ストリドンの聖ヒエロニムス
Eusebius Sophronius Hieronymus Stridonensis, Εὐσέβιος Σωφρόνιος Ἱερώνυμος,
347 - 419
(上) Guido Reni,
"San Girolamo", 1635, olio su tela, 278 x 238 cm, Kunsthistorisches Museum, Wien
ストリドンの聖ヒエロニムスは古代キリスト教会における最も重要な教父のひとりであり、カトリック教会において現在三十六名とされている教会博士のなかでも、ミラノのアンブロシウス、ヒッポのアウグスティヌス、グレゴリウス大教皇とならび、この称号を最も早く与えられた人です。
聖ヒエロニムスは、ヒッポのアウグスティヌスやアレクサンドリアのオリゲネス、ナジアンスのグレゴリウスと並ぶ優れた学識の持ち主です。ヒエロニムスがギリシア語からラテン語に訳した「ウルガータ訳聖書」(羅
BIBLIA VULGATA)は、中世から近現代に至る西ヨーロッパのキリスト教において、核心的な役割を担い続けました。
聖ヒエロニムスの生涯、及びヒエロニムスの最大の功績であるウルガータ訳聖書について、以下に概説します。
【生誕から青年期 クロアチア、ローマ、トリエル、アンティオキア、コンスタンティノポリス】
ヒエロニムス自身の著作「デー・ウィーリース・イッルーストリブス」(
"DE VIRIS ILLUSTRIBUS")によると、生地はストリードー・ダルマチアエ(STRIDO DALMATIAE)です(註1)。生まれた年は不明ですが、他の資料との照合により、西暦
347年頃と考えられています。両親は裕福なキリスト教徒であったと伝えられます。
ヒエロニムスは十二歳でローマに留学し、ティランニウス・ルフィヌス(註2)やヘリオドールス・アルティネンシス(註3)と親交を結びました。ローマにおいて文法、修辞学、ローマ文学、雄弁術、天文学、哲学、ギリシア語を学んだあと、二十歳の頃にトリエル(Trier 現代のドイツ西端の町)に移り、神学の勉強を始めました。トリエル滞在中のヒエロニムスは、ポワチエのヒラリウス(Hilarius
Pictaviensis, c. 315 - 367)の「詩編講解」(
"Tractatus super Psalmos")と「宗教会議について」(
"De synodis")、を友人ルフィヌスのために筆写し、ヒラリウスの著作を通じて、当時産声を上げつつあった「隠修」という生き方に触れました。これに続いてヒエロニムスは、ルフィヌス、クロマティウスとともに数年間の共住修道生活を送り、生涯を修道に捧げる決意をしたと考えられます。
(上) Francisco de Zurbarán,
"San Jerónimo flagelado por dos ángeles", 1639 ヒエロニムスが373年の冬に見た夢を描いたスルバランの作品。
373年頃、数人の友人とともにシリア北部に移ったヒエロニムスは、数回に亙り当地で体調を崩します。「第百二十五書簡」によると、373年の冬に病気になった際、ヒエロニムスは夢の中で裁きの場に引き出され、「おまえはキリスト教徒ではなくキケロ教徒だ」と非難されて鞭を受けました。この体験に加え、当時の師ラオデキアのアポリナリス(Apollinaris
Laodicensis, c. 315 - 390)の勧めにより、ヒエロニムスは古典の研究を棄てて、聖書の研究に打ち込むようになりました。アンティオキアに移ったヒエロニムスは、エヴァグリウス・ポンティクス(註5)の弟子たちを指導するとともに、テルトゥリアヌス(註6)、カルタゴのキプリアヌス(註7)、ポワチエのヒラリウス(註8)の著作を研究しました。
375年、ヒエロニムスは、断食と禁欲の生活を送るために、当時隠修士が多く集まっていたキンナスリン(註9)の砂漠に退きます。ヒエロニムスはここでヘブル語を学び始め、最初の聖書注釈であるオバデヤ書講解を著しています。378年または379年にアンティオキアに戻ったヒエロニムスは、パウリヌス(註10)から叙階されて司祭となり、しばらく後にコンスタンティノポリス(現イスタンブール)に移りました。ヒエロニムスがコンスタンティノポリスに移ったのは、アンティオキアにいればアリウス説とアタナシウス説の対立、及びそれら神学上の対立に絡む政治的対立に否応なく巻き込まれてしまうからです。コンスタンティノポリスでのヒエロニムスは、二年に亙ってナジアンスのグレゴリウス(註11)に師事し、聖書の研究を進めました。ヒエロニムスがオリゲネス(註12)の業績に接したのはこの時期で、オリゲネスの影響を受けたヒエロニムスは、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語聖書の比較に基づく解釈を発展させました。またエウセビウスの「世界史」(註13)をラテン語に訳し、近年(304年から379年まで)の内容を同書第二部に補っています。
【ローマ滞在 382 - 384年】
352年にニケア公会議が開かれたのに続き、381年にはコンスタンティノポリスで公会議が開かれましたが、この公会議ではコンスタンティノポリス司教の地位がローマ司教及びエルサレム司教に並ぶものであり、アンティオキア司教及びアレクサンドリア司教の地位よりも上であると議決しました。この問題を協議するため、ヒエロニムスを叙階したアンティオキア司教パウリヌスはローマ司教ダマスス一世(Damasus
