サン・フアン・デ・ラ・クルス 十字架の聖ヨハネ
San Juan de la Cruz, 1542 - 1591




(上) ジル・ドマルトー(Gilles Demarteau, 1729 - 1776)によるサン・フアン・デ・ラ・クルス(十字架の聖ヨハネ) パリ、ラール・カトリークによる複製 当店の商品


  カルメル会(羅 ORDO FRATRUM BEATAE MARIAE VIRGINIS DE MONTE CARMELO sive CARMELITAE カルメル山の幸いなる処女マリアの修道士会)は十二世紀頃にパレスティナで設立された修道会ですが、十六世紀になってアビラの聖テレサ(Santa Teresa de Ávila, 1515 - 1582)が修道会の改革を試みました。テレサは元々所属していた修道院を出て、女子跣足カルメル会(羅 ORDO CARMELITARUM DISCALCEATARUM)を創始しました。跣足(せんそく DISCALCEATUS, -A)とは裸足のことで、靴の代わりに簡易なサンダルを用いることに由来します。

 サン・フアン・デ・ラ・クルス(Juan de la Cruz, 1542 - 1591)は、我が国では十字架の聖ヨハネとして知られる修道士です。1567年頃にアビラの聖テレサと出会い、その高い霊性に打たれたフアン(ヨハネ)は、女子跣足カルメル会を創始したテレサの求めに応じて、男子跣足カルメル会(羅 ORDO CARMELITARUM DISCALCEATORUM)を設立しました。

 フアンはテレサよりも三十歳近く年下ですが、テレサと並ぶカルメル会の改革者と位置付けられています。フアンは没後すぐに列福・列聖が目指され、1675年に福者、1726年に列聖されました。フアンは優れた神秘思想家でもあり、高い評価に値する著作群は現代まで読み継がれて、1926年に教会博士の称号が贈られました。サン・フアン・デ・ラ・クルスの祝日は、亡くなった日付である十二月十四日です。


【サン・フアン・デ・ラ・クルスの生涯】

・誕生から少年時代まで

 跣足カルメル会士フアン・デ・ラ・クルス(十字架のヨハネ)、俗名フアン・デ・イェペス・アルバレス(Juan de Yepes Álvarez 註1)は、1542年、カスティジャ・ラ・ビエハ(Castilla la Vieja)のフォンティベロス(Fontiveros カスティジャ・イ・レオン州アビラ県 以下、現在の行政区を示す)で、貴賤結婚の両親から次男として生まれました(註2)。フアンの両親は織物業を営んでいましたが、生活の資を得るのは容易ではなく、1545年にフアンの父ゴンサロ、1547年にその兄弟ルイスが亡くなると、遺族はたちまち困窮しました。フアンの母カタリナは生活苦ゆえに長男フランシスコを親戚に預けましたが、虐待されたので一年後に取り戻し、フランシスコは母の織物業を手伝いました。次男フアンは幼かったので、五歳の時に孤児院の寄宿学校に預けられました。

 フアンはこの時期に不思議な体験をしています。或る日フアンが水に落ちて溺れかけたとき、たいへん美しい女性が現れてフアンに手を伸ばすように命じ、女性自身もフアンに手を差し伸べました。フアンは女性の手を汚したくなかったので、自分の手を差し出すことを拒みましたが、そのとき労働者が通りがかり、棒を伸ばしてフアンを水から引き上げてくれました。フアンのハギオグラフィ(聖人伝)において、フアンに手を差し伸べた女性は聖母マリアと見做されています。

 1548年、旱魃と飢饉で生活が立ち行かなくなった母カタリナは、長子フランシスコ、次男フアンと共に、アレバロ(Arévalo カスティジャ・イ・レオン州アビラ県)に移りました。この町で若きフランシスコは将来の妻アナに出会い、困窮者たちを冬に家に招くなどの慈善活動を始めます。フランシスコは修道者ではありませんでしたが、良き信仰者として、弟フアンの生涯の盟友であり続けました。その一方で一家の困窮は改善せず、母カタリナはメディナ・デル・カンポ(Medina del Campo カスティジャ・イ・レオン州バジャドリド県)に織工の仕事を得て、フランシスコと妻アナ、フアンと共に当地に引っ越しました。

 フアンは聖堂の掃除や聖歌隊での奉仕、修道女の手伝いなどと引き換えに、メディナ・デル・カンポの修道院が運営する学校で読み書き計算と教理問答を学び、指物、仕立て、木彫り、絵描きなどの職業訓練を受けました。フアンは縁あって救貧院で働くようになり、やがてイエズス会が運営する当地のコレヒオ(西 collegio 中等学校)に入学を許されて、哲学、弁論術、ラテン語、文法を学びました。フアンは救貧院で働く傍ら勉学に励み、優秀な成績を上げました。その一方でフアンは同居していた兄夫婦の子供が貧困のうちに相次いで亡くなり、遂に一人も生き残らなかったのを間近で見て深く悲しみました。フアンは救貧の仕事に勤しみ、孤児たちの里親探しに奔走しました。


