シラクサの聖ルチア 聖ルキア
Sancta Lucia Syracusana, c. 283 - 303 ?
(上) Francisco de Zurbarán,
Santa Lucia, c. 1635 - 1640, óleo sobre lienzo, 104 x 77 cm, National Gallery of Art,
Washington, D.C.
シラクサの聖ルチア(Sancta Lucia Syracusana, c. 283 - 303?)はシチリアのシラクサで領主の娘として生まれ、ディオクレティアヌス帝時代の四世紀初頭に殺害された殉教処女です(註1)。殉教の年には諸説あって、303年、あるいは
304年、あるいは 310年といわれています。ラヴェンナ、サンタポリナーレ聖堂のモザイク画には数多くの殉教処女が描かれますが、聖ルチアもそのうちの一人です。聖ルチアの祝日は12月13日です。
イタリア語ルチアのラテン語発音はルーキアで、これはルーキウス(羅 LUCIUS 男性名)の女性形にあたります。ルーキア、ルーキウスは名詞ルークス(羅
LUX 光)の語幹(LUC-)に "-I-" を接続して形容詞幹とし、第二変化名詞(-USで終わる男性名詞)または第一変化名詞(-Aで終わる女性名詞)を付けた語であって、ルーキア、ルーキウスは光の子という意味です。名前が有するこのような意味、及びユリウス暦の12月13日がグレゴリオ暦では12月26日すなわち冬至に当たり、冬至は日脚が伸び始める日であることから、とりわけ長い冬に光を待望するスウェーデンにおいて、聖ルチア祭は盛大に祝われます。
シチリアには三人の有名な聖女がおり、シラクサの聖ルチアはそのうちの一人です。あとの二人はカターニアの聖アガタ(Sancta Agatha Cataniensis,
c. 231 - 251)と、パレルモの聖ロザリア(Rosalia Panormitana, c. 1130 - 1156)です。
【聖ルチアの生涯】
(上) Quirizio di Giovanni da Murano,
Santa Lucia e storie della sua vita, tempera su tavola, Pinacoteca dell'Accademia dei Concordi, Rovigo
ルチアは母エウテュキア(註2)とふたりでシラクサに住んでいました。ルチアはキリストと殉教処女聖アガタを篤く崇敬していました。母エウテュキアは出血性腸炎に四年間苦しみ、ルチアがカターニア(註3)に殉教者聖アガタの墓所を訪れて、母の快癒のために執り成しを祈ったところ、次の夜にアガタがルチアに現れて、「私に癒しを求めずとも、あなた自身がお母様を癒すことができます。私がカターニアの守護聖人となったように、あなたはシラクサの守護聖人になります」と告げました。母はこの翌朝に快癒し、ルチアは父の遺産をすべて貧者への施しに充てたいと考えて、母もこれに同意しました。母娘はすべての所有物を貧者に施し、ルチアは幼時からの願い、すなわち結婚せずに貞潔を守り、キリストに仕えたいという気持ちを母に告げました。
しかるにこれより前、母は或る若者に対して、娘ルチアを嫁がせる約束をしていました。若者はルチアが結婚せずに貞潔を守りたがっていること、若者が欲しがっていた父の遺産をすべて売り払って貧者に施したことを知り、許嫁であるルチアをキリスト教信仰の廉により、シチリア属州のローマ総督パスカシウス(Pascasius)に訴えました。なぜ貞潔を守るのかと問う総督に、ルチアは聖霊の宮である身体を清く保つためですと答えました。総督はルチアに対し、ならば聖霊が出てゆくようにお前を娼家に送ってやろうと言いましたが、ルチアはたとえ貞潔を失なったとしても、まさにそのことゆえに自分は天国でいっそう大きな恵みを受けるであろうと答えました。
ルチアの勇敢さに苛立った総督は、彼女を娼家に連れてゆくよう命じました。しかしながらルチアの体は聖霊の力によってその場に留まり、大勢の男性たちと多数の牛が引っ張ってもまったく動きませんでした。激怒した総督は熱したピッチや松脂、煮えたぎる油をルチアの上に注ぎ、さらにはルチアの周りに薪を積み上げて火をつけましたが、ルチアは炎に包まれつつキリストに参加を捧げ、炎は彼女にいかなる害も与えることが出来ませんでした。遂にはルチアの喉に剣が突き立てられましたが、ルチアはすぐには死なず、司祭から
聖体を受けてようやく殉教を遂げました。
別の
ハギオグラフィ(聖人伝)によると、ルチアは目を抉り取られたとも、あるいはルチアの眼が美しいから手放したくないのだという婚約者の言葉を聞いて、ルチアが自分で目を抉り出し、皿に載せて婚約者のところに持って行ったとも言われています。ルチアが目を失うと、前よりもいっそう美しい目を聖母がルチアに与え給うたとも伝えられます。
【聖ルチアの祝日と墓所】
(上) ヴェネツィアのサン・ジェレミア教会 la Chiesa di San Geremia 十九世紀の版画
第二ヴァティカン公会議はヨハネス二十三世が 1959年に開催を呼びかけ、1962年から1965年まで開催されました。公会議前である1960年の教会暦で
9月16日は聖ルチアの生誕を祝う祝日でしたが、1969年の教会暦ではこの祝日が廃され、聖ルチアの祝日は殉教の日である12月13日に統合されました。
聖ルチアの聖遺物はシラクサからコンスタンティノープルに移葬されましたが、コンスタンティノープルがオスマントルコの手に落ちた 1453年に、ヴェネツィアのサン・ジェレミア教会(la
Chiesa di San Geremia 註4)に移されました。また一部の骨はシラクサに移葬されました。別の一部はフランス東部のメス(メッツ