I, 305 - 384)のもとを訪れていましたが、ヒエロニムスは通訳としてローマに呼ばれ、382年から約三年間、同地に滞在しました。ヒエロニムスはギリシア語とラテン語に堪能である上に聖書にも造詣が深かったので、ダマスス一世に重用され、顧問の役割を果たしました。
この時代の西ヨーロッパでは何種類ものラテン語訳聖書が流布していました。これらウルガータ以前のラテン語訳聖書を「ウェトゥス・ラティナ」(羅 VETUS
LATINA 「古いラテン語」の意)といいます。ヒエロニムスはダマスス一世の依頼を受け、幾つかのギリシア語訳旧約聖書(註14)並びに新約聖書ギリシア語本文を基にして、「ウェトゥス・ラティナ」の改訂にも取り組みます。またこの頃、ヒエロニムスは、やはりダマスス一世に依頼されて、オリゲネスの「雅歌講解」(
"In Canticum Canticorum")及びディデュモスの「聖霊論」(
"De Spiritu Sancto")をラテン語に訳しています。
ローマのマルケッラ(Marcella, 325 - 410 註16)は非常に裕福な貴族階級の女性でしたが、夫を亡くした後、禁欲と苦行、祈り、慈善に身を捧げていました。マルケッラは聡明な女性でもあり、ギリシア語及びヘブライ語を能くしました。ヒエロニムスはローマにおいてマルケッラ邸に滞在し、聖書の翻訳を行いました。マルケッラを取り巻く敬虔な女性たちのグループに、パウラがいました。パウラは紀元前六世紀に記録を遡ることができるローマ最古の貴族、フーリウス氏族(羅
GENS FURIA, FURII)の出で、やはり非常に裕福かつ聡明な未亡人でした。パウラはマルケッラを通して知ったヒエロニムスに傾倒し、ラテン語訳聖書の仕事を手伝いました。パウラの娘であるエウストキウム(Eustochium
Juli, c. 368 - 418)は 384年頃、生涯に亙って処女を守る誓いを立てました。ヒエロニムスの「処女を守ることについて」(
"De custodia virginitatis")は、この機会にエウストキウムに宛てて書かれた書簡です。
当時のローマでは異教の風習が残っており、キリスト教会の司祭たちにも影響を及ぼしていました。ヒエロニムスはこのことに関して司祭たちを厳しく批判したので、ローマではヒエロニムスに対する反感が高まりました。ヒエロニムスの庇護者であったダマススが384年12月11日に亡くなると、ヒエロニムスは敵対的なローマを離れてアンティオキアに戻りますが、パウラとエウストキウムもまたヒエロニムスの跡を追ってアンティオキアに移りました。
【エルサレムとアレクサンドリア 385 - 386年】
385年8月、ヒエロニムスはきょうだいであるパウリニアヌス及び数人の友人とともにアンティオキアに戻り、しばらくしてパウラとエウストキウムも到着しました。アンティオキアのパウリヌスはヒエロニムスを叙階した司教であり、ローマに呼んだ人物でもありますが、パウリヌスもヒエロニムスたちに加わって、一行はエルサレム、ガリラヤ等の聖地に巡礼を行いました。このときヒエロニムスはエルサレムで古い友人ティランニウス・ルフィヌス(註2)に再会し、また修道に励む高徳の女性として知られたメラニア(註17)にも会っています。
385年の冬に、ヒエロニムスはパウラを伴ってエジプトを訪れ、アレクサンドリアでディデュモス(註15)からホセア書講解を聴いています。ヒエロニムスはディデュモスを讃えて、その禁欲は聖大アントニウス(註18)にも匹敵すると書いています。
【ベツレヘム 386 - 419年】
ヒエロニムスは禁欲生活を送りつつ聖書を研究する共同体を構想し、386年、ベツレヘムに修道院を作りました。これはパウラの財政的援助によるもので、建物の建設には三年を要しました。建物は男子修道院と女子修道院に分かれ、一部は巡礼者のための宿泊所になっていました。男子修道院の院長はヒエロニムスが、女子修道院の院長はパウラが務め、ヒエロニムスは聖書の講解を通じて男女の修道者を指導しました。ヒエロニムスは共同体生活の長所を評価する考え方で、身体の清潔さを保つこと、過剰な断食を避けて身体の健康を守ること、及び手仕事をすることを勧めていました。
ヒエロニムスはベツレヘムでユダヤ人ラビからヘブライ語を習うとともに、カイサレアでオリゲネスの諸著作とヘブル語旧約聖書及びそのギリシア語訳を研究しました。またパウラとエウストキウムの依頼を受けてガラテヤ書、エフェソ書、テトス書をラテン語に訳しています。389年、ヒエロニムスはパウロ書簡の翻訳を中断して、詩編とナホム書のラテン語訳に取り掛かります。この頃ヒエロニムスは聖書注解の手順を確立しましたが、これはオリゲネスの著作を大いに参考にした方法で、初めにさまざまな版に基づいて原文を訳し、次に歴史的な事柄を解説し、次に新約を予告する前表としての意味、最後に霊的意味をを解き明かすというものでした。この手順に従って、ヒエロニムスはミカ書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ハバクク書の注解を著しています。389年から
392年に七十人訳旧約聖書をラテン語訳した際、ヒエロニムスはオリゲネスのヘクサプラ(註14)に倣って作業を行っています。さらにヒエロニムスは、パウラとエウストキウムの依頼でオリゲネスの説教三十九編をラテン語訳しています。
