サンタ・マリア・デ・モンセラート修道院
El monasterio de Santa María de Montserrat, Montserrat, Cataluña
スペイン南東端のカタルニャ(カタロニア)自治州、バルセロナの北西四十キロメートル足らずに、モンセラートの山塊があります。モンセラート(Montserrat)とは「鋸歯状の山」の意味で、その名の通り切り立った多数の奇岩が海抜 720メートルの山塊を為しています。
この場所にあるベネディクト会修道院サンタ・マリア・デ・モンセラート(El Monasterio de Santa María de Montserrat)は、有名な
黒い聖母「ヌエストラ=セニョラ・デ・モンセラート」(Nuestra-Señora de Montserrat モンセラートの聖母)を安置しています。サンタ・マリア・デ・モンセラートはカタロニアで最も有名な巡礼地のひとつであり、フランスの
ルルドの聖地、サラゴサの
エル・ピラル聖堂、及びホセマリア・エスクリバ(San Josemaría Escrivá de Balaguer, 1902 - 1975)が建てたトレシウダ(Torreciudad アラゴン州ウエスカ県)の聖堂とともに、いわゆる「ルタ・マリアナ」(La
Ruta Mariana マリアの道)を構成します。
【サンタ・マリア・デ・モンセラート修道院の歴史】
モンセラートから北北東に約70キロメートル離れたピレネー山中のリポイ(Ripoll カタルニャ州ジロナ県)に、
ベネディクト会の修道院、サンタ・マリア・デ・リポイ(El Monasterio de Santa María de Ripoll)があります。この修道院の第二代修道院長に就任したオリバ(Oliva
O.S.B, 971 - 1046)は、隠修士の庵があったモンセラート山中に分院サンタ・セシリアを造るべく、1011年に修道士を派遣しましたが、この計画は結局実現せず(註1)、代わりに設けられた分院は、隠修士の庵と同じくサンタ・マリアと呼ばれるようになりました。
分院サンタ・マリアには 880年頃から崇敬を集める黒い聖母子像、ヌエストラ=セニョラ・デ・モンセラートが安置されていました。このため奉献物や献金が集まり、修道院の勢力は増大し続けることになります。
十二世紀の末、サンタ・マリア・デ・モンセラートの分院長は本院サンタ・マリア・デ・リポイからの独立を果たすべく、当地の修道士数を独立に必要な十二名に増やす許可を本院に求めます。この頃から始まった分院の独立運動は長く続きましたが、1410年3月10日、アヴィニヨンの対立教皇ベネディクトゥス十三世(Benedictus
XIII, "El Papa Luna", 1328 - 1423)によってサンタ・マリア・デ・モンセラート修道院の独立がようやく認められました。(註2)
カトリック両王 フェルナンドとイサベラ
1493年、「カトリック両王」のひとり、アラゴン王フェルナンド二世(Fernando II, 1452 - 1516)は、現在カスティジャ・イ・レオン州の州都となっているバジャドリ(Valladolid)から十四名の修道士を送り込み、これがきっかけで、この地域の出身者が院長に就任するようになりました。また同年、サンタ・マリア・デ・モンセラート出身の修道士がコロンブスの航海に同行し、モンセラートの聖母への信心がアメリカ大陸に広まるさきがけとなりました。
1811年及び1812年、サンタ・マリア・デ・モンセラート修道院は、スペイン独立戦争に際して侵入してきたナポレオン軍によって火災の被害に遭いました。また1835年の永代所有財産解放令
(Desamortización Ecclesiástica de Mendizábal)によって、サンタ・マリア・デ・モンセラートの修道士たちは修道院を放棄することを余儀なくされました。修道院の閉鎖は長く続かず、修道士たちは1844年に戻ってきましたが、この間修道院は掠奪・放火されて廃墟となっており、すべてを新しく建てなおす必要がありました。またフェルナンド二世時代以来、サンタ・マリア・デ・モンセラートの修道院長はバジャドリ出身者が占めてきましたが、1844年を境にサンタ・マリア・デ・モンセラートはふたたび独立を達成し、独自に選んだ院長が就任しました。
(下) マドリ(マドリッド)市民を銃殺するナポレオン軍 Francisco de Goya,