Metz グラン=テスト地域圏モーゼル県)のラ・バジリク・サン=ヴァンサン(la basilique Saint-Vincent)に移葬されました。
【聖画像における聖ルチア】
最古の聖ルチア像はラヴェンナのサンタポリナーレ聖堂壁面にあるモザイク画です。しかしながらこの作品は聖ルチア、聖アガタ、聖バルバラ、聖カエキリアなど多数の殉教処女を白い衣を着た画一的な姿で表しており、どの人物もアトリビュート(英
attribute)すなわち聖人を同定する手掛かりとなる象徴的な持物(じぶつ)を持っていません。聖女の同定は、モザイクの文字で記された名前によってのみ可能です。
多くの図像において、聖ルチアは殉教に関連する場面、すなわち総督の前で裁かれている場面や聖霊の力で不動になった場面がよく描かれます。十四世紀になると視力に問題を抱える人々が聖ルチアの執り成しを求めるようになり、この頃から両眼を皿に乗せ、あるいは鉢に入れた聖女の姿が描かれるようになります。
【守護聖人としての聖ルチア、及び聖ルチアの護符】
目を失ったルチアに聖母がいっそう美しい目を与え給うたとの故事に基づき、聖ルチアは眼病を癒してくれる守護聖人とされます。聖ルチアは眼鏡屋と眼科医の守護聖人でもあります。また喉を刺し貫かれて殉教した故に、聖ルチアは喉の病気を癒してくれる守護聖人ともされます。
セイヨウハリサザエ(Bolma rugosa, Linnaeus, 1767)は、地中海に広く分布するサザエの仲間です。この貝のオペルクルム(羅
operculum 軟体部を守る蓋)はオッキオ・ディ・サンタ・ルチア(伊 occhio di Santa Lucia 聖ルチアの眼)と呼ばれ、整形研磨されてペンダントやイヤリングに加工されます。
オッキオ・ディ・サンタ・ルチアは単なる装身具ではなく、邪視(伊 malocchio)を防ぎ幸運をもたらす護符と考えられます。オッキオ・ディ・サンタ・ルチアを身に着ける習慣はシチリア島だけでなく、ナポリをはじめとする南イタリアや、フランス領であるコルシカ島にも見られます。
中世以前の自然科学において、視覚は眼光すなわち眼から出る光によって成立すると考えられていました。それゆえ眼の聖女である聖ルチアは、現代では電気関係の仕事をする人の守護聖女ともされています。これはルチアの名が持つ光という意味のせいでもあるし、眼光を発する目を、照明器具になぞらえることができるせいでもあるでしょう。
聖ルチアは商売人全般の守護聖人とされることもあります。エジソンが白熱電球を発明する以前の照明器具はランプか蝋燭で、ランプ用の油や蠟燭は雑貨屋に売っていました。英語で雑貨屋をチャンドラー(英
a chandler)と言いますが、この語はもともと蠟燭屋という意味です。ルチアが商売人の守護聖人とされるのは、蠟燭屋の守護聖人から守備範囲が拡張されたものでしょう。聖ルチア祭はたいへん美しい光の祭典で、多数の蠟燭が灯されます。
註1 |
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長靴形のイタリア半島のつま先近くに、地中海最大の島であるシチリア島が浮かんでいる。シチリア島の東岸はイオニア海に面しており、東岸の南部にシラクーザ県がある。シラクーザ県は中ほどがイオニア海に向けて東に張り出していて、ここにシラクーザ(伊
Siracusa)が位置している。シラクーザはおよそ三千年の歴史がある古都で、建設当初は古典ギリシア語でシュラークーサイ(希 Συράκουσαι)と呼ばれた。これをラテン語に転記すると、ギリシア語の二重母音アイ(-αι)がラテン語の二重母音アエ(-AE)に変換されて、シュラークーサエとなる。
この都市はわが国で多くシラクサと呼ばれることに鑑み、本稿では本都市名の表記をシラクサで統一する。 |
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註2 |
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女性名エウテュキア(Eutychia)の語源は、ギリシア語エウテュケース(希 Ἐυτύχης 幸せな)である。 |
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註3 |
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カターニア(Catania)はシチリア東部の都市で、現在はシチリア州カターニア県の県都となっている。カターニアは殉教処女聖アガタ(Sant'Agata, + c. 250)の出身地及び殉教地であり、この聖女を守護聖人としている。 |
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註4 |
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ヴェネツィアのサン・ジェレミア教会は、カナル・グランデに面する大きな建物である。創建は十一世紀であるが、数次にわたって建て替えられ、現在の聖堂が完成したのは
1753年、ファサードが完成したのは 1861年である。煉瓦造りの鐘楼はおそらく十二世紀のもので、方立(ほうだて 窓の中央に縦に走り、窓を左右に分ける細い柱)のあるロマネスク様式の細窓が、基部に二面設けられている。なおサン・ジェレミア(San
Geremia)とは旧約の預言者エレミアのことである。 |
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