ポルツィウンコラ礼拝堂
la Porziuncola, la Basilica di Santa Maria degli Angeli, Assisi




(上) ポルツィウンコラ テルニ、アルテロッカ社による古い絵葉書


 アッシジの聖フランチェスコ(San Francesco d'Assisi, 1182 - 1226)はサン・ダミアーノ教会で祈っていたとき、「わたしの教会を建て直しなさい」というお告げを磔刑のキリスト像から受けました。これを聖堂の修復という意味に解したフランチェスコは、当時廃墟と化していたサン・ダミアーノ教会を皮切りに修復作業を開始しました。ポルツィウンコラ(la Porziuncola)は元々ベネディクト会が所有していた小さな礼拝堂で、十二世紀には荒れ果てていましたが、フランチェスコが手ずから修復した三番目の礼拝堂となりました。

 ポルツィウンコラはフランチェスコの霊的活動の原点であり、カトリックにおける重要な聖地のひとつです。この礼拝堂を保護し、且つ巡礼に訪れる人々の便宜を図るため、世界第七位の大きさを誇るサンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂(la Basilica di Santa Maria degli Angeli)が建てられました。サンタ・マリア・デリ・アンジェリは幅六十五メートル、奥行百二十六メートルのラテン十字型平面プランを有する巨大な建造物で、ポルツィウンコラは身廊と翼廊の交叉部に建っています。

 ポルツィウンコラについては、トンマーゾ・ダ・チェラーノ(チェラーノのトンマーゾ Tommaso da Celano, c. 1200 - c. 1260/70) による「聖フランチェスコの第一伝記」(Vita prima S. Francisci, c.1228)22, 24~30, 44, 57, 106番、「聖フランチェスコの第二伝記」(Vita secunda S. Francisci, 1246/47)第一巻第十二章、ボナヴェントゥラ(Bonaventura, c. 1221 - 1274)による「大伝記」(Legenda Maior, 1263)2の8と9に言及されています。また 1160年の文書において、ポルツィウンコラ礼拝堂はサンタ・マリア・デ・ポルティウンクラ(Santa Maria de Portiuncola)と呼ばれています。



【ポルツィウンコラ礼拝堂の歴史】

 ポルツィウンコラ(伊 la Porziuncola)とは「小さな土地」という意味で、本来は礼拝堂が建つ場所の呼び名でしたが、これがそのまま礼拝堂の名前に転用されました(註1)。ポルツィウンコラ礼拝堂はスバシオ山のベネディクト会修道院が有していましたが、いつの間にか荒れ果て、放置されていました。

 フランチェスコはこの礼拝堂を修復し、1211年頃にベネディクト会修道院長から礼拝堂を譲り受けて、数メートルしか離れていないところに自分の小屋を建てました。その周囲に弟子たちが住み着き、やがて礼拝堂を中心に周囲を柴垣で囲んで、修道院ができました。これが小さき兄弟たち、すなわちフランシスコ会の源流です。フランシスコ会の総会は、ポルティウンコラで開かれることとなりました。

 1211年の棕櫚の主日にはアッシジのキアラ(Santa Chiara d'Assisi, 1194 - 1253)がポルツィウンコラにおいてフランチェスコたちの仲間に加わり、別の場所に集住して、クララ会が誕生しました。亡くなる直前の 1226年9月、フランチェスコはポルティウンコラの傍らにある自分の小屋に戻りました。フランチェスコは礼拝堂を小さき兄弟たちに託し、同年10月3日に亡くなりました。

 聖人の没後、ポルツィウンコラには大勢の巡礼が押し寄せたので、ポルツィウンコラを保護し、巡礼者たちを収容するために、十六世紀から十七世紀にかけて巨大な聖堂サンタ・マリア・デリ・アンジェリ(la Basilica di Santa Maria degli Angeli)が建てられました。この聖堂は 1909年に総主教バシリカ(教皇バシリカ)へと格上げされ、今日に至ります。