・カルメル会に入会する

 二十一歳でコレヒオを卒業したフアンは 1563年にメディナ・デル・カンポのカルメル会に入会し、修道名フアン・デ・サント・マティア(Juan de Santo Matía 聖マタイのヨハネ)を名乗りました(註3)。翌1564年、フアンはサラマンカにあるカルメル会のエル・コレヒオ・デ・サン・アンドレスに移り、1568年までの三年余りにわたってサラマンカ大学でトマス・アクィナスの哲学と神学、ヒッポのアウグスティヌスの著作に加え、プラトンとアリストテレスを学びました。その一方でフアンは禁欲と苦行、祈りの生活を続けました。

 サラマンカでのフアンは観想を通して自身を神に捧げることを望み、セゴビアのカルトジオ会(羅 ORDO CARTUSIENSIS 仏L'ordre des Chartreux)に入会したいと望みました。フアンは 1567年10月に司祭に叙階されました。フアンは自分がいつか重罪を犯すのではないかと常に恐れていましたが、最初のミサを挙げているときに、そのようなことは決して起こらないとの啓示を受けました。この出来事でフアンは大きな安寧を得ました。


・アビラのテレサと跣足カルメル会

 この頃のカルメル会ではアビラのテレサが元の修道院を出て、女子跣足カルメル会を設立していました。テレサは男子についても跣足カルメル会の設立を望み、カルメル会総長ルベオ・デ・ラベンナから、男子修道院二か所の開設を許可されていました(註4)。メディナ・デル・カンポのカルメル会を訪れたテレサは、禁欲と苦行に励むフアン・デ・サント・マティア修道士の噂を聞き、フアンのミサに出席して面会を果たしました。こうしてフアンと知り合ったテレサは、カルメル会を原点に回帰させる改革と、男子跣足カルメル会設立への助力を求め、フアンはカルトジオ会への入会を取りやめて、テレサと共に働くことを選びました。テレサは男子跣足カルメル会の設立認可が得られるまでに勉学を終えることをフアンに求め、フアンはいったんサラマンカに戻りました。

 その間テレサが属するアビラのカルメル会御托身修道院(註6)から、アルカンタラの聖ペドロの勧めに従って数人の修道女がフランシスコ会に移籍し、最初はバジャドリド(Valladolid カスティジャ・イ・レオン州バリャドリ県)、次にマドリッドに行って、フランシスコ会の原始会則に従って生活し始めました。またテレサはドゥルエロ(Duruelo カスティジャ・イ・レオン州セゴビア県)にある一軒の家を寄進され、これを男子跣足カルメル会最初の修道院とすることに決めました(註7)。テレサとフアンが初めて会った一年後の 1568年9月、フアンは二人のカルメル会士と共にバジャドリドを訪れ、テレサによる改革の実際を確かめました。

 その後ドゥルエロに到着したフアンは、1568年11月28日、修道名をフアン・デ・サント・マティア(Juan de Santo Matía 聖マタイのヨハネ)からフアン・デ・ラ・クルス(Juan de la Cruz 十字架のヨハネ)に改めました。フアンと二人のカルメル会士はテレサが男子跣足カルメル会のために考案した服装(註8)を身に着け、従来のカルメル会会則に則って修道生活を始めました。ドゥルエロにおいてフアンは裸足で説教に出かけ、修道院に戻っても夜まで祈り続けてほとんど眠らず、粗衣を着て断食をはじめとする苦行に励みました。かかる苦行はフアン自身の内面をあるべき姿にするため、及び他者のための代受苦でもありましたが、テレサはフアンの苦行が度を越していると考えて負担を軽減させました。

 ドゥルエロの家は小さすぎたので、パストラナ(Pastrana カスティジャ・イ・レオン州グアダラハラ県)にも男子跣足カルメル会修道院ができ、大勢の志願者が入会していました。しかしながらフアンの苦行が激しすぎるゆえ、やがて入会をためらう者も出始めました。そのためフアンは自らパストラナの修道院に出向き、カルメル会原始会則が求める以上の苦行を控えるよう、修道者たちに訴えました(註9)。その後パストラナ修道院への入会希望者は増え続け、フアンはマンセラ(Mancera de Arriba カスティジャ・イ・レオン州アビラ県)にも男子跣足カルメル会修道院を設立しました。


・女子跣足カルメル会御托身修道院の霊的指導者として

 1571年、聖テレサは使徒的訪問者(註10)によってアビラ御托身修道院の修道院長に任命されました。翌 1572年、テレサはフアンを含む二名の跣足カルメル会士を同修道院の霊的指導者に指名しました。フアンは女子修道院に隣接する小さな家に三年間独居し、霊的指導のために修道院を訪れる以外は一切の人と接触を絶って、祈りと苦行のうちに暮らしました。