カイサレアのエウセビウス(註13)はヘブライ語の地名をギリシア語に直した事典(
"Περι τῶν τοπικῶν ὀμομάτῶν" 「場所の名前について」)を著していますが、ヒエロニムスはエウセビウスの著作を補完する形でラテン語によるヘブライ語地名事典(
"De situ et nominibus locorum hebraicorum" 「ヘブライの場所の位置と名前について」)を著しました。当時キリスト教界で行われていた旧約聖書解釈は、七十人訳に依拠するのが普通でしたが、ヒエロニムスはヘブライ語地名事典の編纂を通してユダヤの伝統に親しみ、旧約聖書を一層正確に解釈できるようになりました。
ヒエロニムスはディデュモスの「聖霊論」(
"De Spiritu Sancto")をラテン語に訳すようにダマスス一世から依頼されましたが、ローマ滞在中に始めて中断していた翻訳作業を、この頃に完了しています。さらに「デー・ウィーリース・イッルーストリブス」(羅
"DE VIRIS ILLUSTRIBUS" 「著名な人々について」)と題した人名事典を著しています。「デー・ウィーリース・イッルーストリブス」はエウセビウスの「教会史」に倣い、キリスト教界の主だった人々について記述した本で、後世のための貴重な史料となりました。
四世紀後半のローマにヨウィアヌス(JOVIANUS, + 405)という元修道僧がいました。ヨウィアヌスの著書は現在では失われてしまいましたが、当時は広く読まれていたと考えられています。ヨウィアヌスは「断食と禁欲は必ずしも救いに至る優れた道ではなく、身体の健康もまた重要である」、「処女も既婚女性も離婚経験のある女性も、天国では同じ幸福に与(あずか)る」、「聖母マリアはイエスを産んだ後も一生の間処女であり続けたわけではない」等、近現代人から見れば尤もと思える意見を主張しましたが、ヒエロニムスはこれらの説に激しく反発し、393年、「ヨウィニアヌス駁論」(
"Adversus Jovinianum")を著しました。ヨウィアヌスを批判したのはヒエロニムスだけではなく、ミラノのアンブロシウスもヒッポのアウグスティヌスもヨウィアヌスを異端者と断罪していますが、ヒエロニムスは「ヨウィニアヌス駁論」においてあまりにも感情的に激昂し、上品とは言えない罵詈雑言をヨウィアヌスにぶつけています。
ヒエロニムスは優れた知性と真摯な求道心を有する真面目な人物でしたが、自分に対して厳しいのと同様に他人に対しても厳しく、しばしば激越な言葉で批判を展開したために、多くの敵を作りました。385年にエルサレムで面会したメラニアに関しても、ヒエロニムスは当初は大いに賞賛していましたが、後には侮辱的な言葉で口を極めて非難しています。「ヨウィニアヌス駁論」においてもヒエロニムスの言葉遣いは荒っぽく、あまりにも極端な表現が多く見られました。ローマの元老院議員パンマキウス(Pammacius,
+ c. 409)はヒエロニムスの古くからの友人であり、パウラの女婿(じょせい 娘の夫)でもありましたが(註 19)、ヒエロニムスから送られてきた「ヨウィニアヌス駁論」を読んで驚き、同書がローマで広がらないように手配しようと試みました。しかしながら同書は結局ローマで広がってしまい、ヒエロニムスは神が定め給うた結婚の価値を貶めているとして多くの人に批判されました。キリスト教著述家パッラディオス(註20)はティランニウス・ルフィヌスとヒエロニムスを比較し、ルフィヌスが模範的な修道者であるのに対して、ヒエロニムスは才能があるが気性が激しすぎると書いています。
ヒエロニムスは 393年に「サムエル記」と「列王記」を、394年に「ヨブ記」と幾つかの預言書を、395年に「歴代誌」を、398年に「箴言」「雅歌」「コヘレトの言葉」「詩編」を、399年に「トビト記」「ユディト記」を、400年に「エズラ記」をラテン語に訳しています。モーセ五書のラテン語訳は
395年頃または 398年頃に行われたと考えられています。
【オリゲネスの学説を巡る論争 393年以降】
アレクサンドリアのオリゲネス(Origenes, Ὠριγένης, c. 184 - c. 253 註12)はヒッポのアウグスティヌスに比肩する知性の持ち主であり、アウグスティヌスと双璧を為すキリスト教著述家です。自分に厳しい高徳の修道者でもありました。しかしながらその学説は一部の者から異端視され始めており、393年、ヒエロニムスはオリゲネスの学説に反対する宣言への署名を求められました。ヒエロニムスはオリゲネスの著書をラテン語訳していることからも分かるように、この著述家を高く評価していましたが、署名に応じました。ヒエロニムスに署名を求めた者たちは、ティランニウス・ルフィヌス(註2)を訪れて同様の署名を求めましたが、ルフィヌスはこれを断りました。
ルフィヌスの長上に当たるイルサレム司教ヨハネス二世(註21)はオリゲネス主義者と見做されてしばしば批判されていました。サラミス司教エピファニウス(註22)は
394年頃にエルサレムを訪れた際、聖画像を目にしてこれを引き裂きました。エピファニウスは当地の司教ヨハネスを批判するとともに、ヒエロニムスの仲間パウルスをヨハネスに断りなく叙階したため、ヨハネスはヒエロニムスたちを聖誕教会から追い出し、さらにエルサレム教区から追放しようと試みました。このような経緯を経て、ヒエロニムスは司教ヨハネス及びヨハネスを支持するルフィヌス(註2)と烈しく対立しました。