【ポルツィウンコラの免償】



(上) Tiberio d'Assisi, Proclamazione dell'Indulgenza della Porziuncola, o Perdon d'Assisi, la Basilica di Santa Maria degli Angeli, Assisi


 1216年の或る夜、聖フランチェスコは眠っている途中に目を覚まし、強い衝動を感じてポルツィウンコラ礼拝堂に入りました。聖人が祈っていると堂内が突然明るい光で満たされ、光輝に包まれたキリストが祭壇の上方に出現しました。キリストの右(向かって左)には多数の天使に囲まれた聖母の姿がありました。聖人が顔を地面に着けて祈りを捧げると、キリストと聖母はフランチェスコに話しかけ、人々の救いために何が欲しいかを尋ねました。「罪を悔いて告解し、この御堂を訪れる全ての人に、完全な罪の赦しをお与えください」とフランチェスコが答えたところ、キリストは「これは大きな願いだが、あなたにはもっと大きな事を願う資格がある。あなたがわたしの代わりとなって、地上におけるわたしの代理人(教皇)に、この免償を願いなさい」と仰いました。

 このとき教皇ホノリウス三世はペルージャに滞在していたので、聖フランチェスコはすぐさまにペルージャに向かいました。、教皇に拝謁した聖人がありのままの出来事を話したところ、教皇は免償の授与に同意しました。教皇はすぐに退出しようとするフランチェスコを呼び止め、正式な証書を持たせようとしましたが、聖人は「書類など不要です。聖母ご自身が証書です。キリストが書記、天使たちが証人です。」と答えました。数日後、フランチェスコはポルツィウンコラに集う群衆を前に、「私はあなたたち全員を天国に送りましょう」と語り、喜びの涙を流したと伝えられます。

 当初、ポルツィウンコラの免償は八月一日の午後から八月二日の日没までの間に、アッシジのポルツィウンコラ礼拝堂においてのみ与えられていました。この制限は時代が下るにつれて徐々に緩められ、現在の条件は下表のようになっています。


ポルツィウンコラ免償の三条件
 
   1.    告解の秘跡を受けること。告解の秘跡は、教会を訪問する日の前後八日以内に受けてもよい。
       
   2.    聖体を拝領すること。聖体は、教会を訪問する日の前後八日以内に拝領してもよい。
       
   3.    教会に行って、次の祈りをすること。
       
       ・この免償を与える教皇のために、主の祈りまたは天使祝詞を少なくとも一回。
       ・教会にいる間に、主の祈りを一回、使徒信条を一回、自分が唱えたいと思う祈りを一回唱えること。
       
       なお訪れて免償を受けることができる教会は、次のいずれかです。
       ・フランシスコ会とクララ会に関わる全ての教会
       ・全ての司教座聖堂
       ・全ての小バシリカ
       ・全ての教区教会



【ポルツィウンコラの装飾】

 ポルツィウンコラ礼拝堂は美しい装飾で飾られています。西側正面は上部にゴシック式の小塔が付加され、外壁にフレスコ画が描かれています。サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂に覆われているため雨風による劣化が抑えられ、およそ二百年前に制作された西側正面のフレスコ画は良好な保存状態を保っています。





 上の写真は西側正面の上部で、ヨハン・フリードリヒ・オーファーベック(Johann Friedrich Overbeck, 1789 - 1869)による 1829年のフレスコ画「キリストと聖母からポルツィウンコラ免償を受ける聖フランチェスコと弟子たち」で飾られています。キリストと聖母の下方には祭壇が描かれ、祭壇の前面は明るい緑色を背景に聖母が幼子イエスを抱いています。これは永遠の生命の門である(羅 HAEC EST PORTA VITAE AETERNAE)との言葉が、描かれた祭壇の下部に記されています。

 「これ」(羅 HAEC)が女性形であるのは、女性名う詞ポルタ(羅 PORTA 門)との一致とも考えられますが、カペッラ(羅 CAPELLA 礼拝堂)を指すとも、インドゥルゲンティア(羅 INDULGENTIA 免償)を指すとも考えられます。

