10日に、次のように書いています。

 J'ai un peu repris mon travail, et je rêve au jour où j'en aurai fini avec mon Panthéon. Il me semble qu'après je n'aurai plus qu'à me coucher. C'est une sensation qui me poursuit. Rien n'est plus naturel et plus logique: ayant beaucoup travaillé, j'ai bien droit au repos sans en déterminer d'avance la durée.

 少しずつ仕事に戻っている。パンテオンの作品が完成する日のことを夢に見ている。その後は横になるだけだろう。そういう気がしてならないのだ。これはまったく当然で論理的だ。これまでたくさん働いたのだから、前もって期限を決めずに休息する権利があるはずだ。



 ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは最後の力を振り絞って「眠るパリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ」の制作を進めました。1898年9月22日には次のように書いています。

 Heureusement mon travail n'en est que très peu atteint, tout marche régulièrement. Je ne laisserai pas de traînards; c'est ce qui me soutient.

 幸いなことに、仕事の遅れはほとんど取り戻せている。すべて順調に進んでいる。落後するのは我慢がならない。その気持ちが私の支えだ。



 「眠るパリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ」を完成させたピュヴィス・ド・シャヴァンヌには、もはや力が残っていませんでした。ヌイイのアトリエから退いたピュヴィス・ド・シャヴァンヌはそのまま床に就き、1898年10月24日、すなわち妻の死の2カ月後、閑静なヴィリエ通りのアパルトマンで、妻の後を追うように亡くなりました。遺体はヌイイに埋葬されました。ピュヴィス・ド・シャヴァンヌが完成させた最後の二点、すなわち「パリに食糧をもたらす聖ジュヌヴィエーヴ」と「眠るパリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ」は、1899年の初頭、パンテオンの壁面に取り付けられました。





 ピュヴィス・ド・シャヴァンヌがパンテオンのために描いた作品は、フレスコ画ではなく、油彩です。油彩はフレスコに比べてはるかに細かい表現が可能ですが、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌはこの作品においても単純な画面構成と抑えた色調を採用し、あたかも古代のフレスコ画のようにクラシカルな作品に仕上げています。

 メダイユには色彩がありませんが、あたかも豊かな色彩や音が溢れ出るように思える作品もあります。下の写真はいずれもアンリ・ドロプシの作品ですが、そこから漂う雰囲気は、「眠るパリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ」とは明らかに異なります。


(下) アンリ・ドロプシ作 「そしてふたりは思い出を慈(いつく)しむ」 当店の商品




(下) アンリ・ドロプシ作 翼ある車輪に乗るフォルトゥーナ 当店の商品




 メダイユ彫刻家アンリ・ドロプシは、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの作風を忠実に再現し、抑制の効いた表現で、原作と同様の深い精神性を表すことに成功しています。「眠るパリを見守る聖ジュヌヴィエーヴ」はフランスとパリを代表する名画ですが、高名なメダイユ彫刻家アンリ・ドロプシは、いかにもこの国らしい「美術メダイユ」を制作することにより、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの遺作に永遠の生命を吹き込んだのです。

 プラケット(四角いメダイユ)の左下隅付近にはピュヴィス・ド・シャヴァンヌ (PUVIS DE CHAVANNES) の名前が、プラケット中程の左端にはアンリ・ドロプシ (HENRY DROPSY) の名前が彫られています。ドロプシの名前の後ろに添えられた "GR" の文字は、フランス語「グラヴール」(graveur 彫刻家)を略したものです。

 アンリ・ドロプシ (Henri Dropsy, 1885 - 1969) は、同じくメダイユ彫刻家であったジャン=バティスト・エミール・ドロプシ (Jean-Baptiste Émile Dropsy, 1848 - 1923) の息子です。1908年のローマ賞メダイユ部門で二等を獲得し、1911年にパリ高等美術学校 (l'École Nationale Supérieure des Beaux-arts, ENSB-A) を卒業しました。ル・サロン展において、1914年に銀メダル、1921年に金メダル、1929年に名誉賞を受章しています。1930年以降、パリ高等美術学校のメダイユ彫刻科教授を長年に亙って務め、1942年にはルイ=アレクサンドル・ボテ (Louis-Alexandre Bottée, 1852 - 1940) のあとを襲って芸術アカデミー (Académie des Beaux-Arts) 会員に選ばれました。





 本品は真正のアンティーク・プラケットならではの重厚なパティナ(古色)に被われています。保存状態は極めて良好で、特筆すべき瑕疵はありません。ご希望により、別料金にてプラケットを額装いたします。額装料金は使用する額によって異なります。





メダイユの価格 58,000円 (税込・額装別)

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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