ベリーの聖ソランジュ (聖ソランギア)
Ste. Solange du Berry, SANCTA SOLANGIA, 862 - 878
(上) ベリーの聖ソランジュ メアン=シュル=イエーヴル(Mehun-sur-Yèvre サントル=ヴァル=デ=ロワール地域圏シェール県)のノートル=ダム教会にあるステンドグラス
ベリーの聖ソランジュ(Ste. Solange du Berry, 862 - 878) はベリー地方(註1)に生まれた羊飼いの少女で、ブールジュの聖ソランジュ(Ste.
Solange de Bourges)とも呼ばれます。美貌ゆえ領主に見染められ求婚されましたが、信仰のためにこれを拒んで斬首されたと伝えられ、カトリック教会及び正教会で殉教処女として崇敬されています。聖ソランジュはベリーの守護聖女であり、祝日は五月十日です。五月十日は五旬節(聖霊降臨節)中にあたります。
【聖ソランジュの生涯】
(上) サン=ブリソン=シュル=ロワールにあるサン=ピエール・エ・サン=ブリス教会の聖ソランジュ礼拝堂 中央上方に見える立像は、羊飼いとして表された聖ソランジュ。手前に見える立像は、向かって左がリジューの聖テレーズ、右が聖ベルナデット。フランスの古い絵葉書より。
ベリーの聖ソランジュは、862年、ブールジュ(Bourges サントル=ヴァル=デ=ロワール地域圏シェール県)から北東に十三キロメートル離れたヴァル=ヴィル=モン(Val-Ville-Mont 註2)に生まれました。ソランジュは葡萄園労働者の娘で、たいへん美しかったと伝えられます。ソランジュは毎日一人で羊の番をしながら心静かに祈りの時間を過ごし、
サン=マルタン=デュ=クロの教会にもしばしば足を運んでいました。
ブールジュとオータンの伯ベルナール・ド・ゴティ(Bernard de Gothie 註3)が少女ソランジュの美しさに目を留めて求婚しましたが、自身を神に捧げる決意をしていたソランジュは伯の求婚を拒みました。怒ったベルナールは馬に乗ってソランジュを拉致しようと試みますが、馬上で抱えられたソランジュはワチエ川(l'Ouatier
註4)の畔で激しくもがき、ベルナールとともに川に落ちてしまいました。ソランジュは逃げようとしましたがベルナールに捕まり、激怒したベルナールはソランジュの首を刎ねてしまいました。
聖人伝によると、このとき切り落とされたソランジュの首は主イエスの聖名を三度唱え、ソランジュの体は刎ねられた首を拾い上げて(註5)、サン=マルタン=デュ=クロ(現在のサント=ソランジュ)のサン=マルタン教会まで歩きました。自分の首を抱えたソランジュの遺体はサン=マルタン教会の墓地で見つかり、同教会の墓地に埋葬されました。
ベルナールに殺される以前から、ソランジュには悪霊を追い払う能力、病者に寄り添って快癒させる能力がありました。旱天に雨を降らせたり、大雨を止ませることもできました。夜には明るい星がソランジュのために夜道を照らしたと伝えられます。
【聖ソランジュへの崇敬】
(上) ブールジュ近郊サント=ソランジュの聖ソランジュ教会 フランスの古い絵葉書
中世以来、聖ソランジュはベリーの守護聖人として篤く崇敬されています。聖人伝の批判的研究で知られるポール・ゲラン神父(le R. P. Paul
Guérin, 1830 - 1908 註6)の「レ・プチ・ボランディスト」第五巻によると、聖ソランジュは死後に数々の奇跡を起こしたため、調査のために柩が掘り返されました。
1657年、ブールジュ市は近郊の町サント=ソランジュ(Sainte-Solange 旧称サン=マルタン=デュ=クロ、聖ソランジュの生地)の聖ソランジュ教会(l'Église
Sainte-Solange)に銀の柩を奉納し、古い柩はその中に格納されました。旱天をはじめ危機的な状況のたび、聖ソランジュ教会では聖遺物の行列が挙行され、人々は聖ソランジュに執り成しを祈りました。1730年に行なわれた行列は、ブールジュの行政官ルイ=エクトル・ショドリュ・ド・レナル(註7)により、次のように記録されています。
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Le 10 mai, anniversaire de sa mort, le lundi de la Pentecôte, anniversaire
de la translation de ses reliques et de la dédicace de son Eglise, une
foule immense de pèlerins, de malades, de mères, tenant leurs enfants dans
leurs bras, viennent invoquer son intercession et chercher autour de son
église sinon la santé, au moins l'espérance. |
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ソランジュが亡くなった記念日である5月10日、五旬節の月曜日は、ソランジュの聖遺物が移葬された記念日であり、聖ソランジュ教会の奉献記念日でもあった。この日には極めて多数の巡礼者たち、病者たち、幼子を腕に抱いた母親たちが聖女の執り成しを求めるために、またここに集うことで癒し、あるいは少なくとも希望を得るために、聖ソランジュ教会を訪れる。 |
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Sa châsse est portée processionnellement par des hommes revêtus d'aubes
et couronnés de fleurs. Cette châsse en bois argenté, aujourd'hui vide
des reliques de la Sainte, a remplacé une châsse en argent détruite pendant
la Révolution et que la ville de Bourges avait offerte à la modeste église
de village en 1657. |
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長衣を羽織り、頭に花環をいただく男たちが、聖女の柩を担ぐ。木の柩には銀が張られているが、聖女の遺体は入っていない。この柩は銀の柩の代わりである。元の銀の柩は革命期に破壊されてしまった。破壊された銀の柩は、1657年にブールジュ市から村の小さな教会に贈られたものであった。 |
