フランス語シャプレ(un chapelet)は五連の数珠のことで、イタリア語のロザリオ(伊 un rosario)、スペイン語のロサリオ(西
un rosario)にあたります。フランス語にもロゼール(仏 un rosaire)という言葉がありますが、信心具の名称としてのロゼールは十五連(シャプレ三つ分)または二十連(シャプレ四つ分)の長い数珠を指します。長いロゼールに対して、本品のように小さな五連の数珠はフランス語でシャプレと呼ばれます。
本品はフランスで制作されたシャプレ・デ・ミシオン(宣教のロザリオ)です。本品のクルシフィクスとクールの形態、及びビーズの製法と形態には、十九世紀末から
1920年代頃までに制作された信心具の特徴がよく現れています。
本品はシャプレ・デ・ミシオン(仏 un chapelet des mission 宣教のシャプレ)と呼ばれる種類の数珠(ロザリオ)ですが、この名称に含まれるミシオン(les
missions)は複数形になっています。ミシオンが複数形であるのは、いまこの瞬間にも諸邦で行われている一つ一つの宣教活動が個別的に意識されているからです。五色のビーズは世界の各地域の象徴で、緑はアフリカの森林と草原を、青は太平洋の島々を取り囲む海を、白は教皇の聖座があるヨーロッパを、赤は南北アメリカの宣教師を迎えた試みの火を、黄色は太陽が昇る東方、アジアの朝を表します。
(上) 「イエスを愛するはわが喜びのすべて。貧者に仕うるはわが幸いのすべて」 愛徳姉妹会のカニヴェ (ブアス=ルベル 図版番号 641) "Dieu et les pauvres", Bouasse-Lebel, No. 641, 1853 105 x 67 mm フランス 1853年 当店の商品です。
宣教という漢語は、教理を宣伝するというような印象を与えます。しかしながらキリスト教の宣教とは、教理を宣伝することではありません。宣教とは人々にサルース(羅
SALŪS 救い)をもたらす働きのことですが、そもそもラテン語サルースは心身の全体性、すなわち身体と精神の欠けるところ無き十全性(健全性、健康)を意味します。それゆえ宣教とはキリスト教の教理を教えることではなく、身体と精神のサルース(健全性、健康)を人々に齎すべく、救い主とともに働くことなのです。
キリストはコスモス(希 κόσμος 秩序ある宇宙)を統べるロゴスであるゆえに、滅び(非在、カオス)に向かう人の身体と精神を神の側、コスモスの側へと引き戻し給います。イエスがその公生涯において幾多の病者を癒し給うたのは、その表れです。数々の修道会をはじめ世界宣教に携わる人々は、各地で病院や診療所、棄児のための養育施設、ホスピスなどを運営しています。一見したところ霊魂の救いと無関係の施設を教会が運営するのは、サルース(羅
SALŪS)すなわち心身の救いを人々にもたらすためです。弱者への奉仕に生涯を捧げることは、「マタイによる福音書」二十五章三十四節から四十節に書かれている通り、キリストご自身への奉仕に他なりません。
本品クルシフィクスのコルプス(羅 CORPUS キリスト像)は十字架上に打刻されています。十字架はフランスのものに多い形で、唐草に飾られた各末端がトリロブ(仏
trilobe 三つ葉、クローヴァー)状に開大し、交差部は大きな光背となっています。十字架の地は魚子(ななこ)状の細かい模様で埋められています。
光背にはジ・アシュ・エス(JHS)の文字が見えますが、これは実はラテン文字ジ・アシュ・エス(アイ・エイチ・エス)ではなくて、ギリシア文字のイオタ・エータ・シグマです。イオタ・エータ・シグマは救い主の御名イエースース(希
Ἰησοῦς)の略記で、クリストグラム(仏 christogramme キリストを表す象徴的文字)のひとつです。イオタ・エータ・シグマ(IHΣ)はギリシア文字ですが、西ヨーロッパではイオタとシグマを異体字に置き換えて、ラテン文字ジ・アシュ・エス(アイ・エイチ・エス)のように見える表記も行われます。