396年、ヒエロニムスは「ヨナ書」と「オバデヤ書」のラテン語訳を再開し、翌 387年にはイザヤ書の講解を著して、オリゲネスの学説を巡る騒動からいったん距離を置きました。いっぽうルフィヌスはオリゲネスによる幾つかの著作をラテン語に訳し、その序文においてヒエロニムスをオリゲネス主義者として強く非難しました。ヒエロニムスはこれに応えて、ルフィヌスは異端の嫌疑を恐れるあまりオリゲネスの原文を曲解して訳していると強い非難を加え、398年頃にオリゲネスの「諸原理について」(
"De Principiis")を自分でラテン語訳しました。そのために今度はヒエロニムスがオリゲネス主義に近いと見做される結果になりましたが、399年にローマ司教(教皇)となったアナスタシウス一世(Anastasius
I, + 401)がヒエロニムスを支持しました。守勢に立たされたルフィヌスは、アナスタシウスに向けたアポロギア(
"Apologia Quam Pro Se Misit Ad Anastasium Romanae Urbis Episcopum")で再びヒエロニムスを批判し、ヒエロニムスは「ルフィヌス駁論」(
"Adversus Rufinum")でこれに応じました。
【ヒエロニムスの聖書解釈 五世紀初頭】
ヒッポのアウグスティヌスはヒエロニムスによる数多くの著作に関心を寄せ、幾度にも亙って書簡を送りました。初めのうちヒエロニムスは返信しませんでしたが、404年以降は書簡が往復するようになりました。
忠実な同志であったパウラが 404年にパウラが亡くなると、ヒエロニムスは大きな精神的打撃を受けます。この頃のヒエロニムスは、西ヨーロッパにほとんど知られていなかったエジプトの共住修道制を紹介するために、古くからエジプトに伝わる修道規則、及び当地の偉大な師父であるパコミウス(Παχώμιος,
Pachomius Tabennisiensis, c. 292 - 346)らの修道規則をラテン語に訳しました。
この頃アクイタニア(Aquitania 現在のフランス北西部)にウィギランティウスという司祭がいましたが、406年、ヒエロニムスはトゥールーズ司教エクスペリウス(Exuperius,
+ c. 410)から書簡を受け取り、ウィギランティウスの説に関する意見を尋ねられました。ウィギランティウス(Vigilantius, c.
370 - ?)はアクィタニア(アキテーヌ 現在のフランス北東部)出身の司祭で、エルサレムでヒエロニムスを訪ねた後、
ノラのパウリヌス宛の手紙をヒエロニムスから預かって、アクィタニアに戻っていました。故郷に戻ったウィギランティウスは、
聖人の聖遺物崇敬と聖職者の独身制に異議を唱えていました。ヒエロニムスは「ウィギランティウス駁論」を著し、「使徒や殉教者たちは地上において肉体を持ち、自らの救いを心がける必要があった。それでも彼らは罪びとを執り成すことができた。地上においてさえそうであったのなら、勝利の栄冠を受けた聖徒たちは、いっそう罪びとを執り成すことができるはずだ」と論じました。
ベツレヘムに住むヒエロニムスの許には、ヨーロッパと北アフリカの巡礼者たちに託して、聖書に関して質問する数多くの手紙が寄せられました。ヒエロニムスは人々からの質問に答えつつ、イザヤ書のラテン語訳を続けました。パウラが亡くなるとき、ヒエロニムスはイザヤ書をラテン語訳すると約束したのですが、この約束はようやく
408年に果たされました。完成したラテン語訳イザヤ書を、ヒエロニムスはエウストキウムに捧げました。
【ペラギウス論争】
キリスト教では「アダムの子孫であるすべての人に原罪が受け継がれる」と考えます。しかるにイギリスの禁欲修行者であったペラギウス(Pelagius,
c. 350 - c. 420)は、神が人間を善き者として創り給うたことを重視し、人間の本性は善であると考えて、「アダムの原罪が全人類に受け継がれる」という考え方を否定しました。ヒッポのアウグスティヌスやヒエロニムスをはじめとする多くの思想家は、ペラギウスの思想をキリスト教の根幹に関わる誤謬であると考え、数々の書簡や著作で反論を試みました。ヒエロニムスは最晩年である
415年に「ペラギウス主義者を駁する対話」(
"Dialogus contra Pelagianos")を著し、この論争に参加しています。
ヒエロニムスは 394年頃にエルサレム司教ヨハネス二世(註21)と激しく対立した経緯がありましたが、司教ヨハネスはペラギウスと親しかったので、ペラギウス主義はエルサレムにおいても一定の勢力を有していました。ペラギウス主義を奉じる人々はヒエロニムスに反感を募らせ、416年、ベツレヘムにあるヒエロニムスの修道院を襲撃して建物に放火し、修道士一名が殺されました。この事件のせいでヒエロニムスたちは修道院を離れ、近在の砦に立て籠(こも)ることを余儀なくされました。事態を憂慮したローマ司教(教皇)インノケンティウス一世は、エルサレム司教ヨハネス二世に対し、ヒエロニムスたちに危害が及ばないようにすることを命じました。いっぽうペラギウスは418年のカルタゴ教会会議をはじめ、幾度にも亙る教会会議でその説を退けられました