(上) 1575年にフアンが幻視した十字架上のキリスト。フアン・デ・ラ・クルス自身による素描。


 1574年、セゴビア(Segovia カスティジャ・イ・レオン州セゴビア県)に新修道院を開くにあたり、テレサはフアンに新修道院への異動を求め、フアンはこれに従いました。1575年の或る日、セゴビアの修道院にいたとき、フアンは十字架に架かるキリストを鳥瞰するように幻視し、その素描を遺しています(註11)。この幻視はフアンがキリストの受難についていっそう深く瞑想する契機となりました。フアンは「カルメル山登攀」でこの幻視に言及し、次のように書いています。「キリストは御生涯において枕する場所を持ち給わなかった(「ルカによる福音書」九章五十八節)。ましてや受難の時にはなおさらである。キリストの御父である神は、キリストをそのままに捨て置き給うた。それはキリストがただ人間の負債を支払い、人間を神に結びつけ給うためであった。しかしキリスト御自身は無に帰された如くに滅び給うたのである。」


・トレドでの投獄と脱出

 フアンはスペイン王フェリペ二世の覚えめでたく、教皇特使ニコロ・オルマネト師(註12)や使徒的訪問の高位聖職者たちの庇護も受けていましたが、カルメル会内部の反改革派は跣足カルメル会が厳しすぎると主張して修道者たちを煽動しました。この騒ぎは拡大し、カルメル会内部に深い分断を齎したので、フアンは騒ぎの原因となった咎により、1576年、メディナ・デル・カンポで一時的に身柄を拘束されました。しかしながらこの時の拘束は、すぐに解かれました。

 跣足カルメル会に好意的であったニコロ・オルマネト教皇特使が 1577年6月18日に亡くなると、修道院改革を阻む動きがカルメル会上層部で顕在化し、跣足カルメル会はカルメル会本体に対する反乱であって、その首謀者はフアン・デ・ラ・クルス神父であると考えられるようになりました。フアンを女子跣足カルメル会の霊的指導者としたのは、アビラのテレサでした。それゆえカルメル会の守旧派は、フアンを排除する前に、まずアビラのテレサを跣足カルメル会修道院から追放することを試み、テレサに替わる女子修道院長を新しく選出しました。

 1577年12月2日夜、フアン・デ・ラ・クルス神父は守旧派のモルドナド神父が率いる武装集団に拘束され、秘密裡にトレドに連行されました。フアンはトレドのカルメル会修道院で独房に閉じ込められて、修道院改革を止めるように迫られましたが、脅しに屈しませんでした。独房は天窓しか無く、外の様子は全く分かりませんでした。房内は暑く、供される食事は囚人用でした。獄吏たちはフアンを反逆者とみなして、幾度も殴り付けました。フアンは孤立した状態で改革運動の放棄を繰り返し求められ、当初は聖書を読むことも、他の本を読むことも許されませんでした。

 フアンは神にも改革派の仲間にも見放されたように感じて苦しみましたが、その一方でこれはフアンの霊的生活が最も高揚する機会ともなりました。投獄から数か月後、フアンは与えられた紙に詩を書き留めました。「カンティコ・エスピリトゥアル」(西 Cántico espiritual 霊の歌)はそのうちのひとつです。フアン・デ・ラ・クルスの研究者として知られる跣足カルメル会のドミニク・ポワロ神父(Le P. Dominique Poirot, 1932 - 2014 註13)は、著書「十字架のヨハネの生涯」(Vie de Jean de la Croix)の中で、フアンにとってこの投獄の体験が「自身として生まれる契機、すなわち欠けるところの無い創造性を発揮できるようになる契機」(un temps de naissance à soi-même, temps qui lui aura permis de devenir pleinement créatif)になった、と書いています(註14)。フアンは八箇月間トレドの獄中にありましたが、修道会改革への支持を捨てませんでした。そのためフアンは毎週鞭で打たれ、侮辱を受けました。


・愛の歌

 1578年8月17日、牢から奇蹟的に出ることができたフアンは、トレドの女子跣足カルメル会修道院に二箇月のあいだ匿われ、健康を少しずつ取り戻しました。フアンは獄中で作り暗唱していた「カンティコ・エスピリトゥアル」(霊の歌)を、改めて手稿にしました。

 この頃跣足カルメル会の修道士が元のカルメル会から正式に分離することを主張し、フアンもこの意見に与(くみ)しました。旧来のカルメル会はこれに強く反応し、フアン・デ・ラ・クルス神父を破門するに至りました。男子跣足カルメル会は事態の鎮静化を図って、フアンの居場所をシエラ・モレナ(モレナ山脈 註15)山中アルモドバル・デル・カンポ(Almodóvar del Campo カスティジャ=ラ・マンチャ州シウダ・レアル県)にあるカルワリオ山の聖母修道院(el Monasterio de Nuestra Señora del Monte Calvario)に移しました。フアンは 1578年から翌59年にかけて、カルワリオ山の聖母修道院で院長を務めました。またバエサ(Baesa アンダルシア州ハエン県)には 1538年に大学ができていましたが(註16)、フアンは大学から求められて学長にもなっています。

