日本二十六聖人
los 26 mártires de Japón
(上) 《聖ペドロ・バウチスタと二十二名の聖人たち 1597年、ヤポニアにおける殉教者》 フランシスコ会による列聖記念メダイユ 大型の作例 36.8
x 28.0 mm イタリアまたはフランス 1862年
当店の商品です。
1597年12月19日、豊臣秀吉の命により、京と大坂で捕縛された24名を中心とする26名のキリシタンが、信仰を理由に長崎で処刑されました。26名のうち22名がフランシスコ会の関係者で、残り4名がイエズス会の関係者でした。また26名のうち20名が日本人で、残りの外国人6名はフランシスコ会の司祭2名と修道士4名でした。
これら26名の殉教者は1627年教皇ウルバヌス8世 (Urbanus VIII, 1568 - 1623 - 1644) により列福、1862年教皇ピウス9世
(Pius IX, 1792 - 1846 - 1878) により列聖され、「日本二十六聖人」(西 "los 26 mártires
de Japón"、葡 "os 26 mártires do Japão")として崇敬されています。浦上天主堂をはじめ、国内外のいくつもの聖堂が日本二十六聖人に捧げられています。日本二十六聖人の祝日は2月5日です。
以下に、日本二十六聖人が殉教した経緯を簡単に記します。
【豊臣秀吉と天正禁令】
1549年8月15日、イエズス会司祭フランシスコ・ザビエル (P. Francisco de Xavier, 1506 - 1552)、 コスメ・デ・トレス
(P. Cosme de Torres, 1510 - 1570) らが鹿児島に上陸し、キリスト教が日本に伝わりました。ザビエルたちは九州を中心に多数の信者を獲得し、やがて京や大坂にもキリスト教信者が増えてゆきました。
肥前の三城城主、大村純忠 (1533 - 1587 霊名バルトロメオ) は、1563年にコスメ・デ・トレス神父から受洗して、最初のキリシタン大名となりました。1580年、純忠は長崎港をイエズス会に寄進し、1582年には天正遣欧少年使節をローマに派遣しました。
1583年に大坂城を築き始めた豊臣秀吉 (1537 - 1598) は、同年9月、高山右近 (1552 - 1615 霊名ジュスト) に案内されたイエズス会のオルガンティノ神父
(P. Gnecchi-Soldo Organtino, 1530 – 1609) を歓待し、翌1586年5月4日には、イエズス会日本準管区長であるガスパル・コエリヨ神父
(P. Gaspar Coelho, c. 152 - 1590)、「日本史」で知られるルイス・フロイス神父 (P. Luís Fróis,
1532 - 1597)、高山右近、小西行長 (1558 - 1600 霊名アゴスチノ) らを大坂城に迎え、打ち解けた様子で自ら城内を案内しました。
しかしながら秀吉は、翌 1587年春に島津氏を征伐して九州を平定した後、長崎の南蛮貿易独占を目論み、7月24日、突然「天正禁令」(伴天連追放令)を発布して伴天連(バテレン Padre 神父、宣教師のこと)の帰国を命じます。秀吉はこの際に長崎をイエズス会から没収し、いったん大村氏に返しますが、翌1588年、長崎を大村氏からふたたび取り上げました。秀吉は商業が繁栄する五大都市、すなわち京、伏見、大坂、堺、長崎を直轄地とし、豊臣家の財政基盤のひとつとしたのです。
ところで天正禁令は本来徳川氏の禁教令とは異なり、キリスト教信仰を全面的に禁ずるものではありませんでした。民衆がキリシタンになるのは自由とされていましたし、大名がキリシタンになるには秀吉の許可が必要であったものの、無条件に禁止されていたわけではなかったのです。江戸時代のような鎖国はされず、商業目的の南蛮人の渡来は自由とされていましたし、神父、宣教師の追放に関しても実際には厳格に適用されませんでした。
天正禁令後の日本キリスト教会は、秀吉を刺激しないように細心の注意を払いながらも信仰を守り、布教を継続しました。しかし高山右近など一部のキリシタンは来るべき迫害を予想していました。
【キリシタン迫害のきっかけとなったサン・フェリペ号の漂着】
1596年10月19日、高価な積み荷を満載したスペインのガレオン船サン・フェリペ号が、高知の桂浜に漂着、座礁しました。サン・フェリペ号は船付きの司祭と数名の神父、修道士を同乗させてマニラを出港し、メキシコに向かっていたのですが、台風で舵が破損して操船不能になり、高知に漂着したのです。土佐の長曽我部元親はこの件を秀吉に報告し、あろうことか船荷の没収を進言します。
当時のわが国の「廻船式目」及び「海路諸法度」では、乗組員がいる船が漂着した場合、船主に返すのが決まりでした。このルールは外国船の場合も適用されるべきですし、ましてや当時フィリピン総督の使節が来日して修交協定が結ばれ、スペイン船の渡来は認められていたのです。したがってサン・フェリペ号の積み荷を没収するとすれば、それは弁護の余地の無い不法行為となります。