418年はパウラの娘エウストキウムが亡くなった年でもありました。パウラの時と同様に、ヒエロニムスはエウストキウムの死を深く悲しみました。ヒエロニムスは
419年9月30日に亡くなりました。ヒエロニムスはエルサレムに埋葬されましたが、イスラム教徒がパレスティナに侵入した際に、ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ聖堂に移葬され、今日に至っています。
【「ウルガータ訳聖書」の意義と歴史】
ヒエロニムスの時代、近東及び東ヨーロッパの共通語はギリシア語、西ヨーロッパの共通語はラテン語でした。聖書はもともと旧約がヘブライ語、新約がギリシア語で書かれましたが、旧約は「七十人訳」をはじめとするギリシア語諸訳がありました。したがってギリシア語を解する人は旧約聖書も新約聖書も自由に読むことができました。
しかるにラテン語に関しては、「ウェトゥス・ラティナ」(羅 VETUS LATINA)と呼ばれる一群のラテン語訳聖書が西ヨーロッパに流布していましたが、標準的な訳と言えるものはありませんでした。ヒエロニムスはローマ司教(教皇)ダマスス一世の依頼を受け、幾つかのギリシア語訳旧約聖書(註14)並びに新約聖書ギリシア語本文を基にして、「ウェトゥス・ラティナ」の改訂に取り組むこととなり、これがヒエロニムスにとって一生の大事業となりました。こうして生まれたのが「ウルガータ訳聖書」(ヴルガータ訳聖書)で、ヒエロニムス最晩年の
405年頃に完成しました。
後述するように、「ウルガータ訳聖書」はユダヤの伝統を大きく受け継いでいることが特長です。現代人の目から見ればこれは長所にしか思えませんが、一部の人々から見れば、まさにこのことが疑惑の種にもなりました。ユダヤ教の伝統に色濃く影響されたラテン語訳聖書は、キリスト教徒が使うにはふさわしくないもののように思われたのです。このような理由ゆえに、ヒッポのアウグスティヌスやティランニウス・ルフィヌス(註2)は「ウルガータ訳聖書」の導入に批判的でした。しかしながら七、八世紀になると「ウルガータ訳聖書」はよく普及し、1545年から
1563年まで開催されたトリエント公会議では、「ウルガータ訳」がカトリック教会の公式聖書と定められました。
【「ウルガータ」という名称の意味】
ラテン語の名詞「ウルグス」(VULGUS 民衆)から、「ウルゴー」(VULGO 民衆に浸透させる、人々にわからせる)という動詞ができます。動詞「ウルゴー」の完了分詞「ウルガートゥス」(VULGATUS 男性単数主格形)は、性数格に応じて屈折(語尾変化)します。「ウルガータ」(VULGATA)は「ウルガートゥス」の女性形、詳しく言うと女性単数主格形です。「ウルガータ」が女性形であるのは、女性名詞である「ビブリア」(BIBLIA 聖書)に性が一致しているからです。要するに「ウルガータ」とは「ウルガータ・ビブリア」のことであり、人々に分かるようにされた聖書、すなわち西ヨーロッパの人々にも分かるようにラテン語訳された聖書という意味です。
【旧約聖書をヘブライ語原文から翻訳する意義、及びユダヤ教における伝統的聖書解釈がキリスト教にとっても有益である理由】
ヒエロニムスはもともとギリシア語の話者でしたが、少年時代からローマをはじめとする各所で勉学を続け、ラテン語にも精通していました。またヘブライ語を学ぶためにベツレヘムに定住し、言葉のみならず、ユダヤ教の伝統に基づく聖書(すなわち旧約聖書)解釈にも通じるようになりました。
ある言語で書かれた内容を全く別の言語に翻訳すれば、翻訳の過程で多くの重要な情報が失われます。誤訳や、翻訳者による意図的な改変の可能性もあります。したがって思想、歴史、文学を本格的に研究するには、原テキストを元の言語のまま読めなければなりません。現代人にとってこれは常識と思えます。しかしながらヒエロニムスの時代には、聖書を論じる人がギリシア語しか解さず、旧約聖書に関してはギリシア語訳に頼っている場合がしばしばありました。
新約聖書は旧約聖書の基礎の上に建てられた建物にも譬えられます。たとえば「マタイによる福音書」を読めばすぐに分かるように、旧約聖書の知識が無ければ、新約聖書を正しく読み解くことができません。旧約聖書を深く知るには、ヘブライ語の語学力は必須です。ヒエロニムスはこのことをよく理解していましたので、旧約聖書をラテン語に訳す際も、いくつかのギリシア語訳を参考にしつつ、常にヘブライ語原文を確かめて作業を進めてゆきました。ヒエロニムスのこのような姿勢は近代における良心的翻訳者とまったく同じであり、その先進性は賞賛に値します。
伝統的図像におけるヒエロニムスは、聖書を研究する独房の隠修士として、十字架、聖書、
髑髏とともに描かれます。下の写真はシモン・ヴーエの作品で、ヒエロニムスは天使の援けを借りてウルガータ訳の仕事を進めています。天使は恩寵に基づく霊感を象徴し、福音記者とともに描かれることも多くあります。なおヒエロニムスが着ている赤い衣は、後述するように、教皇ダマスス一世の相談役として、ヒエロニムスを枢機卿に擬した表現です。
(下) Simon Vouet,
"Saint Jérôme et l'ange", c. 1625, the National Gallery of Art, Washington
