福音記者聖マルコ
Sanctus Marcus Evangelista
(上) Martin Schongauer,
Der Markuslöwe, Kupferstich, the British Museum
キリスト教の聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれます。旧約聖書はカトリックとプロテスタントで一部の内容が異なりますが、新約聖書は同じ物を使っています。新約聖書は二十七巻の文書から成り立ちます。初めの四巻は福音書と言って、イエス・キリストをめぐる出来事や、イエスの言行を記録しています。福音書の著者を福音記者あるいは福音史家と呼びます。マルコは四人いる福音記者のひとりです(註1)。
伝承によると、福音記者聖マルコはアレクサンドリアの司教として殉教しました。聖マルコの祝日は四月二十五日です。聖マルコがヴェネツィアの守護聖人であることはよく知られますが、これはヴェネツィアの商人たちがアレクサンドリアの墓所からマルコとされる遺体を盗み出し、ヴェネツィアに移葬したことによります。
【共観福音書の相互関係】
四つの福音書のうち、「ヨハネによる福音書」(ヨハネ伝)を除く三福音書(マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝)は共通する内容が多く、エウアンゲリア・シュノプティカ(希
εὐαγγέλια συνοπτικά 羅 EVANGELIA SYNOPTICA 共観福音書)と呼ばれます。形容詞シュノプティカの語源は名詞シュノプシス(希
σύνοψις)です。シュノプシス(シノプシス)は現代語では梗概の意味で使われますが、共に観ること、同じ視点で見ることが原意です。ヨハネ伝を除く三福音書は叙述の視点が共通しているので、共観福音書と呼ばれます。共観福音書の成立後、「ヨハネ伝」が独自の視点から記述され成立しました。
古伝によると、最初に書かれた共観福音書は、アラム語による「マタイ福音書」(アラム語マタイ伝)でした。しかしながらこれは失われ、断片も残っていません。その次に成立したのは「マルコ福音書」です。現行新約聖書に納められた四福音書のなかで、「マルコによる福音書」はいちばん短く、「マタイによる福音書」及び「ルカによる福音書」の半分程度しかありません。そのためかつて「マルコ福音書」は先行する「マタイ福音書」の要約版に過ぎないと軽んじられていました。しかしこれは間違いで、「マルコ福音書」は現行聖書の四福音書中最も古く、ギリシア語マタイ伝も、ルカ伝も、別資料(註2)由来の内容をマルコ伝に付け加えて成立したと考えられるようになり、現在ではこれが定説になっています(註3)。
すぐ後で説明するように、エウセビオスは「教会史」第三巻三十九章十五節でパピアスを引用し、マルコはペトロからの聞き書きによって福音書を書き記したと伝えます。マルコ伝が有する文体上の特徴として、ギリシア語アオリスト(過去形)の代わりに現在形を多用することが挙げられますが、これはペトロの語り口をそのまま反映したものと考えられます。
ペトロはローマ人に福音を伝えた使徒です。それゆえマルコ伝は主にローマの人々に向けて書かれたと考えられています。そのことが窺える箇所として、マルコ
12:43を挙げることができます。同所には「一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた」とあります。レプトン(希
λεπτόν)はギリシアの通貨ですが、これをローマの少額貨幣クアドラーンス(羅 QUADRANS)に置き換えています。これは福音書の読み手として、ラテン語を話すローマ人を想定しているからに他なりません。なお「ペトロの手紙
一」五章十三節において、ペトロはマルコを「わたしの子マルコ」と呼んでいます(註4)。
【福音記者マルコとは誰か】
(上)
稀少品 ヴェルメイユによる円形メダイユ 《ルイ・トリカール作 荒れ野に呼ばふ声あり 直径 17.6 mm》 福音記者聖マルコとライオン フランス製アンティーク 二十世紀前半または中頃
当店の商品です。
「マルコによる福音書」自体の記述に、著者の名前は含まれません。
第二福音書の著者がマルコであることを最初に書き遺しているのは、教父エイレーナイオス(希 Εἰρηναῖος ὁ Σμυρναῖος 羅 Irenaeus Lugdunensis, c. 130 - c. 200)です。エイレーナイオスはリヨンの第二代司教と伝えられ、幾つもの著作によって護教論と神学の発展に寄与した重要な人物です。
カイサレアのエウセビオス(Εὐσέβιος ὁ τῆς Καισαρείας, c. 265 - 339)は主著「エックレーシアスティケー・ヒストリア」(希