 フアンは 1578年11月にトレドを出発し、カルワリオ山の聖母修道院に近いベアス・デ・セグラ(Beas de Segura アンダルシア州ハエン県)で、女子跣足カルメル会ベアス修道院のアナ・デ・ヘスス院長(註17)に面会しました。このときフアンは「カンティコ・エスピリトゥアル」をアナ・デ・ヘスス院長に聞かせています。カルワリオ山の聖母修道院院長となったフアンは、ベアス修道院を定期的に訪れてアナ・デ・ヘスス院長及びマグダレナ・デル・エスピリトゥ・サント修道女(註18)と信頼関係を築き、修道女たちに渡す宗教的な詩や覚え書で霊的指導者の役割を果たしました。これらはマグダレナ・デル・エスピリトゥ・サント修道女によって収集編纂され、「光と愛の言葉」(Dichos de Luz y Amor)としてまとめられています。フアンはアナ・デ・ヘスス院長に求められて「カンティコ・エスピリトゥアル」の注釈も書いています。




(上) Dibujo de El Monte de la Perfección de san Juan de la Cruz. Copia autógrafa del siglo XVIII, original de hacia 1580, proc. de Beas de Segura. Biblioteca Nacional (Madrid), ms. 6296, fol. 7r カルメル山に至る道程 フアンによる絵のファクシミリ版


 フアンはカルメル山に至る道の象徴的な絵を描き、マグダレナ・デル・エスピリトゥ・サント修道女に渡しています。この絵は神との合一に至る過程を説くもので、具体的内容は別稿で解説しています。1579年、フアンはカルワリオ山の聖母修道院からバエサに移動し、同年6月13日に男子跣足カルメル会の新修道院を落成させました。フアンは自ら修道士たちを教えつつ著述を続けました。


・新旧カルメル会の分離

 1580年6月22日、教皇グレゴリウス十三世は回勅「ピアー・コーンシーデラーチオーネ」(羅 PIA CONSIDERATIONE 敬虔なる考慮を以て)を発し、新旧カルメル会の分離を宣言しました。教皇はドミニコ会士フアン・ベラスケス・デ・ラス・クエバス(Juan Velázquez de las Cuevas, 1528 - 1598)を代理人として派遣し、1581年3月3日、アルカラ・デ・エナレス(Alcalá de Henares マドリ州マドリ県)において、跣足カルメル会の全修道院長を集めて総会が開かれました。総会ではフアン・デ・ラ・クルス神父が男子跣足カルメル会の総長に再選され、会則を起草しました。男子跣足カルメル会員をコンゴに派遣することも決議されました(註19)。


・グラナダでの女子修道院開設と、アビラのテレサの死

 こののちフアンはアビラのテレサと最後の面会を果たしました。テレサはフアンがアナ・デ・ヘスス修道女とともにグラナダ(Granada アンダルシア州グラナダ県)に行き、新修道院を開設することを望みました。フアンとアナは 1582年にグラナダに行って、女子跣足カルメル会修道院を開設しました。新修道院が完成するとアナが院長になりました。フアンはグラナダにある男子跣足カルメル会修道院の院長になりました。

 同じ年、アビラのテレサが亡くなりました。翌 1583年、アルモドバル・デル・カンポで新旧カルメル会の総会が開かれ、フアンはグラナダ修道院院長の職に留まることとなりました。


・著述家としてのフアン・デ・ラ・クルス 十字架の聖ヨハネ修道士

 1583年、アルモドバル・デル・カンポの総会からグラナダに戻ったフアンは、アナ・デ・ヘスス院長の修道院を訪れ、数多くの覚書や文書を修道女たちに配って、霊的指導を行ないました。フアンがトレドの獄中で「カンティコ・エスピリトゥアル」(霊の歌)を作り、牢から出た直後に手稿を作成したことは既に述べましたが、アナ・デ・ヘスス院長はこの詩の解説を書くようにフアンに求めました。フアンは聖霊から霊感を受けて書いた作品の意味を明瞭に説明するのは難しいと考えて、最初のうちはアナ修道院長の求めに応じませんでしたが、最終的に説得されて連毎に解説を書き、後の「カルメル山登攀」に繋がりました。

 どのような人の魂にも神が内在する、とフアンは考えました。フアンによると、神は人間のあらゆる能力(知性、想像力、意思)を通して魂を動かし、魂は神との合一に至ります。この合一を達成するために、魂は神以外のすべてを捨て、すべてから離れる必要があります(註20)。「カンティコ・エスピリトゥアル」及び「カルメル山登攀」は、フアンのかかる思想が表れた最も重要な著作です。


 フアンは或る修道女の求めに応じ、「活ける愛の炎」(Llama de amor viva)を十五日間で書き上げました。フアンは神が人間の魂の最も内奥におられるとし、魂の内なる神、及びその神と魂の結合を、内なる火に喩えて説明しました。この著作においても、魂が神に近づくためには、苦痛を伴う浄化が必要であるとされています。

 「愛の活ける炎」の内容を下に示します。日本語訳は筆者(広川)によります。原テキストは美しい韻文ですが、筆者の和訳はスペイン語の意味を正確に日本語に移すことを主眼としたため、韻文になっていません。極力逐語的に訳しましたが、不自然な訳文にしないために、句の順番が原文通りでない部分がいくつかあります。なお第四連の "morar"は、カスティリア語の "quedar(se)", "permanecer" (とどまる)の意味です。

    Canciones del alma en la íntima comunicación,
de unión de amor de Dios.
神の愛の結びつきについて、
神との親しき対話のうちに、魂が歌った歌
     