ところでこの少し前、八月と九月には大地震があって京に甚大な被害が出、秀吉の伏見城も半壊していました。それに追い討ちをかけた10月の台風は、サン・フェリペ号を遭難させただけでなく、山城平野に洪水をもたらしました。秀吉の側近である施薬院全宗という男は普段からキリシタンを目の敵にし、キリスト教に対する誹謗中傷を秀吉に吹き込んでいましたが、この年の災厄に関しても、この男はキリシタンのせいにしたに違いありません。さらに9月1日、文禄の役(第一次朝鮮出兵)の和議を結ぶために、明の冊封使楊方亨(ようほうこう)が副使沈惟敬(しんいけい)を伴って秀吉と会見していましたが、秀吉は自身を「日本国王に封ずる」との明の国書に激怒しました。
このような状況の中、おそらく冷静で正常な判断が下せる精神状態ではなかったことも手伝い、秀吉は長曽我部元親の進言を容れてサン・フェリペ号の船荷没収を実行します。この暴挙の口実として引き出されたのが、天正禁令が守られていないということでした。秀吉はサン・フェリペ号の船荷没収という自身の不法行為をきっかけに、半ば有名無実化していた天正禁令を厳格に施行するように命じ、キリシタンへの迫害を本格化させました。
【二十四聖人の捕縛と長崎への旅、二聖人の追加】
1596年11月、秀吉は京都のフランシスコ会宣教師たち、及び彼らに司牧されるキリシタン全員の捕縛と処刑を、京都奉行石田三成 (1560 -
1600) に命じます。石田三成はキリシタンではありませんでしたが、情に厚い武人であったので、キリスト教徒処刑を回避すべく奔走しました。しかしながら結果は思わしくなく、処刑される人数を減らすことしかできませんでした。
キリシタンの捕縛は同年12月8日に実行され、京都で17名、大坂で7名、合わせて24名が捕らえられて京都に集められました(註1)。大坂の捕縛者にはパウロ三木
(c. 1564 - 1597) らイエズス会の日本人修道士3名(註2)が含まれており、石田三成は捕縛命令の対象ではないこの三名を釈放しようと試みましたが、大坂の役人は同意しませんでした。キリシタンたちは1月3日に堀川一条で左の耳たぶを切り落とされたあと、三名ずつ八台の牛車で市中を引き回され、大坂と堺でも市中を引き回されました。
1月8日、二十四名を長崎で磔(はりつけ)にせよとの秀吉の命令が伝えられました。一行は堺から大坂に移動し、1月10日、長崎に向けて出発しました。長崎までの旅程は約800キロメートルで、ほとんどは陸路、すなわち徒歩でした。
フランシスコ会の神父は伊勢出身の大工であるフランシスコという青年を、京都に残ったイエズス会のオルガンティノ神父はペドロ助じ郎という日本人信徒を、世話役として殉教者たちに同行させていました。フランシスコとペドロ助じ郎は京、大坂で捕縛されたわけではなく、処刑されるべきキリシタンの名簿にも載っていませんでしたが、おそらく路銀を奪うために、道中のどこかで縄目に掛けられました。しかしこのふたりは自分たちにも殉教の栄誉が与えられることとなって喜びました。24名であるはずの殉教者が26名に増えたのは、フランシスコとペドロ助じ郎が加わったためです。
(上) ルイス・フロイス神父、及び日本二十六聖人に含まれるイエズス会の殉教者三名(パウロ三木、ディエゴ喜斎、ジョアン草庵)の聖遺物 フランス 1862年頃 筆者蔵
【二十六聖人の殉教】
役人たちに伴われた殉教者たちは1597年2月4日夕に彼杵に到着し、そこから三艘の船に分乗して、同日午後11時半頃、時津に着きました。一行は翌5日の夜明け前に時津を出発し、浦上の癩病院での小休止を経て、朝9時半に刑場である西坂丘に到着しました。
西坂丘には十字架を立てるために二十六箇所の穴が三、四歩の間隔で並んで掘られ、その前に一本ずつ十字架が用意されていました。首、両手、両足を固定するために、それぞれの十字架には鉄製の枷(かせ)が五つ付いており、また殉教者が腰掛ける止め木が取り付けられていました。
この日、長崎には外出禁止令が出されていましたが、それにもかかわらず四千人のキリシタンたちが西坂丘とその周辺に集まり、26名の殉教を見守っていました。刑場の竹矢来の内側に入った26名は、殉教の栄冠を目前にして、自分に定められた場所に駆け寄り、十字架に慕わしげに寄り添いました。殉教者たちはそれまで後ろ手に縛られていましたが、いったん縄目を解かれて鉄枷で十字架に固定され、腰を縄で十字架に縛り付けられました。殉教者たちをこのように固定した後、十字架基部が穴に落とされ、南向き、すなわち長崎の町に向かって二十六本が並び立ちました。