Ἐκκλησιαστική ἱστορία 教会史)で知られるギリシア教父です。エウセビオスは「教会史」第三巻三十九章において、ヒエラポリスのパピアス(註5)の著作から数か所を引用しています。同章十五節では福音記者マルコに関し、次の記述をパピアスから引用しています。秦剛平氏の訳により引用します。
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マルコは、ペテロの通訳になったので、主の言行について記憶している全てを順序どおりではないが、正確に書き記した。彼は主の言葉を聞いたことも主に従ったこともないが、わたしが今言ったように、後になってペテロに従った。ペテロは必要ならば教えたが、主の託宣をまとめることはしなかった。そこでマルコは、記憶したとおりに逐一書き記し、何一つ誤らなかった。なぜならば、かれは、自分が聞いたことを書き漏らさぬことと、虚偽を語らぬことだけで、ひたすら注意したからである。 |
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秦剛平訳 エウセビオス「教会史」III-39-15 パピアスからの引用 ISBN 978-4-06-292024-7 |
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なお「マルコによる福音書」には、イエスが捕縛されたとき、イエスの後についていった若者が登場します。 |
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一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。 |
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「マルコによる福音書」十四章五十一、五十二節 新共同訳 |
素肌に亜麻布を纏うのは寝巻であって、就寝するときの恰好です。深夜にイエスが捕縛されたとき、近所に住むこの若者は既に寝床に入っていたが、騒ぎで目が覚めて、何事かと様子を見に行ったのでしょう。この挿話は他の福音書に含まれないゆえ、若者とはマルコ自身のことではないかと考えられています。
イエスが捕縛されたときの様子をマルコが自分の目で見たのだとすれば、そのときのマルコはイエスに特段の関心を持っていなかったとしても、後になって当時のことが思い出され、人生に大きな影響を与えたでしょう。「マルコによる福音書」にだけ書かれた上記のエピソードは、マルコの一生を決めた衝撃的な体験のごく個人的な記録のように思えます。
【使徒言行録とパウロ書簡におけるマルコ】
マルコ(マルコス、マルクス)という名前の人物は「使徒言行録」や使徒書簡の数か所に登場しますが、そのすべてが同一人物か否かは聖書を読んだだけではわかりません。教会の伝承によると、マルコはペトロやパウロ、バルナバと行動を共にしています。「テモテへの手紙 二」四章十一節でルカと共に名前が挙がるマルコは、福音記者マルコのことと考えられています。
「使徒言行録」十二章十二節には、天使によって獄から解放されたペトロが「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った」と書かれています。ここに登場する「マルコと呼ばれるヨハネ」は、古くからの伝承において福音記者マルコと考えられています(註6)。この同定が正しければ、ヨハネ=マルコの母の名はマリアということになります。
「コロサイの信徒への手紙」四章十節で、使徒パウロは次のように書いています。
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わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。 |
このマルコとはヨハネ=マルコ、すなわち福音記者マルコのことです。パウロの証言から、福音記者マルコはバルナバ(註7)のいとこであったことが分かります。
「使徒言行録」十三章によると、パウロは第一回の伝道旅行にバルナバとマルコを伴いますが、マルコは若さゆえに途中で恐れを為したのか、パンフィリア(Pamphylia 小アジア南部、現在のトルコ共和国アンタルヤ県)でパウロとバルナバから離れ、ひとりでエルサレムに帰ってしまいました。パウロはマルコの行動にたいへん怒り、二回目の伝道旅行をバルナバと計画した際、マルコを再び伴おうとするバルナバと対立します。この結果、第二回の伝道旅行では、バルナバはいとこマルコを連れてキプロスに、パウロは弟子シラスを連れてシリアとキリキア(Cillicia パンフィリアの東隣)に、それぞれ出発しました(註8)。