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Jadis, en effet, toutes les fois que régnaient de longues sécheresses,
on apportait solennellement, à Bourges, les reliques de sainte Solange,
et on a conservé la mémoire de plusieurs de ces processions que des pluies
abondantes avaient suivies de bien près. |
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実のところ、昔は旱(ひでり)が長く続くたびに、ブールジュでは聖ソランジュの聖遺物行列が組まれていた。行列の後、間もなく大雨が降ったことが何度もあって、今も人々の記憶に残っている。 |
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Rapporté en 1845 par Louis-Hector Chaudru de Raynal |
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ルイ=エクトル・ショドリュ・ド・レナルによる 1845年の報告 |
五旬節の月曜日の聖ソランジュ祭はサント=ソランジュ以外でも催され、とりわけブールジュから約七十キロメートル東にある小村ノレ(Nolay ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ニエーヴル県)では、1970年代まで華やかな行列が挙行されていました。その一方で聖ソランジュの行列は年を追うごとに参加者が減る傾向がありましたが、1960年代以降、この地方にポルトガルからの移住者が増え、現在では聖ソランジュ崇敬に中心的な役割を果たすようになっています。
なおサント=ソランジュでは、七月の最終週末に、聖ソランジュ教会が建つ殉教者広場(le Champ du Martyr)で、四日間に亙って野外劇が行われます。劇のテーマはサント=ソランジュの歴史、またはフランスの歴史から取られています。
(上) サン=ブリソン=シュル=ロワールにおける聖ソランジュの行列。1929年5月に撮影された写真。
フランス革命期の 1793年、聖ソランジュの遺体はばらばらに損壊されてしまいました。
サン=ブリソン=シュル=ロワール(Saint-Brisson-sur-Loire サントル=ヴァル=デ=ロワール地域圏ロワレ県)は人口千人足らずの小さな町で、聖ソランジュ崇敬が盛んな場所のひとつです。この町のサン=ピエール・エ・サン=ブリス教会(l'Eglise
Saint-Pierre & Saint-Brice)には、1849年に聖ソランジュ礼拝堂(La Chapelle Sainte Solange
註8)が造営され、1874年に拡張されました。フランス革命で散逸した聖ソランジュの遺体は、一部がこの礼拝堂に安置されています。
(上) レ・マルタン(Les Martins)の集落に立つ聖ソランジュの十字架(Croix de Sainte-Solange)。最初は 1872年に建立され、2016年に全面的改修が行なわれました。
毎年五月、五旬節(聖霊降臨節)の月曜日に行なわれる行列で、聖ソランジュの聖遺物は教会を出てレ・マルタンの集落に向かい、上の写真に写っている聖ソランジュの十字架まで運ばれます。
【少女ソランジュの殺害犯、ベルナール・ド・ゴティについて】
聖ソランジュのハギオグラフィに登場する殺害犯ベルナール・ド・ゴティ(Bernard de Gothie, † après 879)は、実在の人物です。カロリング時代は各地に盤踞する野盗の首領のような人物が領主となり、好き放題にふるまっていた時代でした。ソランジュの身に起こったのも、狩の途中で美少女に目を留めた粗暴な領主が力づくで少女を犯し、口封じのために殺害した事件と思われます。
ジャン・アレ神父による 1859年の著書「ベリー地方の守護聖人、聖ソランジュの生涯」(le R. P. Jean Alet,
"Vie de sainte Solange, patronne du Berry", 1859)には、ベルナール・ド・ゴティについて次の記述があります。
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Le pays était depuis peu gouverné par Bernard, comte de Bourges et marquis de Gothie. Un personnage aventureux, combattant à peu d'intervalle sous des drapeaux opposés, fier, irascible, abandonné aux plaisirs. |
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ブールジュの伯にしてゴティの侯ベルナールは、ベリーの領主になったばかりであった。ベルナールは野心に富み、同盟する相手を頻繁に変更して絶えず戦っていた。粗暴かつ短気で、享楽的な人物であった。 |
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le R. P. Jean Alet, "Vie de sainte Solange, patronne du Berry",
1859 |
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ジャン・アレ神父「ベリー地方の守護聖人、聖ソランジュの生涯」(1859年) |
878年、ベルナール・ゴティはブールジュを攻囲して大司教フロテール(Frotaire, 在位 876 - 890年)の職務を妨げたばかりか大司教区の資産を奪ったので、教皇ヨハネス八世(Johannes
VIII, c. 820 - 872 - 882)によって破門されました。その直後、少女ソランジュ殺害の報が西フランク王ルイ二世(Louis
II dit le Bègue, 846 - 877 - 879)の宮廷に届くと、王はこの機会を逃さず、破門された不信仰者ベルナール・ゴティの討伐に乗り出しました。同年、ベルナール・ゴティはブールジュ伯の地位を剥奪され、その後の歴史から姿を消しました。