もう一方の面の交差部には、聖心(サクレ=クール)が配されています。聖心は上方に向けて愛の炎を吹き上げるのに加えて、左右の側方及び下方へと発する光輝が光の束として表現され、裏面のコルプスと互いに相同となっています。救い主が価値なき罪びとのために十字架に架かり給うたのは、人智を絶する愛の行為でした。人と成り給うたキリストと、愛の座である心臓あるいは聖心を表裏に重ねた本品クルシフィクスの意匠は、宣教の原動力が救い主の愛であることを明確に可視化しています。
シャプレのセンター・メダルをフランス語でクール(仏 cœur 心臓)といいます。本品のクールは文字通り心臓を模り、アー・エム(AM)の流麗な組み合わせ文字が両面に打刻されています。アー・エムはラテン語アウスピケ・マリアエ(羅
AUSPICE MARIÆ マリアの庇護のもとに)の頭文字で、宣教における聖母の協働を象(かたど)ります。
本品のビーズは不透明ガラスのフリットによるパート・ド・ヴェール(仏 pâte de verre)です。ビーズの直径は七ミリメ-トル前後で、すべて揃っています。本品のビーズは手作業で作られているため、形とサイズにばらつきがあります。
パート・ド・ヴェールはおそらく最も古いガラスの技法で、古代エジプト、フェニキアでは装身具や副葬品が作られていました。パート・ド・ヴェールは制作にたいへん手間がかかるために大量生産に向かず、また大型の製品を作ることもできません。このため吹きガラス等、他の製法に駆逐されて姿を消しましたが、十九世紀末、考古学に関心の深かった象徴主義の彫刻家アンリ・クロ
(Henry Cros, 1840 - 1907) によって息を吹き返しました。アンリ・クロのすぐ後で、ジョルジュ・デプレ (Georges
Despret, 1862 - 1952)、フランソワ・デコルシュモン (François Décorchemont, 1880 - 1971)
もそれぞれ独自にパート・ド・ヴェールの再現に成功しました。二十世紀初頭から 1920年代頃までのシャプレには、パート・ド・ヴェール製ビーズを用いた作例が時折見られます。本品もそのような作例の一つです。
上の写真は本品を男性店主の手に乗せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。
本品のガラス製ビーズは全くの球形ではなく、赤道部分に平たい帯を巻いた形をしています。これは 1920年代以前に制作されたシャプレのビーズに時折見られる特徴で、シャプレ・デ・ミシオン(宣教のロザリオ)のみの特徴ではありません。しかしながら球の赤道に沿って巻かれたゾーネー(希
ζώνη 帯)は、南北の回帰線に挟まれたトロピケー・ゾーネー(希 τροπική ζώνη トロピカル・ゾーン、回帰の帯)すなわち熱帯を想起させて、宣教のロザリオに如何にも相応しいビーズの形状となっています。
本品のビーズはガラスでできているので摩滅や褪色が無く、一見したところ新品のように綺麗です。しかしながらチェーンは百年の歳月を通して美しい古色を獲得し、真正のアンティーク品に相応しい落ち着いた趣(おもむき)を感じさせます。
シャプレ・デ・ミシオン(宣教のロザリオ)は 1926年、ピウス十一世によって認可されたシャプレです。本品はおよそ百年前のフランス製シャプレに見られる様々な特徴を留めており、稀少なシャプレ・デ・ミシオンのなかでも最初期の作例と考えられます。本品はおよそ百年前の品物ですが、フランスの国土が戦場となった第二次世界大戦を潜り抜け、極めて良好な保存状態を保っています。チェーンの強度にも問題はありません。わが国をはじめ世界各地で働く宣教師や修道者のための祈りにも、通常のシャプレ(ロザリオ)の祈りにも、同様にお使いいただけます。