パウロとマルコの関係はこのようにして悪化しましたが、その後およそ十五年ないし二十年が経って、パウロはマルコを受け容れました。パウロとマルコの和解は、上に引用した「コロサイの信徒への手紙」の他、パウロがローマで第一回の捕囚となっていたときに書いた「フィレモンへの手紙」二十四節(註9)、第二回の捕囚となっていたときに書いた「テモテへの手紙
二」四章十一節(註10)から読み取ることができます。
【新約聖書外の伝承におけるマルコの宣教と殉教】
(上) Valentin de Boulogne,
Saint Marc, l'Évangéliste, ca. 1624 - 26, huile sur toile, 120 x 146 cm, Musée National des Châteaux de Versailles et de Trianon
伝承によると、マルコはキュレーナイア(希 Κυρηναία 現在のリビア東部 註11)とエジプトで宣教活動を行いました。アレクサンドリア教会の創立者について、クレメンスとオリゲネスは特段何も書き残していません。これ対してカイサレアのエウセビオスは「教会史」第二巻十五節で「マルコによる福音書」の成立を論じた後、十六節においてマルコはエジプトに遣わされた最初の者であり、アレクサンドリア教会の創立者であると述べています(註12)。
四世紀まで遡ることが可能な伝承によると、マルコは多数の人を改宗させたために異教徒の恨みを買い、紀元68年頃に殉教しました。殉教の日付は四月二十五日とされています。異教徒たちは官憲の命に従い、処刑の前日からマルコの首に縄をかけ、アレクサンドリア近郊にあるブーコルゥ(βουκόλου 註13)の町を引き回しました。翌日もマルコは同じ虐待を受けた上、岩壁に四肢を打ち付けられて死んだと伝えられます。
更に別の伝承によると、マルコの遺体は死後に焼却されかけましたが、嵐が起こって火を消しました。マルコの遺体はアレクサンドリア近郊の殉教地に葬られ、司祭の叙階が行われる聖地となりました。また後の伝承によると、ヴェネツィアに移葬されるマルコの遺体が同市のヴェネタ潟(Laguna
Veneta)を過ぎたとき、ひとりの天使が降臨し、「我が福音記者マルコよ、汝に平和があるように。汝が体は此処に安らうべし」(羅 PAX TIBI
MARCE EVANGELISTA MEUS. HIC REQUIESCET CORPUS TUUM.)と唱えました。
【レビ人としての福音記者マルコ】
「マルコによる福音書」一章の冒頭は、二節に「マラキ書」三章一節を引用して「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。」と言い、イザヤ書」四十章三節をこれに続けて、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」と記します。マルコがこれら二預言書を引用する目的は、
洗礼者ヨハネがメシアの前触れであったと示すことです。洗礼者ヨハネは、レビ人でした。
一方バルナバに関して、「使徒言行録」四章三十六節から三十七節は次のように記しています。
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36. |
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レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、 |
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37. |
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持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。 |
バルナバがレビ人であるならば、バルナバと親戚関係にある福音記者マルコもレビ人であったと考えられます。それゆえ「マルコによる福音書」の冒頭に置かれた荒れ野のモティーフは、この福音書にこの上なくふさわしいものと言えます。
【ヴェネツィアの守護聖人聖マルコ】
(上) Tintoretto,
San Marco libera uno schiavo, o
Il miracolo dello schiavo, 1548, olio su tela, 416 x 544 cm, Gallerie dell'Accademia, Venezia 《聖マルコによる奴隷解放の奇跡》 十九世紀のフォリオ版フォトグラヴュール 画面サイズ