フランシスコ会士フェリペ・デ・ラス・カサス (Fr. Felipe de las Casas, 1572 - 1597) は長身の若者で、脚も長かったので、腰を掛けるための止め木の位置が低すぎました。首枷によって宙吊りになったフェリペ修道士は、刑吏の槍を受けるまでもなく最初に絶命しました。
なおフェリペ・デ・ラス・カサス修道士はメキシコで生まれ、18歳のときにフィリピンに渡った際にはごく普通の若者でしたが、後に召命を感じてフランシスコ会に入会し、司祭に叙階されるためにサン・フェリペ号でメキシコに向かう途中でした。難船によってやむなく上陸した日本で宣教師と看做されて捕縛され、殉教したのです。
十字架上のマルチノ神父は讃美歌を歌い、ガルシア修道士は「主の祈り」を唱え、13歳のアントニオ少年は「
テ・デウム」と「
マーグニフィカト」を歌いました。パウロ三木は十字架上から力強く説教し、集まった人々を感動させました。パウロ三木のこのときの説教は、ルイス・フロイス神父の記録によって後世に伝えられています。
竹矢来の内側に入ることを許された教会関係者は、イエズス会のフランシスコ・パシオ神父 (P. Francisco Pasio, 1554 -
1612) とジョアン・ロドリゲス神父 (P. João Rodrigues, 1561/62 - 1633 註3) のみでした。ふたりの神父が殉教者の間を駆け回って慰めと励ましを与えるなか、四人の刑吏が二人ずつ二組に分かれ、26本の十字架の両端から順に、二本の槍をエックス字形にキリシタンに突き刺し、処刑を進めてゆきました。中ほどの十字架に架かったペドロ・バウチスタ神父が最後に殺されて全員の処刑が完了したのが午前10時か11時頃でした。
(下) 日本二十六聖人 列聖記念カニヴェ 中性紙にインタリオ パリ、メゾン・バセ 1862年
当店の商品です。
二十六聖人の遺体は八十日間に亙って十字架上に曝されましたが、聖遺物を求める人々によって衣や遺体の一部が持ち出され、フィリピン総督フランシスコ・テリョ・デ・グスマン(Francisco Tello de Guzman 1596年7月から1602年5月まで在任)が同年八月に遺体の引き渡しを要求した際には、かなりの部分が散逸していました。
翌 1598年、イエズス会のアントニオ・デ・ソウザ神父 (P.Antonio de Souza 註5) は殉教者たちの遺骸の残りを携えてマニラに向かいましたが、途中で遭難したために、聖遺物は失われました。しかしながら信徒がひそかに持ち去った聖遺物はマニラ、マカオ、ローマ、スペインなど世界各地に送られて、現在に至るまで篤い崇敬を受けています。
日本二十六聖人はこのようにして日本における殉教者の初穂となりましたが、日本のキリスト教会は殉教者の血を種として成長を続けました(註4)。しかしながら
1614年1月31日、徳川家康は突如として「排吉利支丹文」すなわち全国的なキリスト教禁教令とバテレン(神父)追放令を発布します。徳川家康の禁教令の苛烈さは世界的にも例が無く、日本からキリスト教を根絶することを目的とし、キリシタンを発見次第、父母とともに幼児、乳児をも火あぶりにする非道なものでした。
1643年頃、最後の司祭マンショ小西神父(1600 - c. 1643 註6)が捕縛されて殉教しました。小西神父の殉教によってわが国には司祭がひとりもいなくなり、日本のキリスト教会は崩壊しました。
【日本二十六聖人名簿】
日本二十六聖人の名前、年齢、出身地、職業、教会組織での役割等を示します。名簿の順番は殉教の際の並び方(東から西)によります。全員男性で、12歳、13歳、14歳の少年を含みます。
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殉教者名 |
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出身地 |
年齢 |
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職業あるいは身分 |
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捕縛地 |
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備考 |
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. |
.. |
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.. |
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.. |
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.. |