    ¡Oh llama de amor viva,
que tiernamente hieres
de mi alma en el más profundo centro!
Pues ya no eres esquiva,
acaba ya, si quieres;
¡rompe la tela de este dulce encuentro!
愛の活ける炎よ。
わが魂の最も深き内奥で
優しく傷を負わせる御身よ。
いまや御身は近しき方となり給うたゆえ、
どうか御業を為してください。
この甘き出会いを妨げる柵を壊してください。
         
    ¡Oh cauterio suave!
¡Oh regalada llaga!
¡Oh mano blanda! ¡Oh toque delicado,
que a vida eterna sabe,
y toda deuda paga!
Matando. Muerte en vida la has trocado.
  やさしき焼き鏝(ごて)よ。
快き傷よ。
柔らかき手よ。かすかに触れる手よ。
永遠の生命を知り給い、
すべての負債を払い給う御方よ。
死を滅ぼし、死を生に換え給うた御方よ。
         
    ¡Oh lámparas de fuego,
en cuyos resplandores
las profundas cavernas del sentido,
que estaba oscuro y ciego,
con extraños primores
calor y luz dan junto a su Querido!
  火の燃えるランプよ。
暗く盲目であった感覚の
数々の深き洞(ほら)は、
ランプの輝きのうちに、愛する御方へと、
妙なるまでに美しく、
熱と光を放つのだ。
         
    ¡Cuán manso y amoroso
recuerdas en mi seno,
donde secretamente solo moras
y en tu aspirar sabroso,
de bien y gloria lleno,
cuán delicadamente me enamoras!
  御身はいかに穏やかで愛に満ちて、
わが胸のうちに目覚め給うことか。
御身はひとり密かにわが胸に住み給う。
善と栄光に満ち給う御身へと
甘美に憧れる心に住み給う。
いかに優しく、御身は我に愛を抱かせ給うことか。



・跣足カルメル会の成長と、ドリア修道士との確執

 1585年時点で跣足カルメル会員は五百名を超えており、同年ポルトガルとパストラナで相次いで総会が開かれました。パストラナの総会ではアビラのテレサの遺体をアビラの御托身修道院に移葬することが決定されました。この年、フアンはマラガ(Malaga アンダルシア州マラガ県)に新修道院を開設しています。

 フアンはこの年グラナダ修道院長の地位を後進に譲り、跣足カルメル会アンダルシア代理区長となりました。フアンはアンダルシア全域を巡回し、セゴビアに新修道院を作りました。同年、フアンは巡回中にグアダルカサル(Guadalcázar アンダルシア州コルドバ県)で倒れ、病の床に就きました。翌 1586年8月13日、当時の跣足カルメル会区長ニコロ・ディ・ジェズ・マリア・ドリア修道士(註21)はマドリに総会を招集します。この総会ではアビラのテレサの著作公刊が決議されましたが、フアンはアンダルシアへの帰途に立ち寄り、総会の決議に自身の考えが全く反映されなかったことを嘆きました。1587年4月、ドリア修道士はバジャドリドに総会を招集し、フアンをグラナダ修道院長以外の職から解きました。

 1587年7月10日、教皇シクストゥス五世は跣足カルメル会を、旧来のカルメル会から独立した独自の修道会として認可しました。


・セゴビア修道院長としてのフアン・デ・ラ・クルス修道士

 フアンはセゴビア修道院の院長であるとともに、跣足カルメル会全体の相談役として実務に多忙な時を過ごし、日々長い時間を祈りに費やしました。或る日イエスの受難図を観想していると、「フアンよ。汝はこれまでわたしのために、幾多の苦労を耐え忍んできた。何を以て報いようか」という声が聞こえました。これに対してフアンは、主よ、御身のために苦しみ侮辱されること以外、私は何も望みませんと答えています。また「カンティコ・エスピリトゥアル」の注釈書において、「喜ばしく深遠なる神の知に至るべく歩むにあたり、苦しみは卓越的に優れた手段である」と書いています。苦しみを拒む者については、「ああ、人に知られざる真理よ。真理を知る奥深さと、神なる無限の豊かさに、苦しみを拒む者は辿り着けないのだ。苦しみを望まず、苦しみの内に魂の慰めを見出さない者は、そこに辿り着けないのだ。いつになれば汝らはそのことに気付くのであろうか」と書いています。

 ニコロ・ディ・ジェズ・マリア・ドリア修道士(註21 前出)は 1585年から 1588年まで跣足カルメル会カスティジャ区長を務めた後、1588年にスペイン全体の代理区長となりました。この時期、フアンを跣足カルメル会の霊的指導者となることを、多数のカルメル会員たちが求めていました。しかしながらドリア修道士率いる修道会上層部は 1591年6月2日に総会を招集し、修道会におけるすべての役割をフアンから剥奪しました。このためフアンが男女のカルメル会員に霊的指導を行なうことはできなくなりました。