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先に述べたように、福音記者聖マルコはアレクサンドリアのブーコルゥで殉教し、その地に葬られたと伝承されます。ヴェネツィアに初めてキリスト教をもたらしたのはマルコであると伝承され、アレクサンドリアの墓所を訪れるヴェネツィア人巡礼者は多数に上りました。
一方九世紀の記録によると、聖マルコの聖遺物(遺体)はヴェネツィア司教座聖堂サン・マルコに安置されていました。すなわち 825年から 829年までドージェ(註14)を務めたジュスティニアーノ・パルティツィパツィオ(Giustiniano
Participazio, + 829 註15)の遺言に聖遺物への言及があり、また聖地巡礼からフランク王国に戻る修道僧の旅行記にも、聖マルコの遺体がヴェネツィアにあるとの記述を見出すことができます。
ブーコルゥに埋葬された遺体がヴェネツィアに安置されているのであれば、アレクサンドリアからヴェネツィアへと遺体が運ばれたことになります。移葬に関する口伝は九世紀以前から存在したはずですが、現存する移葬記の年代は十一世紀までしか遡ることができません。
伝承によると、十隻のヴェネツィア商船が嵐から逃れるためにアレクサンドリアに入港しました。二人のヴェネツィア商人ブオノ・ディ・マラモッコ(Buono
di Malamocco)とルスティコ・ディ・トルチェッロ(Rustico di Torcello)は篤信の徒で、聖マルコの墓所に日参していたところ、現地の司祭テオドロス(Theodorus)と修道士スタウラキウス(Stauracius)の知己を得ました。テオドロスは新しいモスクの建材を得るためにカリフが修道院の取り壊しを命じたことを商人たちに話し、聖マルコの遺体が冒涜されることを避けるため、ヴェネツィアに移葬してほしいと依頼しました。二人の商人は聖マルコの遺体を密かに運び出して籠に入れ、これを豚肉で覆って役人の眼をごまかしました。イスラム教徒は豚肉を忌避するゆえに、これで聖遺物を覆えば役人は詳しい検査をしないであろうと商人たちは考えたのですが、その作戦が成功したのです。ヴェネツィアに戻る航海中には聖マルコが出現して嵐の危険を予告するなど、聖遺物の真正性を保証する幾つもの奇蹟が続発し、船は無事ヴェネツィアに帰港しました。聖人の遺物はオリヴォーロの司教(註16)に引き渡され、そこから行列を組んでドージェの元に運ばれました。
アクイレイア(Aquileia フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県)はスロベニアとの国境近く、アドリア海の北端にあるたいへん古い町で、アクイレイア総大司教座(伊
il Patriarcato di Aquileia)を擁します。アクイレイア総大司教はたいへん大きな権威を持っており、およそ九十キロメートル西にある都市国家ヴェネツィアとの関係は常に緊張を孕んでいました。
アクイレイア総大司教の座所は、グラードのバジリカ・ディ・サンテウフェミア(la basilica patriarcale di Sant'Eufemia 聖エウフェミアのバシリカ)です(註17)。このバシリカは聖マルコの椅子を安置すると標榜していました。それゆえ福音記者マルコの遺体が齎されたのであれば、アクイレイア総大司教座聖堂であるバジリカ・ディ・サンテウフェミアが最も自然な安置所と考えられます。またヴェネツィアはオリヴォーロ司教区に属していましたから、アクイレイア総大司教のもとでないとすれば、オリヴェーロ司教に渡されるのが妥当といえましょう。それにもかかわらず聖マルコの遺体は、全くの俗人であるドージェ(統領)のもとに運ばれました。
伝承によれば、北イタリアに初めて福音を齎したのはマルコでした。マルティノ・ダ・カナル(Martino da Canal)は十三世紀の年代記記者で、「ヴェネツィア史」(
Les estoires de Venise)をフランス語で書いています。これはマルティノの手によると知られている唯一の作品で、ヴェネツィアの始まりから 1275年までの歴史を扱います。この「ヴェネツィア史」には、聖マルコの遺体がヴェネツィアに移葬される正当性を裏付ける説話が載っています。すなわち北イタリアとアクイレイアに福音を伝えた福音記者マルコは、その後ローマに戻りましたが、ローマに戻る途中、マルコの船はヴェネタ潟で一夜を明かしました。その夜マルコは都市国家ヴェネツィアの光景と、天使が現れて「我が福音記者マルコよ、汝に平和があるように。汝が体は此処に安らうべし」(羅
PAX TIBI MARCE EVANGELISTA MEUS. HIC REQUIESCET CORPUS TUUM.)と唱え、またマルコの遺体が敬虔なヴェネツィア市民に崇敬されるであろうと語るさまを幻視しました。