また鞭や石を伴い、砂漠で苦行に励む半裸の修行者としても描かれます。ただし史実においてヒエロニムスが砂漠で苦行に励んだのは二十歳代後半の頃ですが、図像ではほとんど常に年老いた苦行者として描かれています。下の写真はティツィアーノ最晩年の作品です。この作品において、ヒエロニムスは右手に石を持っています。足下には体を鞭打つ棘のある枝の束が置かれています。
(下) Tiziano,
"San Girolamo", c. 1575, Museo Thyssen-Bornemisza, Madrid
「レゲンダ・アウレア」の聖ヒエロニムス伝によると、ヒエロニムスはある日砂漠で前足に棘が刺さって苦しむライオンに出会い、棘を抜いて手当をしてやりました。感謝したライオンは、その後ヒエロニムスに付き随うようになりました。この物語に基づいて、ヒエロニムスはライオンと共に描かれます。ただし「レゲンダ・アウレア」に収められているこの逸話は、ヒエロニムスをヨルダンのゲラシムス(註23)と混同したものと考えられます。
(下) Vittore Carpaccio,
"San Girolamo e il leone nel convento", 1502, tempera su tavola, 141 x 211 cm, Scuola di San Giorgio degli Schiavoni,
Venezia
変わったところでは、ヒエロニムスは赤い帽子と赤紫のマントを身に着けた枢機卿の姿で表される場合があります。ヒエロニムスは 382年からおよそ二年間に亙ってローマ司教ダマスス一世の相談役であったので、教皇を補佐する枢機卿になぞらえた姿で表現されているのですが、枢機卿という地位はずっと後の時代、紀元一千年頃に創設されたものですので、ヒエロニムスが枢機卿であったわけではありません。
(下) Hans Memling,
"De heilige Hiëronymus"
聖ヒエロニムスは学者、翻訳家、図書館職員、学生、巡礼者の守護聖人です。また「レゲンダ・アウレア」のライオンの逸話に基づき、動物の守護聖人でもあります。カトリック教会における聖ヒエロニムスの祝日は九月三十日、正教会における祝日は六月十五日です。
註1 「デー・ウィーリース・イッルーストリブス」第百三十五章から、ヒエロニムスの生地に関する記述を抜粋し、ラテン語原文と日本語訳を示します。日本語訳は筆者(広川)によります。
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Hieronymus patre Eusebio natus, oppido Stridonis, quod a Gothis
eversum, Dalmatiae quondam Pannoniaeque confinium fuit. |
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ヒエロニムスは、エウセビウスを父として、ストリードーの町に生まれた。ストリードーはゴート人たちに覆された町であるが、一時はダルマティアとパンノニアの境界であった。 |
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"DE VIRIS ILLUSTRIBUS", caput CXXXV |
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「デー・ウィーリース・イッルーストリブス」 第百三十五章 |
「ストリードー・ダルマチアエ」は、現代のストリゴヴァ(Štrigova)に当たると考えられています。ストリゴヴァはクロアチア共和国北端のメジムリェ郡にある小さな町で、スロヴェニア共和国及びハンガリー共和国との国境から近いところにあります。ストリゴヴァには十八世紀に建てられた聖ヒエロニムス教会が残っています。
註2 ティランニウス・ルフィヌス(アクィレイアのティランニウス Tyrannius Rufinus, Rufinus Aquileiensis;
c. 345 - c.411)は学識のある禁欲修行者で、オリゲネスの著作をギリシア語からラテン語に翻訳した業績がよく知られています。
アクィレイアはアドリア海北端の町で、ヒエロニムスの時代には海辺にありました。当時は繁栄を究める大都市でしたが、458年、アッティラによって破壊されました。現代のアクィレイアはスロヴェニアとの国境に近いイタリアの小さな町で、海岸線の後退により、アドリア海から五キロメートルほど内陸に位置しています。
註3 ヘリオドールス・アルティネンシス(アルティヌムのヘリオドールス Heliodorus Altinensis, c. 340 - c. 407)は、370年頃から
388年頃までアクィレイア司教を務めたヴァレリアヌス(Valerianus Aquileiensis)の弟子で、同じくヴァレリアヌスの弟子であったクロマティウスと親交がありました。ヘリオドールスはヒエロニムスに従って荒れ地で禁欲的な修行を行い、後にアルティヌムの初代司教となりました。アリウス派と激しく論争したことで知られています。
アルティヌム(ALTINUM)はアドリア海の北端近くにあった大きな町ですが、452年頃、アッティラに滅ぼされました。現在のイタリアの町クァルト・ダルティノ(Quarto d'Altino ヴェネト州ヴェネツィア県)は、アルティヌムの一部にあたります。