 ヨハン・フリードリヒ・オーファーベックはナザレ派に属するドイツの画家で、ラファエロ以前の初期ルネサンス絵画を理想としました。





 上の写真は南側壁面で、ウンブリアの逸名画家によるフレスコ画断片が残っています。中央右寄りの出入り口は巡礼に訪れる群衆を捌くため、十九世紀に設けられたものです。





 これと反対の北側壁面にはフレスコ画が無い石壁で、縦長の小さな窓が二つ設けられています。





 東側外壁の上部にもフレスコ画が描かれています。これはペルジーノが 1485年頃に描いた磔刑図ですが、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂を建設する際に破損し、キリストの上半身が剥落しています。





 ポルツィウンコラ礼拝堂の西側扉口には、ラテン語で「ヒーク・ロクス・サーンクトゥス・エスト」(羅 HIC LOCUS SANCTUS EST)の文字が床に嵌め込まれています。ここは聖なる場所である、あるいはこの場所は神聖であるという意味です。





 祭壇画はウンブリアの画家イラリオ・ダ・ヴィテルボ(Ilario/Hilarius Zacchi da Viterbo, fl. XIV secolo)による受胎告知図で、六つの区画に分かれています。この祭壇画は 1393年の作品です。

 祭壇画六面の題材は、次の通りです。

   中央    受胎告知
       
   上部    聖フランチェスコがキリストと聖母に薔薇を捧げている。キリストと聖母は六十人の天使に囲まれている。
       
   中央向かって右    上部は、二人の天使に伴われる聖フランチェスコ。下部は、裸で茨の茂みに飛び込もうとするフランチェスコと、二人の天使、及ぶフランチェスコを上から祝福するキリスト。
       
   中央向かって左    上部は、ポルツィウンコラ免償を教皇に願い出る聖フランチェスコ。下部は、ウンブリアの司教たちと共にポルツィウンコラ免償を人々に知らせる聖フランチェスコ。



註1 ポルツィウンコラ(伊 la Porziuncola)の語源はラテン語ポルティウンクラ(羅 PORTIUNCULA)で、文献上の初出は 1045年に遡る。ラテン語ポルティウンクラはポルティオー(羅 PORTIŌ 一切れ、一部分)に指小辞(-UNCULUS/A/UM)が付いた語で、一片の土地が原意である。語尾が女性形である理由は、ポルティオーがそもそも女性名詞であることに加え、含意されるテッラ(羅 TERRA 土地)が女性名詞だからでもあろう。

 ポルツィウンコラ礼拝堂は元々ベネディクト会のものであった。ポルツィウンコラ(ポルティウンクラ)の語には割り当て、分け前の含意があるが、その背景にはベネディクト会からフランチェスコに譲渡されたという歴史的事実がある。

 なお 1645年まで遡り得る聖人伝によると、エルサレムに近いヨシャファトの谷(ヨエル 4: 2, 12)から聖母の聖遺物を携えた隠修士たちがやって来て、ウンブリアにポルツィウンコラ礼拝堂を建てた。これはリベリウス(Liberius, 310 - 352 - 366)がローマ司教であった時代、すなわち四世紀半ば過ぎの出来事であった。その後ポルツィウンコラ礼拝堂は 516年にヌルシアの聖ベネディクトゥスに譲渡され、ヨシャファトの谷の聖母、また天使たちの聖母として知られるようになった。天使たちの聖母という礼拝堂名は、この礼拝堂から天使たちの歌声が聞こえたとの伝承による。


註2 1967年から 1969年にかけてサンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂の床下が発掘され、ポルツィウンコラの初期の様子が明らかになった。聖フランチェスコの没後、聖人に従う小さき兄弟たち(修道士たち)はポルツィウンコラの周囲に数軒の隠修小屋を建て、1230年には食堂とそれに伴う建物が加わった。その後さらに回廊と修道士の居室が付加されている。



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