聖マルコ移葬の伝承において、聖人の遺体をヴェネツィアに運んだ商人ブオノ・ディ・マラモッコとルスティコ・ディ・トルチェッロは、自分たちヴェネツィア人こそがマルコの長子(羅
primogeneti filii)であると主張しました。聖人の遺体を宗教界に引き渡さなかった処置には、強力な都市国家ヴェネツィアの強い意志と自己主張を読み取ることができます。
【図像における聖マルコのライオン、あるいはヴェネツィアのライオン】
二世紀の教父リヨンの聖エイレナイオス(St. Eirenaeus Lugduni, c. 130 - 202)以来、四人の福音記者は
テトラモルフで象徴されます。テトラモルフは「エゼキエル書」一章ご節から二十節、及び「ヨハネの黙示録」四章六節から八節に登場します。四つのテトラモルフのうち、福音記者マルコにはライオン(註18)が割り当てられています。ライオンは比較的乾燥した場所に生息するため、荒れ野のイメージで書き出される福音書の記者マルコに、いかにも相応しい象徴の動物といえます。
(上) ヴェネツィア、ピアッツァ・サン・マルコの柱頭を飾る聖マルコのライオン
Il Leone di San Marco, Piazza San Marco, Venezia
聖マルコのライオンは時に翼や光輪を伴います。ライオンを象徴とする聖人は
聖ヒエロニムスをはじめ数人がいますが、マルコ以外の聖人のライオンは翼や光輪を有しません。
上の写真はヴェネツィアのピアッツァ・サン・マルコ(伊 Piazza San Marco 聖マルコ広場)にあるライオンのブロンズ像で、1170年代に建てられた花崗岩の柱頭を飾っています。この像は幾つかの部分を寄せ集めて作られており、核となるライオン像は紀元前三百年頃にキリキアのタルソス(註19)で異教の神を守護するグリフィンとして鋳造されたと考えられてきましたが、現在では唐朝の墓を守る像であった可能性が指摘されています。
柱頭のライオン像は福音記者聖マルコの象徴であるとともに、ヴェネツィアの象徴でもあり、絵画、彫刻、浮き彫りなどに同様の作例が見られます。ライオンは開かれた書物に両前足を載せていますが、この書物は聖マルコのライオン(ヴェネツィアのライオン)に共通する図像的要素で、聖マルコの幻視に現れ、また移葬の際にも天使が語った言葉の前半、すなわち「我が福音記者マルコよ」(羅
PAX TIBI MARCE EVANGELISTA MEUS)という聖人への呼びかけが記されています。
註1 辞書の見出し語の形(主格形)で示すと、マルコはギリシア語でマルコス(Μάρκος)、ラテン語でマルクス(MARCUS)という。新約聖書の原文はギリシア語で書かれているが、聖書の登場人物名を日本語で示すときはギリシア語を使わず、ラテン語の奪格で示すのが慣例となっている。マルコはマルクスの奪格形である。
註2 この別資料をQ資料(独 die Logienquelle Q 仏 la source Q)と総称する。Qはドイツ語クヴェレ(独 Quelle/Quellen 泉、源泉)の頭文字である。Q資料は大きく二つに分けられる。ひとつは、失われたアラム語マタイ伝のうちマルコが使わなかった部分で、イエスの公生涯の出来事である。公生涯の出来事の記録は、アラム語マタイ伝以外にもあったかもしれない。もうひとつは、マルコ伝が収録していないイエスの語録である。
Q資料の存在はほぼ定説となっているが、現物のQ資料は残っていない。すなわちアラム語マタイ伝は完全に失われているし、イエスの語録に関しては、そのような資料があったとの言及自体が古代の著作中に見出せない。Q資料はその存在が強く推認される資料であるが、それを証明する遺物はおそらく今後も見つからないであろう。
註3 マルコ伝の成立年代は紀元64年から70年までの間と考えられている。ギリシア語マタイ伝とルカ伝のいずれが先に成立したかは不明だが、マルコ伝よりも後のほぼ同時期に成立したらしい。
註4 共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。(「ペトロの手紙 一」五章十三節 新共同訳)
アレクサンドリアのクレメンスやリヨンのエイレナイオスによると、このバビロンはネロ治下のローマを指す。
註5 パピアス(Παπίας Ἱεραπόλεως/ὁ Ἱεραπολίτης, c. 60 - c. 140)はヒエラポリスの司教であった。ヒエラポリス( Ἱεράπολις)はアジア半島西部の内陸にあった町だが、現在は遺跡で、世界遺産に指定されている。
