おとめ聖マリーナ
Sancta Marina Virgo
(上) 聖マリーナ伝を描いた18世紀の小聖画。パピエ・ヴェルジェ(レイド・ペイパー)に手彩色銅版グラヴュール 当店の商品です。
聖マリーナは中世において広い範囲で崇敬された聖女で、現在では主にマロン派 (*1)、コプト派、ヴェネツィアのカトリック教会で崇敬されています。
東西教会に共通する伝承によると、マリーナは男装し、修道士マリーヌスと名乗って厳しい修道生活を送っていました。女性を妊娠させたという無実の罪を着せられたマリーナは、苦しみを通して神と救い主に対する償いをするという宗教的動機のために、敢えてその罪を被り、罪人の烙印とともに残りの生を送りました。マリーナが女性であることは死後に判明し、その徳を慕う人々に、聖女として崇敬されるようになりました。
【レバノンにおける聖マリーナ伝承と崇敬】
聖マリーナはもともとマロン派の聖人です。マロン派の聖人伝によると、マリーナはレバノン北部の村に生まれました。マリーナの母は娘が幼いときに亡くなり、妻を亡くして発心したマリーナの父は、カディーシャ渓谷
(*2) にあるカヌビン修道院 (*3) に入ります。このとき娘に男装をさせて、修道院に伴ったのでした。
少女マリーナはマリヌス修道士として生活を始めますが、厳しい節制と苦行、禁欲的生活のために女性らしい身体に発育せず、このことが男性だと思われ続けるために役立ったと考えられます。
マリーナに対して偽りの告発をした女は、修道院の援助者であった男性パフノティウス (Paphnotius) の娘で、伝承によると、この父娘はレバノン北部の村トゥルザ
(Tourza) に住んでいました。父娘が犯した罪のために、トゥルザは決して富むことが無く、地震によって幾度も破壊されました。
マリーナの墓所のあるカヌビン修道院にはレバノン中から大勢の巡礼が訪れ、マリーナの墓の前では多くの奇蹟が起こったと伝えられます。マリーナの墓所は、カヌビン修道院からおよそ100メートル離れた自然の岩窟に作られています。岩窟は幅3メートル、奥行5メートル、最奥部の高さ2メートルほどで、総主教たちの墓所ともなっています。
マロン派の総主教座はかつてカヌビン修道院に置かれていましたが、1822年、やはりカディーシャ渓谷にある村ディマン (Diman) の修道院に、ブシャーレ
(Bsharri/Becharre/Bcharre/Bsharre) の主教座が置かれるとともに、夏季の総主教座ともなったことにより、カヌビン修道院はマロン派の中心地としての役目を終えました。現在カヌビン修道院は6月から9月まで、マロン派の聖アントニウス会女子修道院として使われています。なおディマン修道院にある総主教棟の聖堂には、聖マリーナの壁画が描かれています。
シナイ山の聖カタリナ修道院には、シリア語による聖マリーナ伝が残されています (*4)。この写本が製作されたのは778年ですが、聖人伝としてかなり発達した形式であるために、マリーナが生きた歴史上の年代は5世紀頃、すなわちカヌビン修道院が創立されて間もない頃と推定されています。
【聖マリーナ伝の多様性】
古代や中世の聖人伝の著者は歴史上の事実に注意を払わず、まったくの創作にかかる内容を書くことが多くありました。ノンフィクションとして読まれるべき本にでたらめを書くのは、現代人の感覚では大きな違和感を覚えることですし、実際にそれらの内容は、現代人の眼から見ると荒唐無稽と思えるものを多く含みます。しかしながら古い時代の著者たちにとって、聖人伝を著述する唯一の目的は信仰の鼓舞でした。聖人伝の著者たちは、いわば事実よりもいっそうふさわしいと思われる内容を創作して書いたのです。13世紀の聖人伝集成「レゲンダ・アウレア」("LEGENDA AUREA") は、その代表格といえます。
古い時代の聖女であるマリーナに関しても事情は同じです。マリーナはシリア教会、マロン教会、コプト教会、エチオピア教会、ギリシア正教会、ローマ・カトリック教会で崇敬され、シリア語、コプト語、エチオピア語、アルメニア語、アラビア語、ギリシア語、ラテン語、西ヨーロッパ諸言語による聖マリーナ伝が残されています。聖女の生地や両親の名前、亡くなったときの年齢などについて、それらの写本の記述は互いに矛盾しており、聖マリーナに絶大な人気があったこと、各地域、各教派が「我が聖人」としたがったことを示しています。
【レゲンダ・アウレアの聖マリーナ伝】
13世紀のジェノヴァ大司教ヤコブス・デ・ウォラギネ (Jacobus de Voragine, c. 1230 - 1298) による「レゲンダ・アウレア」は、中世の西ヨーロッパにおいて最も広く読まれた聖人伝ですが、ここには「ヒストリア・デー・サンクター・マリーナー・ウィルギネ」("Historia de Sancta Marina virgine" 「おとめ聖マリーナに関するヒストリア」)が収録されています。
ラテン語「ヒストリア」(HISTORIA) は、「調べて分かったこと」を表すギリシア語「ヒストリア」(Ἱστορία) をそのままラテン語に借用したものです。したがって「おとめ聖マリーナに関するヒストリア」とは、「おとめ聖マリーナに関して知られていること」、すなわち「おとめ聖マリーナの物語」という意味です。
レゲンダ・アウレアに収録されている「おとめ聖マリーナの物語」を、全訳して下に示します。文意を通りやすくするために、必要に応じて語句を補いました。訳者(広川)が補った語句は、ブラケット
[ ] で括りました。
ヤコブス・デ・ウォラギネのラテン語原文は、過去の出来事を叙述しているにもかかわらず、直説法現在形の動詞を多用しています。過去の叙述に現在形を使うのは、あたかも物語が眼前に展開しているかのように、聖女の生涯を活写するためです。(*5)
Historia de Sancta Marina virgine | おとめ聖マリーナの物語 | |||
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Marina virgo unica erat patri suo. Cum autem pater quoddam monasterium intrasset, mutavit habitum filiae suae, ut non femina, sed masculus videretur. Rogavitque abbatem et fratres, ut filium suum unicum reciperent. | ... | おとめマリーナは父の一人娘であった。父はある修道院に入ったときに娘の服を更(か)えて、女ではなく男に見えるようにした。そして一人息子を受け入れてくれるように、院長と修道士たちに頼んだ。 | ||
Quibus eius precibus annuentibus in monachum est receptus et frater Marinus ab omnibus appellatus. Coepit autem valde religiose vivere et valde oboediens esse. | 彼らは父の願いに同意し、息子は修道士として受け入れられ、皆にマリーヌス修道士と呼ばれた。マリーヌス修道士は御(み)教えに完全に則った生活をし、[上長に]完全に服従する者となった。 | |||