・フアン修道士に対する中傷と、フアン修道士の死

 フアンはカルメル会改革の立役者であり、あらゆる役職に就いてきたにも関わらず、このような成り行きを経て、跣足カルメル会内部で孤立する結果となりました。修道会上層部はフアンを体よく追い払うため、メキシコに修道院を作るという名目で、フアンをスペイン国外に追いやろうとさえしました。しかるにフアン本人はこの不当な扱いをむしろ喜んでいました。アナ・デ・ヘスス修道女(註17 前出)への手紙で、フアン修道士は次のように書いています。「辱めを受け十字架に架かり給うた大いなる神と似た者になることを望みなさい。地上の生が役立つのはただ一つ、主に倣うことにおいてのみであるから。」

 1891年秋、フアンはアンダルシアに戻り、ラ・ペニュエラ(La Peñuela)の小さな修道院で平修道士に戻りました。この頃の跣足カルメル会ではディエゴ・エバンヘリスタ修道士(Fr. Diego Evangelista)という人物がフアンに激しい憎悪を向けていて、偽りの証言でフアンを「修道衣を着た放蕩者」と誹謗しました。

 このような苦難の中、フアン・デ・ラ・クルス修道士は 1591年8月10日、丹毒(註22)に罹りました。フアンは高熱が下がらず、小さな修道院では看病しきれなかったため、9月28日にウベダ(Úbeda アンダルシア州ハエン県)の跣足カルメル会修道院に移送されました。しかしながらウベダ修道院の院長は以前からフアン修道士に傲慢な態度を批判された恨みがあり、フアン修道士の看病に必要な経費も受け取っていませんでした。フアンの病状が悪化する中、フアンを聖人と慕う村人たちから贈り物が溢れましたが、修道院長は面会を禁じました。医師は化膿した皮膚の切除や焼灼を行なう一方で膿瘍を放置し、フアンは付き添いのアントニオ神父に苦しみを訴えました。

 しかしながら病状がさらに進行すると、フアンはアントニオ神父に対し、苦しみが和らいできたと語りました。12月7日、医師はフアンに死が近いと宣告し、フアンは告解を行いました。12月13日、フアンは「雅歌」を読み聞かせてくれるように頼み、翌14日未明に亡くなりました。フアンの亡骸はすぐにセゴビアに運ばれ、男子跣足カルメル会セゴビア修道院内の墓所に安置されて今日に至ります。



註1 イェペスとカナ表記したのは、フアン修道士の時代に行なわれていたカスティジャ語(標準スペイン語)の発音である。現代カスティジャ語のイグリエガ(Y)は有声硬口蓋摩擦音で、カナ表記すればジェペスとなる。

註2 スペイン詩の翻訳者として知られるジャック・アンセ(Jacques Ancet, 1942 - )によると、フアンの父ゴンサロ・デ・イェペス(Gonzalo de Yepes)はもともと高貴な血筋に連なる騎士であったが、後に相続権と騎士身分を放棄している。これは妻カタリナ・アルバレス(Catalina Álvarez)がモリスコ(西 morisca レコンキスタ期の 1499 - 1526年にイスラム教からカトリックに改宗した者)の家系であったゆえと考えられる。なおゴンサロ自身も異端審問所から嫌疑或いは監視を受けており、ユダヤ系であったと思われる。カタリナは労働者階級の出身であった。

 Jean de la Croix, Nuit obscure, Cantique spirituel, traduit de l'espagnol par Jacques Ancet, introduction de Jacques Ancet, Paris, Poésie/Gallimard, 1997

註3 この修道院はカルメル会修道院サンタ・アナ(Monasterio carmelita de Santa Ana 聖アンナ修道院)であるが、現存しない。

註4 カルトジオ会(羅 ORDO CARTUSIENSIS 仏L'ordre des Chartreux)はケルンの聖ブルーノ(Bruno von Köln, c. 1030 - 1101)が創設した観想修道会で、母修道院はサン=ピエール=ド=シャルトルーズ(Saint-Pierre-de-Chartreuse オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏イゼール県)にある。シャルトルーズ会という名称は母修道院の所在地名に由来する。シャルトルーズという地名自体は、中世のプロヴァンス語カルマ・トロッサ(Calma Trossa 穴が開いた原)が語源と考えられている。

 サン=ピエール=ド=シャルトルーズは、南北に広がるシャルトルーズ山塊(仏 le massif de la Chartreuse)の中ほどに位置する。シャルトルーズ山塊はプレアルプス(仏 les Préalpes françaises)すなわちアルプスの西端部で、大部分がオーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏イゼール県に属する。山塊の名称はサン=ピエール=ド=シャルトルーズに由来する。

註5 ルベオ・デ・ラベンナ(Juan Bautista Rubeo, 1507 - 1578)、俗名ジョヴァンニ・バティスタ・ロッシ(Giovanni Battista Rossi)は 1564年5月21日、ローマのカルメル会本部において、満場一致で総長に選出された。カルメル会の内部改革を目標に同年スペインを訪れ、1566年6月10日フェリペ二世に拝謁後、アンダルシアを訪れたが、当地で反改革勢力の抵抗に遭って王に讒訴された。