註4 クロマティウス(Chromatius Aquileiensis, c. 335 - 409)は後にアクィレイア司教となった神学者です。アリウス派と烈しく論争したこと、ヨハネス・クリュソストモスを熱心に支持したことでも知られています。
註5 ポントスのエヴァグリウス(Evagrius Ponticus, Εὐάγριος ὁ Ποντικός, c. 345 - 399)は優れた神学者であり著述家です。カイサレアのバシレウス、ナジアンスのグレゴリウス、エジプトのマカリオスらに師事し、後にニトリア、ケリアの砂漠で隠修生活を送りました。
註6 テルトゥリアヌス(Quintus Septimius Florens Tertullianus, c. 150 - c. 220)はカルタゴ出身の神学者、護教論者で、最初期のラテン教父のひとりです。
註7 キプリアヌス(Thaschus Cæcilius Cyprianus, c. 200 - 258)は優れた著述家であり、ラテン教父のひとりです。キプリアヌスはキリスト教に改宗してすぐに深い知識を身に着けて、カルタゴ司教となりました。
註8 ポワチエのヒラリウス(Hilarius Pictaviensis, c. 315 - c. 368)は三位一体論に関する著作で知られるラテン教父です。教会博士のひとりでもあります。
註9 キンナスリン(Qinnasrin)はアンティオキアから南西の方角にある乾燥した場所で、ラテン語ではカルキス・アド・ベルム(CHALCIS
AD BELUM ベルム川のほとりのカルキス)と呼ばれます。
註10 四世紀はキリストの神性に関する有力な二説が激しく対立し、勢力を争った時代でした。二説の一方はアレクサンドリアの司祭アリウス(Arius,
Ἄρειος, 256 - 336)とその後継者たちが体系化した説で、キリストの本質と父なる神の本質は同じではなく、キリストは父なる神に創られたと考えました。もう一方の説は同じくアレクサンドリアの司祭アタナシウス(Athanasius
Alexandrinus, Ἀθανάσιος Ἀλεξανδρείας, c. 296 - 373)とその後継者たちが体系化した説で、キリストの本質と父なる神の本質は同じであると考えました。これら二説の対立が絡んで、当時のアンティオキアには複数の司教が並び立ちました。
互いに対立するアンティオキア司教たちのうち、最も勢力があったのは、ヒエロニムスを叙階したパウリヌス(Paulinus)でした。ルキフェル・カラリターヌス(カリアリのルキフェル Lucifer
Calaritanus, + c. 370)によって 362年にアンティオキア司教とされ、382年まで「アンティオキア司教パウリヌス二世」を名乗っていました。ローマ司教とアレクサンドリア司教はパウリヌスをアンティオキア司教と認めていました。
註11 ナジアンスのグレゴリウス(Gregorius Nazianzenus, 329 - 390)はカッパドキアに生まれた神学者で、最高の知性を備えたギリシア教父のひとりであり、教会博士ともされています。
註12 アレクサンドリアのオリゲネス(Origenes, Ὠριγένης, c. 184 - c. 253)は厳格な禁欲を実践したゆえにオリゲネス・アダマンティウス(Origenes
Adamantius, Ὠριγένης Ἀδαμάντιος ダイアモンドのオリゲネス)と綽名された神学者で、アウグスティヌスと並ぶ最高の知性の持ち主です。カトリック教会は六世紀半ばになってオリゲネスの学説を異端と断罪しました。しかしながら筆者(広川)は、オリゲネスの説はすべて正しいと考えます。オリゲネスは正当な再評価が切に待望される思想家です。
註13 カイサレアのエウセビウス(Eusebius Caesariensis, Εὐσέβιος ὁ Καισάρειος; 265 - 339)、またはパンフィリアのエウセビウス(Eusebius Pamphili)はオリゲネスの弟子で、歴史と神学に関する浩瀚な著述を行っています。「世界史」(
"Παντοδαπὴ ἱστορία")、「教会史」(
"Ἐκκλησιαστικὴ ἱστορία")、「コンスタンティヌス大帝の生涯」(
"Βίος Μεγάλου Κωνσταντίνου")は特によく知られています。
「世界史」はアブラハムからコンスタンティヌス帝までの歴史を扱います。この著作は二部に分かれ、第一部はエウセビウス以前の著作家からの抜粋、第二部はエウセビウスが構成した年表「カノーン・クロニコス」(
"Κανὼν χρονικός")となっています。
「世界史」は原テキストが残らず、第一部はアルメニア語訳によって、第二部はヒエロニムスのラテン語訳によって、内容が知られます。「世界史」第二部にもともと収録されているのは西暦
303年までの出来事でしたが、ヒエロニムスは第二部をラテン語訳するとともに、その内容を 379年まで広げています。
註14 ヘレニズム世界の共通語はギリシア語でした。旧約聖書はもともとヘブライ語で書かれていますが、ヘブライ語を解する人は少ないので、ギリシア語旧約聖書が作られました。
オリゲネスは旧約聖書のヘブライ語本文に複数のギリシア語訳を並置した書物「ヘクサプラ」(
"Ἑξαπλᾶ")を作っています。オリゲネスは「ヘクサプラ」に、「七十人訳」(