. Cum autem esset viginti septem annorum et pater eius se mori appropinquare sentiret, filiam suam vocavit et ipsam in bono proposito confirmans praecepit, ne aliquando alicui revelaret, quod mulier esset. | マリーヌスが27歳のとき、父は自分がまもなく死ぬと感じて、娘を呼び、「決して、誰に対しても、女であることを明かしてはいけない」と、賢明にも強く命じた (*7)。 | |||
Ibat igitur frequenter cum plaustro et bobus et ligna monasterio deferebat. | そのようなわけで、[父の死後、]マリーヌスは荷車を牛に牽かせて、修道院に薪(たきぎ)を運ぶ仕事に日々勤(いそ)しんだ。 | |||
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Consueverat autem hospitari in domo cuiusdam viri, cuius filia, cum de quodam milite concepisset. Interrogata Marinum monachum se violasse asseruit. | ところでマリーヌスは[遠方へ外出する際、]ある男の家に泊まるのを常としていたが、その頃、この男の娘が、とある兵士によって妊娠した。娘は問い詰められて、修道士マリーヌスが自分を犯したのだと言い張った。 | |||
Interrogatus autem Marinus, cur tantum flagitium perpetrasset, se pecasse fatetur et veniam precatur. Statim de monasterio eiectus ad ostium monasterii mansit et tribus annis ibidem permanens buccella panis sustentabatur. | そこで、なぜこのような恥ずべき罪を犯したのかと問い詰められたマリーヌスは、自分がこの罪を犯したのだと認め、赦しを乞う。マリーヌスは間もなく修道院[内の房]から修道院の戸口へと追い出されて[そこに]留まった。そして三年の間その場所に留まり続けて、パン屑を食べ物とした。 | |||
Postmodum filius ablactatus abbati mittitur et Marino educandus traditur et cum eo ibidem per duos annos commoratur. | やがて[宿の娘が産んだ]子供は乳離れして修道院長のもとに送られる。子供はマリーヌスに育てられるべく引き渡され、二年の間、マリーヌスとともにその場所に留まる。 | |||
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Omnia autem cum maxima patientia recipiebat et in omnibus gratias Deo.referebat. | マリーヌスは非常な忍耐を以ってすべてを受け入れ、あらゆる物事に関して神に感謝を捧げていた。 | |||
Tandem eius humilitatis et patientiae fratres miserti eum in monasterium recipiunt et quaeque officia viliora sibi (*8) iniungunt. | マリーヌスの謙遜と忍耐を憐れんだ修道士たちは、ついにマリーヌスを修道院に受け入れ、あらゆる雑用をさせる。 | |||
Ipse autem omnia hilariter suscipiebat et cuncta patienter et devote agebat. Tandem in bonis operibus vitam ducens migravit ad Dominum. | いっぽうマリーヌスは何事をも喜んで受け、すべての物事を忍耐強く熱心に行うのであった。すなわちマリーヌスは数々の善き業を為しつつ生を送り、主の御許へと行ったのである。 | |||
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Cum autem corpus eius lavarent, et in vili loco sepelire disponerent, respicientes mulierem ipsum esse viderunt. Stupefacti sunt omnes et perterriti, se in Dei famulam plurimam deliquisse fatentur. (*10) | マリーヌスの遺体を洗って土地の片隅に葬ろうとした際に (*9)、[遺体を]見た修道士たちには、マリーヌスが女であることがわかった。皆は口も利けないほどひどく驚いて、神の優れたる婢(はしため)に対し、自分たちが罪を犯したことを認める。 | |||
Currunt omnes ad tam grande spectaculum et veniam postulant ignorantiae et delicti. Corpus igitur eius in ecclesia honorifice posuerunt. | かくも大いなる驚異を見ようとあらゆる人々が馳せ来て、無知と罪の赦しを乞い願う。このようなわけで、人々は崇敬の念を以ってマリーヌスの遺体を聖堂内に安置した。 | |||
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Illa autem, quae famulam Dei infamaverat, a daemone arripitur et scelus suum confitens et ad sepulcrum virginis veniens liberatur. Ad cuius tumulum populi undique confluunt et multa miracula ibi fiunt. | いっぽう神の婢(はしため)を陥(おとしい)れた女は悪霊に憑かれるが、自らの罪を告白しておとめの墓所に参り、悪霊から解放される。この驚くべき場に大勢の人々が加わり、多くの奇蹟がその場で起こる。 | |||
Obiit autem XVI calendas Iulii. | 聖マリーナが亡くなったのは、7月16日である。 |