 ルベオ総長はアビラのテレサをたいへん高く評価して、女子跣足カルメル会修道院をカスティジャに、次いでスペイン全土に増設することを許可したが、男子修道院についてはアンダルシアでの事件を考慮して、最初は許可しなかった。しかしながらテレサの願いを容れ、1567年8月10日、バルセロナからの書簡で、カスティジャに二か所の男子跣足カルメル会修道院設立を許可した。

註6 アビラの御托身修道院(el Monasterio de la Encarnación)は 1479年に創立された。創立当初はカルメル会第三会の女性たちが共同生活を送るための家であったが、後に彼女らは第二会への入会を希望したため、正式な女子修道院となった。

註7 寄進されたドゥルエロの家は質素な建物であったので、テレサはこれを救い主がお生まれになった家畜小屋になぞらえて「ドゥルエロのベツレヘム」と呼んだ。

註8 ベルトで括る修道服に、カルメル会の肩布と短い白マントを組み合わせたもの。

註9 1618年に世に出る著作「ラ・ノチェ・オスクラ」(西 la Noche Oscura 闇夜)においても、フアンは自身が行っていたような苦行に関し、理性を持たない動物が本能に惹かれて求める満足と変わらない、と否定している。

註10 正しい信仰生活の在り方に関わる問題が教区や修道院、神学校などに生じたとき、ローマの高位聖職者が普段の職務を離れ、渦中の人物や施設、教区を訪れて問題を調査し、問題解決を図る。教皇の代理によるこのような訪問を、使徒的訪問(西 una visita apostólica 伊 una visita apostolica)と呼ぶ。使徒的訪問は比較的短期で、調査結果は教皇庁に提出される。

註11 サルバドール・ダリによる 1951年の油彩「十字架の聖ヨハネによるキリスト」は、フアンの幻視に基づいている。

(下) Salvador Dalí, Cristo de San Juan de la Cruz, 1951, Óleo sobre lienzo, 205 x 116 cm, Kelvingrove Art Gallery and Museum, Glasgow



註12 ニコロ・オルマネト師(Mgr. Nicolò Ormaneto, 1515/16 - 1577)は1570年から1577年までパドヴァ司教を務めた人物で、1572年から1577年までスペインへの使徒座特使(西 un nuncio apostólico 伊 un nunzio apostolico)であった。

註13 ドミニク・ポワロ神父(Le P. Dominique Poirot)、俗名ピエール・エルンスト・ポワロ(Pierre Ernest Poirot)は、1932年5月11日、ナンシーに生まれた。1950年にペイ・ド・ラ・ロワール地域圏サルト県にある跣足カルメル会サンタンヌ・ド・ボルディニェ修道院(le Couvent Sainte Anne de Bordigné)に入会し、聖霊のマリー・ドミニク修道士(fr. Marie Dominique du Saint Esprit)を名乗る。1952年10月3日に単式誓願、1957年に盛式誓願。ローマとアヴォン(Avon イール・ド・フランス地域圏セーヌ=エ=マルヌ県)に学んだあと、1962年4月29日、アヴォンの跣足カルメル会にて司祭となった。跣足カルメル会の諸聖人、とりわけフアン・デ・ラ・クルスの研究で知られ、2001年のセール版「フアン・デ・ラ・クルス全集」刊行に中心的な役割を果たした。

 Œuvres complètes de Jean de la Croix, janvier 2001, Editions du Cerf, ISBN 9782204066433

註14 Dominique Poirot, Vie de Jean de la Croix, Éd. du Cerf, 2004, p. 83

註15 シエラ・モレナ(sierra Morena モレナ山脈)はスペイン南部にあってメセタ・セントラル(la Meseta Central)とグアダエルキビル盆地(la depresión del Guadalquivir)の境界を為す山脈で、シエラ・マリアニカ(sierra Mariánica マリアニカ山脈)とも呼ばれ、行政上は北のエストレマドゥラ及びカスティジャ=ラ・マンチャを南のアンダルシアから区切っている。長さ四百キロメートルと長大であるが、最高峰ピコ・バニュエラス(Pico Bañuelas)の標高は 1323メートルで、それほど高くはない。

註16 バエサ大学(西 la Universidad de Baesa, 1538 - 1824)。1575年に開設された。

註17 アナ・デ・ヘスス(Ana de Jesús, 1545 - 1621 イエスのアナ)は俗名をアナ・デ・ロベラ・トレス(Ana de Lobera Torres)といい、1545年11月25日にメディナ・デル・カンポで生まれた。アビラのテレサよりもちょうど三十歳年下、フアン・デ・ラ・クルスよりも三歳年下である。アナ・デ・ヘススは偉大な神秘思想家であり、テレサの著作を編集するとともに、自らもスペイン語で著述を行なった。アビラの聖テレサの右腕ともいうべき女性であり、跣足カルメル会においてテレサ、フアンと並ぶ最重要人物である。

註18 マグダレナ・デル・エスピリトゥ・サント修道女(Magdalena del Espíritu Santo, + 1640 聖霊のマグダレーナ修道女)は俗名をマグダレナ・ロドリゲス・デ・アラルコン)といい、1576年にベアス修道院の修練女として女子跣足カルメル会に入会、翌 1577年8月6日に修道誓願を立てた。マグダレナ・デル・エスピリトゥ・サント修道女が記録したフアンの言葉は、伝記編纂の重要な資料となっている。1581年、若くして女子跣足カルメル会の枢要な地位に就き、マラガとコルドバの修道院創設に関わった。コルドバの修道院は女子跣足カルメル会聖アンナ聖ヨセフ修道院(el convento de Santa Ana y San José)で、後にマグダレナ・デル・エスピリトゥ・サント修道女自身が修道院長を務めている。