"El Tres de Mayo", 1814, óleo sobre lienzo, 266 x 345 cm, Museo del Plado
1936年から 1939年まで続いたスペイン内戦の際、サンタ・マリア・デ・モンセラート修道院は再び閉鎖され、左翼政治家リュイス・コンパニス・イ・ジョベ(Lluis
Companys i Jover, 1882 - 1940)が牛耳るカタルニャ自治政府の管理下に置かれました。内戦の四年間に、サンタ・マリア・デ・モンセラートの修道士たちは開山以来最も苛烈な迫害を受け、二十三名の殉教者を出しました。修道院内にある礼拝堂の一つは、この殉教者たちに捧げられています。
【モンセラートのバシリカと、ヌエストラ=セニョラ・デ・モンセラート】
モンセラートの修道院付属聖堂は単身廊で、十四世紀から 1810年代にかけて建設され、1881年、教皇レオ12世によって
バシリカの称号が与えられました。ファサードが完成したのは 1901年のことです。
バシリカの身廊は中央の列柱によって支えられ、両側に礼拝堂が並んでいます。列柱は木彫りによって飾られていますが、これはカタルニャの彫刻家ジョセプ・リモナ(Josep Llimona i Bruguera, 1864 - 1934)の手によるものです。
黒い聖母ヌエストラ=セニョラ・デ・モンセラート(モンセラートの聖母)は、聖堂内陣の主祭壇上に安置されています。
伝承によると、880年、モンセラートの岩山に光を見て近づいた羊飼いの子供たちが、洞の中に聖母子像を見つけました。知らせを受けた司教は、見つかった聖母子像をモンセラートの北十数キロメートルにある都市マンレザ(Manresa カタルニャ州バルセロナ県)に運ばせようとしましたが、重すぎて運ぶことができなかったので、司教は聖母子像を発見された場所に留め置くべきであると悟りました。こうして聖母に捧げた隠修士の庵がこの地に設けられ、サンタ・マリア・デ・モンセラート修道院の濫觴(らんしょう)となります。
現在サンタ・マリア・デ・モンセラート修道院において崇敬を受ける黒い聖母、ヌエストラ=セニョラ・デ・モンセラートは、高さ約九十五センチメートルのポプラの木像で、顔と手足を除いて金箔が施されています。聖母子像ヌエストラ=セニョラ・デ・モンセラートは、伝承によると初代教会時代にエルサレムで制作されたとされますが、実際には十二世紀の作品で、ロマネスクの聖母子像に特徴的な正面向きの姿です。「ラ・モレネタ」または「ラ・モレニタ」(La
Moreneta/Morenita 黒い乙女)の愛称で呼ばれる聖母は、幼子イエスを膝に乗せ、
世界(全宇宙)を象徴する球体を右手に持っています。幼子イエスは右手を挙げて祝福の仕草をし、左手には多数の突起で覆われた球体を載せています。
ヌエストラ=セニョラ・デ・モンセラートは、1861年、スペインの聖母像としてはじめて正式に戴冠しました。1884年9月11日、教皇レオ十三世はヌエストラ=セニョラ・デ・モンセラートをカタルニャの守護聖女と宣言し、固有のミサと聖務日課を認可しました。
ヌエストラ=セニョラ・デ・モンセラートの祝日は4月27日です。
註1 なおサンタ・セシリア修道院(El Monasterio de Santa Cecília de Montserrat)はサンタ・マリア・デ・モンセラート修道院から南西に約三十キロメートル離れた場所に建設されました。
註2 当時この地域はアラゴン、カタルーニャ、ナバラからイタリア、ギリシアまで版図を広げるアラゴン王国(La Corona de Aragón)に属しており、アラゴン王国は
1378年から 1417年まで続いたシスマ(教会大分裂)に際して、アヴィニヨンの教皇を支持していました。なお、シスマはコンスタンツ公会議により終結しました。
註3 スペインでは永代所有財産解放令(Desamortización)がたびたび出されて、教会財産の没収が行われています。1835年の永代所有財産解放令は、同年9月25日から翌
1836年3月15日までスペイン首相を務めたメンディサバル(Juan de Dios Álvarez Mendizábal, 1790 - 1853)によるもので、「メンディサバル法」(Desamortización
Ecclesiástica de Mendizábal)とも呼ばれています。
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