聖ペドロ・ノラスコ(聖ピエール・ノラスク、聖ペトルス・ノラスクス)
San Pedro Nolasco, St. Pierre Nolasque, S. PETRUS NOLASCUS, 1180/82 - 1245
(上) Francisco de Zurbarán,
"Visión de San Pedro Nolasco", 1236, Óleo sobre lienzo, 179 x 223 cm, el Museo Nacional del Prado, Madrid 新しいエルサレム(「ヨハネの黙示録」二十一章)を幻視する聖ペドロ・ノラスコ。セビジャのメルセス会修道院(el
segundo claustro de la Casa Grande de la Merced Calzada de Sevilla)から依頼を受けてスルバランが描いた二十一点の油彩のひとつ。
聖ペドロ・ノラスコ(San Pedro Nolasco, 1180/82 - 1245)は、1218年にメルセス会(西 La Orden de
la Merced, 仏 l'Ordre de Notre-Dame-de-la-Merci
,
葡 a Ordem de Nossa Senhora das Mercês, 羅 ORDO BEATÆ MARIÆ VIRGINIS DE
REDEMPTIONE CAPTIVORUM, O de M.)を創設した人物です。
【修道会による捕虜の買い戻し】
十一世紀末から十三世紀にかけて行われた東方への十字軍、及び十三世紀から十五世紀に行われたレコンキスタ(西 la Reconquista
イスラム化されたイベリア半島をキリスト教徒の手に取り戻す再征服運動)は、キリスト教文明とイスラム教文明が領土を巡って戦った出来事でした。
この時代には、イスラム側と交渉し、捕虜となったキリスト教徒を身代金で買い戻すことを目的にした修道会が設立されました。それらの修道会のうち最も有力であったのが、マチュラン会(仏
les Mathurins)とも呼ばれる三位一体修道会(羅 ORDO SANCTISSIMÆ TRINITATIS REDEMPTIONIS
CAPTIVORM, O.SS.T.)、及びここで取り上げるメルセス会です。
【聖ペドロ・ノラスコの生涯】
十五世紀のメルセス会士ナダル・ガベル(Nadal Gàver, ? - c. 1474)、及び同じくメルセス会士のペドロ・シハル(Pedro
Cijar, ? - 1452)によると、聖ペドロ・ノラスコ San Pedro Nolasco (聖ピエール・ノラスク St. Pierre
Nolasque, 1180/82 - 1245)は、1180年頃、ピレネーのフランス側にある村マ=サント=ピュエル(Mas-Saintes-Puelles
ou Mas Santas Puèlas オクシタニー地域圏オード県)で生まれました。ペドロが幼児または子供であったときに、一家はバルセロナに引っ越しました。
ペドロの父は商人でした。当時のイベリア商人はキリスト教徒とイスラム教徒の間を自由に行き来し、両教徒の仲介役を果たしていました。若きペドロは父に同伴してイベリア各地を巡るうちに、身代金が支払われないために奴隷となったキリスト教徒捕虜の悲惨な状況を目にし、持てるものと自身の生涯の全てを捧げてキリスト教徒を買い戻すことを決意しました。
1203年、ペドロはカタルーニャ公国とアラゴン王国を巡って喜捨を集めるべく、捕虜の買い戻しに全財産と一生を捧げる青年たちを集めました。彼らが目指したのは、尊い血を流して我々を買い戻し給うた贖い主に従うことでした。ペドロの考えによると、自由意志に基づく善き生き方は魂の救いに不可欠であり、そのためには奴隷状態から解放されることが必要であったのです。この活動の間、ペドロも同志の青年たちも俗人でした。商人であったペドロはキリスト教徒とイスラム教徒の間を自由に行き来することができましたが、これは両者の橋渡しをするのに大きな利点でした。
(上) Francisco de Zurbarán,
"La Aparición del apóstol San Pedro a San Pedro Nolasco", 1629, óleo sobre lienzo, 179 x 223 cm, el Museo Nacional del Prado, Madrid 使徒ペトロを幻視する聖ペドロ・ノラスコ
ペドロたちの精力的な活動にも関わらず、捕虜の数は減るどころか増える一方でした。伝承によると、捕虜買戻しの同志会結成から十五年が経った 1218年8月1日の深夜、聖母がペドロに出現しました。この出来事に励ましを受けたペドロ・ノラスコは、俗人の同志会を修道会に転換することを決意し、1218年8月10日、バルセロナ司教座聖堂サンタ・クルスにおいて、
聖アウグスチノ会則によるメルセス会が誕生しました。メルセス会士は一般の観想修道会士のように「祈り」のみを職業とするのではなく、それぞれが捕虜買戻しのための信心会に呼び掛ける集金係として働きました。身代金が足りないときは、
聖セラピオの場合のように、メルセス会士自身が身代わりの人質となって捕虜を買い戻しました。
1235年1月17日、ペルージア滞在中の教皇グレゴリウス九世は小勅書「デーウォーティオーニス・ウェストラエ」(
"DEVOTIONIS VESTRÆ" 「あなたがたの信心の」)によって、メルセス会を正式に認可しました。
ペドロ・ノラスコは 1245年5月6日、バルセロナのメルセス会本部修道院で亡くなりました。遺体は同修道院の付属聖堂に埋葬されました。1628年9月30日、ペドロ・ノラスコは教皇ウルバヌス八世によって列聖され、1655年6月19日には「ローマ殉教録」(
"MARTYROLOGIUM ROMANUM")に加えられました。1664年6月11日、教皇アレクサンデル七世は聖ペドロ・ノラスコの祝日を1月29日と定めました。
(上) Francisco de Zurbarán,
"Virgen de la Merced con dos mercedarios", ca. 1635 - 1640, óleo sobre lienzo, 166 x 129 cm, Colección privada
ペドロ・ノラスコの在世中に、メルセス会員の数は百名を超え、買い戻した捕虜の数は 3920名に達しました。修道院の数はアラゴン王国と南フランスに十八か所となりました。教皇インノケンティス四世は
1245年に小勅書「レリギオーサム・ウィータム・エーリゲンティブス」(
"RELIGIOSAM VITAM ELIGENTIBUS" 「宗教的生活を選ぶ者たちに」)を、さらに 1246年には小勅書「シー・ユクスタ・サピエンティス」(
"SI JUXTA SAPIENTIS" 「知恵の言葉と同じく」)を出して、メルセス会が行う捕虜買戻しの活動を世に広く知らしめました。
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