註19 コンゴにカトリック宣教師が渡ったのは 1490年で、十六世紀の早い時期にはポルトガル商人による黒人狩りと奴隷貿易が行なわれていた。十六世紀初頭にブラジルが探検されて入植が始まり、1540年にはブラジルにサトウキビが移入されて大規模な栽培がはじまった。そのせいで大量の黒人奴隷が必要になったのである。

註20 古典ギリシア語カテクシス(希 κάθεξις)は精神分析用語に取り入れられ、外的対象に向けた心的働きを意味する。カテクシスの反意語、すなわち心を外的事物から引き離すことは、デカテクシス(ネオラテン語 decathexis)と言われる。

 シカゴ大学のエリザベス・キューブラー=ロス博士(Dr. Elisabeth Kübler-Ross, 1926 - 2004)は、臨死体験の先駆的研究で知られる。キューブラー=ロス博士は死を受容した心の状態をデカテクシス(デカセクシス)と表現したが、肉体の死が神との合一に他ならないとすれば、フアンが説く神への道はデカテクシス(デカセクシス)の積極的側面と言えよう。

註21 ニコロ・ディ・ジェズ・マリア・ドリア修道士(Nicolò di Gesù Maria Doria, 1539 - 1594 イエス・マリアのニコロ修道士)、俗名をニコロ・ドリア(Nicolò Doria,)といい、ジェノヴァの人である。1570年セビジャに移住して貿易業及び銀行業を営むが、商用で航海中に難破して辛くも溺死を免れ、魂の救いについて真剣に考えるようになった。航海から戻ったニコロは全財産を貧者に施し、セビジャの聖トマス大学で学んだあと、1576年に司祭となった。その後友人に誘われて跣足カルメル会に入り、1578年3月25日に修道誓願を宣立、1584年にはジェノヴァに跣足カルメル会修道院を開設した。

 ヘロニモ・デ・ラ・マドレ・デ・ディオス修道士(Jerónimo de la Madre de Dios, 1545 - 1614 神の母のヘロニモ修道士)は、アビラのテレサの聴罪司祭であり、親しい友でもあった。1580年に教皇グレゴリウス十三世はカスティジャの跣足カルメル会を旧来のカルメル会から切り離したが、このとき跣足カルメル会最初の区長に選ばれたのが、ヘロニモ・デ・ラ・マドレ・デ・ディオス修道士である。区長の任期が終わる 1585年、ヘロニモ・デ・ラ・マドレ・デ・ディオス修道士は跣足カルメル会総会をリスボンに招集した。

 ニコロ・ディ・ジェズ・マリア・ドリア修道士は魂の内省よりも修道生活の形式を重視した。これは跣足カルメル会の存在理由にそもそも悖る態度であるが、一定数の修道士たちはドリア修道士と一派を為していた。フアン・デ・ラ・クルス修道士はドリア修道士の危険性を見抜いてヘロニモ修道士に警告したが、ドリア修道士は結局区長に選ばれてしまう。

 ニコロ・ディ・ジェズ・マリア・ドリア修道士は 1585年から 1588年まで跣足カルメル会カスティジャ区長を務め、1588年にはスペイン全体の代理区長の地位を手に入れる。権力を得たドリア修道士は、内面重視派のヘロニモ修道士とフアン修道士を敵と見做し、跣足カルメル会から排除しようと試みる。1591年にフアン・デ・ラ・クルス修道士が亡くなると、ドリア修道士はヘロニモ修道士をその上長に讒訴し、1592年2月17日、ヘロニモ修道士を跣足カルメル会から追放することに成功する。ヘロニモ修道士は教皇に直訴しようとローマを目指すが、同年10月ガエタ(Gaeta ラツィオ州ガエタ県)付近で海賊に捕らわれてチュニスに連行され、二年半にわたって投獄された。

 シモン・アシュケナジ(Simon Askenazi)というチュニスのユダヤ系商人に身代金を払ってもらい、牢から出たヘロニモ修道士は、遂にローマで教皇クレメンス八世に拝謁した。教皇はヘロニモ修道士に関する再調査を命じ、1596年3月6日、同修道士は無実を宣言された。しかしながらヘロニモ修道士が跣足カルメル会に復帰すると紛争が再燃しかねないことから、同修道士は旧来のカルメル会に移ることとなった。ヘロニモ修道士はスペインに戻っって老母を看取った後、ブリュッセルにのカルメル会修道院で生涯を閉じた。

註22 丹毒(希 ἐρυσίπελας 羅 erysipelas)は溶連菌すなわち化膿連鎖球菌(Streptococcus pyogenes)による皮膚の炎症である。劇症型では現代においても死に至ることがあり、抗生剤が無い時代には恐ろしい病気であった。



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