ベルナール・ゴティの時代、当時のブールジュが属するアキテーヌ王国(le Royaume d'Aquitaine)においてカロリング帝権はいまだ確立していませんでした。ベルナール・ゴティはカロリング家に対する抵抗勢力であり、当時のアキテーヌの人々はベルナール・ゴティの破門を、当初は不当なものと見做していました。しかしながらその一方で、ベルナール・ゴティは自身の暴虐ゆえに人心の離反を招きました。
少女ソランジュの殺害は、カロリング家がフランス全土に支配を広げつつある時期に起きた事件であり、政治史と接点を有する出来事であったことがわかります。
註1 |
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ベリー(le Berry)はアンシアン=レジーム期の地方区分で、六角形のフランス本土の中央付近、現在のサントル=ヴァル=デ=ロワール地域圏南部に相当する。ベリー地方の中心都市は、ブールジュ(Bourges サントル=ヴァル=デ=ロワール地域圏シェール県)である。 |
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註2 |
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ヴァル=ヴィル=モンは小さな集落で、サン=マルタン=デュ=クロ(Saint-Martin-du Crot 現在のサント=ソランジュ
Sainte-Solange)から二キロメートルの距離にある。サン=マルタン=デュ=クロ(サント=ソランジュ)はサンチアゴ・デ・コンポステラへの巡礼路に位置している。 |
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註3 |
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ベルナール・ド・ゴティ(Bernard de Gothie, † après 879)は実在の人物で、ポワチエ伯ベルナール二世(Bernard
II de Poitiers, dit le Poitevin, † 844)の息子である。ベルナール・ド・ゴティは 865年から 878年までバルセロナとジローナの伯及びゴティの侯、866年から
877年までポワチエの伯、876年から 878年までブールジュとオータンの伯であった。 |
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註4 |
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ワチエ川(l'Ouatier)はシェール県を流れるイェーヴル川(l'Yèvre)の支流。イェーヴル川はヴィエルゾン(Vierzon サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏シェール県)でシェール川(l'Cher)に合流する。シェール県の名前はシェール川に由来する。シェール川はロワール川の支流である。 |
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註5 |
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斬首された後、自分の首を拾い上げて歩いたとされる聖人はソランジュ以外にもあり、パリの聖ドニが最も有名である。
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フランスの司祭でありブリュッセル自由大学教授でもあったマルセル・エベール(Hyacinthe Jules Albert Marcel
Hébert, 1851 -1916)は、自分の首を運ぶ聖人をセファロフォール(仏 céphalophore)と呼んだ。セファロフォールは古典ギリシア語ケファレー(κεφαλή 頭)の語幹(κεφαλ-)とフォロス(φορός 運ぶ人)をオミクロン(-ο-) を介して繋ぎ、語尾をフランス語式に弱化させた語である。 |
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註6 |
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ポール・ゲラン(Paul Guérin, 1830 - 1908)は教皇レオ十三世の侍従を務めたカトリック司祭で、思想家、著述家でもあった。1866年から
1186年にかけて刊行された主要著作「レ・プチ・ボランディスト ― 聖人伝研究」(Les Petits Bollandistes : vie des saints)全十五巻は、その後何度も改訂されて現在に至っている。 |
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註7 |
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ルイ=エクトル・ショドリュ・ド・レナル(Louis-Hector Chaudru de Raynal, 1805 - 1892)はフランスの行政官で、歴史家でもあった。父ピエール・ショドリュ・ド・レナル(Pierre
Chaudru de Raynal, 1768 - 1849)はアカデミー・ド・ブールジュ(L'Académie de Bourges 1850年に解散)の院長であった。なお父ピエールの著作「ベリーの歴史」(L'Histoire du Berry)は 1847年にゴベール賞(le prix Gobert)を獲っている。ゴベール賞はフランス碑文文芸アカデミー(Académie des Inscriptions
et Belles-Lettres)が授与する歴史部門の賞で、1840年に創設され、現在まで続いている。 |
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註8 |
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聖ソランジュ礼拝堂にはシェーヌの祭壇、聖女のジザン(un gisant 死者の横臥像)、リジューの聖テレーズ像と聖ベルナデット像、聖ソランジュのステンドグラスがある。ステンドグラスは 1856年の作品で、オルレアンのリュビノ工房(la famille
des maîtres-verriers Lubineau)による。 |
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