"Ἡ μετάφρασις τῶν Ἑβδομήκοντα")、シノペのアクィラ(Aquila Ponticus, fl. 130)による訳、シュンマコス(Ἐβιωνίτης Σύμμαχος エビオン派のシュンマコス 二世紀後半)による訳、テオドティオン(Θεοδοτίων,
+ c. 200)による訳を採用しています。
上記諸訳のうち、最も普及していたのは「七十人訳」ですが、ヒエロニムスはシュンマコスのギリシア語訳を最も高く評価し、旧約聖書をラテン語に訳す際、大いに参考にしました。
註15 ディデュモス(Δίδυμος ο Τυφλός, c. 310 - 398 盲目のディディモス)はアレクサンドリアの神学者で、深い洞察に満ちた著作を数多く著しました。ヒエロニムスはディデュモスを深く尊敬しています。
註16 マルケッラの母も敬虔且つ聡明な女性でした。マルケッラの幼時には、ローマ滞在中のアレクサンドリア司教アタナシウスが家に泊まっていました。
註17 メラニア(Melania, c. 323 - 410)はイスパニア出身の非常に裕福な貴族女性です。十四歳の頃、プラエフェクトゥス・ウルビ(羅
PRAEFECTUS URBI 首都長官)及びアカエア属州総督であった高位の貴族と結婚してローマに移りましたが、二十二歳で夫と死別した後にキリスト教徒となり、アレクサンドリアに渡ってニトリア、ケリアの砂漠で隠修生活を送りました。アレクサンドリア司教アタナシウスの没後に当地でキリスト教徒迫害が始まると、多数の隠修士がシリアに逃れましたが、メラニアは莫大な資産を以て彼らを助け、エルサレムに女子修道院を、オリーヴ山に男子修道院を建てました。
オリゲネス(註12)の諸説について、390年頃に論争が起こった際、メラニアはオリゲネス(註14)の説を擁護しました。またメラニアはティランニウス・ルフィヌス(註2)と親しい関係にありました。このため、解説の本文で後述するように、ヒエロニムスとの関係は後に悪化しました。
メラニアは、同名の孫メラニアと区別するために、メラニア・マイヨル(羅 MELANIA MAIOR 年長のメラニア)とも呼ばれます。互いに祖母と孫娘の関係にあるふたりのメラニアは、いずれも聖女として崇敬されています。
註18 大アントニウス(Antonius abbas
, c. 251 - 356)は隠修生活の創始者とされるエジプトの聖人です。二十歳の頃に回心を経験し、すべてを捨てて砂漠に移り住みました。「聖アントニウスの誘惑」はよく知られた逸話で、たびたび絵画や文学作品の題材になっています。
註19 パウラにはエウストキウムを含めて四人の娘がいました。パンマキウス(Pammacius, + c. 409)の妻はパウラの娘で、母と同名のパウラでした。
註20 パッラディオス(Παλλάδιος, c. 363 - c. 430)は小アジア中央部ガラティア出身のキリスト教著述家です。387年頃にオリーヴ山の修道院に入り、390年頃にエジプトに渡ってディデュモス(註15)等の指導を受けています。400年から
406年までビテュニア(Βιθύνια 小アジア北西部)のヘレノポリス(Ἑλενόπολις)で、417年から死去のときまでガラティアのアスプナ(Aspuna)で、それぞれ司教を務めています。パッラディオスはヨハネス・クリュソストモス(Ἰωάννης
ὁ Χρυσόστομος, c. 344 - 407)と親交がありました。
註21 ヨハネス二世(Ἰωάννης Β΄ Ἐπίσκοπος Ἰεροσολύμων, c. 356 - 417)はキュリロス一世(Κύριλλος
Α΄ Ἱεροσολύμων, c. 313 - c. 386)を継いでエルサレム司教となりました。東方正教会とローマ・カトリック教会で聖人とされています。ヒエロニムスは「エルサレムのヨハネス駁論」(
"Contra Ioannes Hierosolymitanum")を著し、この人に苛烈な論難を浴びせています。
註22 エピファニウス(Ἐπιφάνιος Ἐπίσκοπος Κωνσταντίας καὶ Ἀρχιεπίσκοπος Κύπρου, c.
310 - 403)はキプロス島サラミスの司教です。375年頃に著した「パナリオン」(
"Πανάριον")は創世記の時代から現代(すなわち四世紀後半)に至る八十の異端説をまとめたもので、古代の非正統的キリスト教思想に関する資料の宝庫となっています。「パナリオン」とはギリシア語で「薬箱」のことで、「異端の害毒に対する薬」という意味を籠めています。
註23 ヨルダンのゲラシムス(Gerasimus, + c. 475)はリュキア(Lycia 小アジア南西部)出身の修道者です。裕福な家庭に生まれましたが、世俗の財産を棄てて、当時多数の隠修士がいた上エジプトのテーバイス(Θηβαΐς)に渡り、いったんリュキアに戻ってからパレスティナに渡って、ヨルダン川の近くに修道院を開きました。ゲラシムスは
451年のカルケドン教会会議に出席しています。よく知られた伝承によると、ゲラシムスは前足にとげが刺さって苦しむライオンを救いました。この逸話に基づいて、ゲラシムスはライオンとともに描かれます。
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