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フランシスコ |
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伊勢 |
不詳だが若者 |
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大工 |
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長崎への途上で捕縛 |
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コスメたけや |
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尾張 |
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刀研ぎ師、説教師 |
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大坂 |
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ペドロ助じ郎 |
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京都 |
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長崎への途上で捕縛 |
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ミゲル小崎 |
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伊勢 |
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弓矢師 |
|
京都 |
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ディエゴ喜斎 |
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備前 |
64 |
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伝道士 |
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大坂 |
|
処刑直前にイエズス会入会 |
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パウロ三木 |
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摂津 |
33 |
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説教師、イエズス会修道士 |
|
大坂 |
|
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パウロ茨木 |
|
尾張 |
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樽職人か |
|
京都 |
|
レオ烏丸の兄 |
|
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ジョアン草庵 |
|
五島 |
19 |
|
伝道士 |
|
大坂 |
|
処刑直前にイエズス会入会 |
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ルドビコ茨木 |
|
尾張 |
12 |
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同宿(註7) |
|
京都 |
|
|
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|
アントニオ |
|
長崎 |
13 |
|
同宿 |
|
京都 |
|
|
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ペドロ・バウチスタ(註8) |
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スペイン |
48 |
|
フランシスコ会司祭 |
|
京都 |
|
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マルチノ・デ・ラ・アセンシオン(註9) |