註6 イオアーン(ヨハンネース)はユダヤ人の間で、マルクスはローマ人の間で、それぞれありふれた名である。しかしながらユダヤ人がマルクスを名乗ることは滅多に無い。このことと「使徒言行録」に記録された状況を考え合わせれば、「マルコと呼ばれるヨハネ」に当て嵌まる人物は特定の一人に限定され、その人物は当時の教会内で大きな役割を果たしたと考えられる。このような根拠に基づき、「マルコと呼ばれるヨハネ」は福音記者マルコと同定されている。すなわち福音記者マルコはユダヤ人で、本来の名はイオアーン(ヨハンネース、ヨハネ)であるが、ローマ帝国民の通名としてマルクスとも名乗っていたのである。
註7 「使徒言行録」四章三十六節によるとバルナバはキプロス出身のユダヤ人で、元の名はヨセフ(Ἰωσήφ)だが、使徒たちからはバルナバス(Βαρναβᾶς)すなわち預言者の子、慰めの子と呼ばれていた。「使徒言行録」九章二十七節によると、エルサレムの使徒たちにパウロを紹介したのはバルナバである。バルナバは初代教会において重要な役割を果たし、「使徒言行録」十四章十四節ではパウロと共に使徒と称されている。
註8 「使徒言行録」十五章三十六節から四十一節。これ以降、バルナバは「使徒言行録」に登場しない。
註9 わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。(「フィレモンへの手紙」二十四節 新共同訳)
註10 ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。(「テモテへの手紙 二」四章十一節 新共同訳)
註11 現在のリビア東部は、古代にはギリシア語でキュレーナイア(Κυρηναία)、ラテン語でキュレーナイカ(CYRENAICA)と呼ばれた。この地域名は中心都市キュレーネー(Κυρήνη)に因む。新約聖書に典拠を見出し得ないコプト教会の伝承によると、福音記者マルコはイエス・キリストが生まれた三年後に、北アフリカのキュレーナイカ属州で生まれたとされる。
なおキュレーネー、ベレニーケー(Βερενίκη 現ベンガジ)、アルシノエー(Ἀρσινόη 現ベンガジ近郊)、アポッローニア(Ἀπολλωνία 現スーサ)、プトレマイス(Πτολεμαΐς 現トルメイタ近郊)を合わせて、リビアのペンタポリス(五都市)と呼んでいる。
註12 現在では、アレクサンドリア教会の創立者はマルコではないと考えられている。
註13 ブーコルゥ(希 βουκόλου)という町の名は、ブーコロス(希 βουκόλος 牛飼い、ディオニュソス信徒)の属格である。ブーコルゥは後にアリウス(Ἄρειος, c. 256 - 336)が司祭を務めたことでも知られる。
註14 ドージェ(羅 DUX 伊 il Doge)は都市国家ヴェネツィアの最高指導者であり、統領と訳される。ドージェ職は 697年から 1797年まで置かれていた。
註15 ジュスティニアーノ・パルティツィパツィオの遺言は歴史的客観性を有する資料である。しかるにこれよりも後の時代から伝わる伝承によると、パルティツィパツィオはブオノ・ディ・マラモッコ(Buono
di Malamocco)とルスティコ・ディ・トルチェッロ(Rustico di Torcello)という二人の商人に命じて、聖マルコの遺体を秘密裡にヴェネツィアへ移送させた。すなわち二人の商人はアレクサンドリアの墓所を守る修道僧たちを買収して聖人の遺体を盗み出し、積み荷の豚肉に紛れ込ませて役人の目をごまかし、828年1月31日にヴェネツィアへの移送を完了したのである。こうして聖マルコの遺体を手に入れたジュスティニアーノ・パルティツィパツィオは、聖人の墓所となる礼拝堂の建設を遺言し、これが後々発展してヴェネツィア司教座聖堂サン・マルコになったと伝えられる。
註16 オリヴォーロ司教区(伊 diocesi di Olivolo)はヴェネツィア大司教区の前身のひとつである。
註17 アクイレイアはランゴバルド族に攻略されたので、アクイレイア総大司教座は 568年にグラード(Grado フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ゴリツィア県)に移った。グラードはアクイレイアの南十二キロメートルに位置する。
註18 マルコのライオンは、アジアライオン(Panthera leo persica)である。現在のアジアライオンはインド北西部グジャラート州の野生生物保護区に数百頭が残るのみだが、かつてはバルカン半島から中東、ウクライナ、イランを経てインド西南アジアに至るまで、広い地域に生息していた。
註19 タルソス(Ταρσός)は聖パウロの出身地で、現在はタルスス(Tarsus)と呼ばれている。トルコ共和国東部のメルシン県東端に位置し、長らく地中海に面する重要な海港であった。
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