|
スペイン |
30 |
|
フランシスコ会司祭 |
|
京都 |
|
|
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フェリペ・デ・ラス・カサス |
|
メキシコ |
24 |
|
フランシスコ会修道士 |
|
京都 |
|
|
|
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ゴンザロ・ガルシア |
|
ポルトガル |
40 |
|
フランシスコ会修道士 |
|
京都 |
|
|
|
|
フランシスコ・ブランコ |
|
スペイン |
30 |
|
フランシスコ会修道士 |
|
京都 |
|
|
|
|
フランシスコ・デ・サン・ミゲル |
|
スペイン |
53 |
|
フランシスコ会修道士 |
|
京都 |
|
|
|
|
マチアス |
|
日本 |
|
|
|
|
京都 |
|
|
|
|
レオ烏丸 |
|
尾張 |
50 |
|
|
|
京都 |
|
|
|
|
ボナヴェントゥラ |
|
京都 |
|
|
同宿 |
|
京都 |
|
元仏僧 |
|
|
トマス小崎 |
|
伊勢 |
14 |
|
同宿 |
|
大坂 |
|
ミゲル小崎の息子 |
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ヨアキム榊原 |
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40歳位 |
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|
大坂 |
|
|
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医(くすし)フランシスコ |
|
京都 |
48 |
|
医師 |
|
京都 |
|
|
|
|
トマス・ダンキ(註10) |
|
伊勢 |
36 |
|
説教師 |
|
京都 |
|
|
|
|
絹屋ジョアン |
|
京都 |
28 |
|
|
|
京都 |
|
|
|
|
ガブリエル |
|
|
19 |
|
同宿 |
|
京都 |
|
|
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パウロ鈴木 |
|
尾張 |
49 |
|
説教師 |
|
京都 |
|
|
註1 京都で捕らえられた十七名の内訳は、フランシスコ会司祭であるスペイン人ペドロ・パウチスタ神父 (P. Pedro Bautista, +
1597)、フランシスコ会の外国人修道士四名、バウチスタ神父の教会に属する日本人信徒十二名であった。
大坂で捕らえられた七名の内訳は、フランシスコ会司祭であるスペイン人マルチノ・デ・ラ・アセンシオン(御昇天のマルチノ)神父 (P. Martín
de la Ascensión, 1566/67 - 1597)、マルチノ神父の教会に属する日本人信徒三名、及びパウロ三木 (c. 1564
- 1597) らイエズス会関係者三名であった。
註2 大坂で捕らえられたイエズス会関係者三名のうち、パウロ三木はキリシタン武将三木半平太の息子で、以前からのいるまん(hernamo 修道士)であった。処刑前の告解はイエズス会の三名だけに許され、ディエゴ喜斎とジョアン草庵は、処刑直前の集合場所となった浦上の癩(らい)病院にて、イエズス会日本準管区長ペドロ・ゴメス神父から権限を預かったフランシスコ・パシオ神父の前で誓願を宣立し、イエズス会士となった。
なお当時の日本イエズス会は、ゴア管区に含まれる準管区であった。二十六聖人が殉教したときのイエズス会日本準管区長ペドロ・ゴメス神父 (P. Pedro
Gómez, 1535 - 1600) は、世界の最高学府のひとつコインブラ大学で教授を務めていた碩学で、1590年から1600年までイエズス会日本準管区長の任にあった。
ディエゴ喜斎とジョアン草庵をイエズス会修道士としたフランシスコ・パシオ神父 (P. Francisco Pasio, 1554 - 1612)
は、ペドロ・ゴメス神父の後任として、1600年から1611年までイエズス会日本準管区長を務めた。
リスボンにあるサン・ロケ教会(葡 a Igreja de São Roque
聖ロック教会)の主祭壇周辺にはイグナティオ・デ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエル、フランシスコ・デ・ボルハ、アロイジオ・ゴンザガの丸彫り像が、その脇にはパウロ三木、ディエゴ喜斎、ジョアン草庵の肖像画が飾られている。
註3 ジョアン・ロドリゲス神父はポルトガル人だが、十五、六歳の頃に来日し、日本人と同様の流暢さで日本語を操ることができたために、ジョアン・ツヅ・ロドリゲス
(João "Tçuzu" Rodrigues)と呼ばれる。通詞(ツヅ)とは通訳者を指す。
ジョアン・ロドリゲス神父は二種類の日本語文法書、すなわち「日本語文典」と「日本語小文典」を、いずれもポルトガル語で執筆した。「日本語文典」(
"Arte da Lingua de Iapam") は詳細な文法書で、1604年から1608年に、三巻に分けて長崎で出版された。「日本語小文典」(
"Arte Breve da Lingoa Iapoa") は初学者向けの簡易な文法書で、やはり三巻に分かれており、1620年にマカオで出版された。
註4 「殉教者たちの血は教会の種である」(Sanguis martyrorum semen ecclesiae.) とは、カルタゴのラテン教父テルトゥリアヌス
(Quintus Septimius Florens Tertullianus, 150/60 - c. 220) の言葉とされている。
註5 アントニオ・デ・ソウザ神父 (P.Antonio de Souza) は日本に戻り、1633年、西坂で穴吊りにされて殉教する。穴吊りは拷問を兼ねた処刑方法で、汚物を満たした穴の上に逆さ吊りにし、徐々に弱らせて死に至らしめる。このとき外国人、日本人合わせて七名の神父と修道士が穴吊りに遭い、最後まで生きていたドミニコ会のルカス神父
(P. Lucas Alonso del Espiritu Santo) は、九日間にわたり言語に絶する苦しみを受けた後、ようやく絶命した。
なおこのとき七名のうち六名が信仰を守って殉教したが、イエズス会日本管区の代理管区長であったクリストヴァン・フェレイラ (Cristóvão
Ferreira, c. 1580 - 1650) は、拷問開始の五時間後に棄教した。フェレイラ神父は37年に亙ってイエズス会士であり、日本では23年間宣教師として活動した人で、日本キリスト教会にとってたいへん重要な人物であった。棄教後のフェレイラは、徳川幕府お抱えのキリシタン目明し、すなわちキリスト教取り締まりの主任者となって踏み絵を管理し、1644年には「顕偽録」という排耶書(はいやしょ キリスト教を排撃する内容の書物)を著した。フェレイラの背教は
1641年8月20日にローマに報告され、キリスト教会に大きな衝撃を与えた。イエズス会員たちは殉教によってフェレイラの罪を償おうとし、大勢が日本行きを志願した。
註6 マンショ小西神父 (1600 - c. 1643) はキリシタン武将小西行長の孫である。ローマのグレゴリオ大学で神学を学び、1627年に司祭に叙階、1632年にマニラから日本に潜入して、ディエゴ結城神父
(1574 - 1636) とともに京坂地方で司牧活動を行った。1636年にディエゴ結城神父 (1574 - 1636) が、続いて 1639年にペトロ岐部神父
(1587 - 1639) の殉教後も日本に残る唯一の司祭として活動を続けたが、1643年頃、遂に捕らえられて殺害された。殉教地は京と考えられる。
註7 同宿(どうじゅく)とは、神父や修道士と起居を共にする者という意味。同宿は日本教会独自の制度で、教会や修道院に住みこんで神父、修道士の世話をし、宣教を助けた。同宿は修道誓願は立てていないが、俗世を棄てて剃髪し、教会と信徒のために献身的に働いた。安土桃山時代にキリスト教が広まるうえで、同宿は大きな役割を果たした。
註8 ペドロ・パウチスタ神父 (P. Pedro Bautista, + 1597) が殉教したときの年齢に関して、筆者の手許の資料は48歳、55歳、63歳など一致しない。ここでは研究書の一つ(片岡弥吉「日本キリシタン殉教史」)に従って四十八歳とする。
註9 マルチノ・デ・ラ・アセンシオン神父 (P. Martín de la Ascensión, 1566/67 - 1597) はスペイン北東端、バスク州ギプスコア
(Guipúzcoa) 県に生まれた。アルカラ大学 (la Universidad de Alcalá) で哲学と神学を学んでいるときに召命を感じ、1585年にフランシスコ会に入会、殉教の前年に来日する。マルチノ・デ・ラ・アセンシオンはフランシスコ会士としての修道名である。確かな俗名は知られていないが、マルチン・デ・ロイナス・イ・アムナバッロ(Martín
de Loinaz y Amunabarro)あるいはマルチン・デ・アギッレ(Martín de Aguirre)のいずれかとされる。
註10 「トマス・談義」の意。談義(だんぎ)とは物事の理を説き聞かせることで、仏教用語に転じて、教理を説いて論ずる意にも使われる。
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