十九世紀後半から二十世紀初頭頃のフランスで、ブロンズを用いて制作されたアッシジの聖フランチェスコ(Franciscus Assisiensis, 1182 - 1226)の十字架型メダイ。縦横 60.2 x 39.1ミリメートル、厚さ 2.3ミリメートルとたいへん大きなサイズで、打刻ではなく、手間をかけて鋳造されています。12.9グラムの重量は五百円硬貨二枚分に近く、手に取ると心地よい重量感があります。
メダイ全体は十字架を模(かたど)ります。正統的ラテン十字が「わたしの教会を建て直しなさい」との命令を髣髴させるとともに、華美な装飾を排した質素さが托鉢修道会に相応しく感じられます。
右手に十字架、左手にフランシスコ会則を持つ聖フランチェスコの姿が、十字架基部に浮き彫りにされています。聖フランチェスコが腰に巻く縄には、清貧、貞潔、従順を象(かたど)る三つの結び目があります。
聖フランチェスコの後光は、通常であればキリストの後光にのみ表現される十字を有します。これは聖フランチェスコが自分の全てを棄て、あるいはキリストに捧げて、キリストと一致したことを表します。
聖フランチェスコが人間であるのに対して、イエス・キリストは三位一体の第二位でもありますから、両者が完全に一致することはありません。しかしキリストは人でもあり、十字架上に刑死し給うたのはまさに人としてのキリストでした。それゆえ自分の全てを捨ててキリストに従おうとした聖フランチェスコは、人としてのイエス・キリストに一致し、それゆえに聖痕も授けられたのだと考えられます。
このように考えると、本品に浮き彫りにされた聖フランチェスコがキリストと同じ後光を戴いている理由が分かります。後光に表されている十字架は、人としてのイエス・キリストの象徴といえます。しかるに聖フランチェスコは、人としてのイエスに従う生き方を意志的に選び取り、死の瞬間まで信仰に殉じました。それゆえ後光にあしらわれた十字架は、地上におけるイエスの生涯に自らを重ね合わせた聖フランチェスコに相応しいと言えます。聖フランチェスコと同じ十三世紀に生きた聖ボナヴェントゥラ(Bonaventure
OFM, 1221 - 1274)も、「大伝記」(LEGENDA MAIOR)十四章四節において、キリストと一致しようとした聖フランチェスコの生涯を謳っています。
十字架交叉部にはポルツィウンコラ(la Porziuncola)が浮き彫りにされ、周囲の環には次の言葉がラテン語で記されています。
PORTIUNCULA CAPUT ET MATER ORDINIS MINORUM 小さき兄弟たちの頭(かしら)にして母なるポルツィウンコラ
交叉部を環で囲んだラテン十字としてはケルト十字が知られますが、本品はケルト十字ではありません。筆者(広川)が考えるに、上記の銘を記す環は、十字架に掛けられた茨の冠が様式化を経て変化したものです。ポルツィウンコラはイタリア語ですが、環状部分の銘はラテン語ですので、礼拝堂の名はポルティウンクラ(PORTIUNCULA)となっています。
聖フランチェスコはサン・ダミアーノ教会で祈っていたとき、「わたしの教会を建て直しなさい」というお告げを磔刑のキリスト像から受けました。これを聖堂の修復という意味に解したフランチェスコは、当時廃墟と化していたサン・ダミアーノ教会を皮切りに修復作業を開始しました。ポルツィウンコラは元々ベネディクト会が所有していた小さな礼拝堂で、十二世紀には荒れ果てていましたが、フランチェスコが手ずから修復した三番目の礼拝堂となりました。
ポルツィウンコラはフランチェスコの霊的活動の原点であり、カトリックにおける重要な聖地のひとつです。この礼拝堂を保護し、且つ巡礼に訪れる人々の便宜を図るため、世界第七位の大きさを誇るサンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂(la Basilica di Santa Maria degli Angeli)が建てられました。サンタ・マリア・デリ・アンジェリは幅六十五メートル、奥行百二十六メートルのラテン十字型平面プランを有する巨大な建造物で、ポルツィウンコラは身廊と翼廊の交叉部に建っています。本品メダイは交叉部にポルツィウンコラを排しているので、メダイ全体はサンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂を象っているとも考えられます。
十字架上端及び横木の両端には、様式化された薔薇があしらわれています。これらの薔薇は単なる装飾と看做すこともできますが、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂にも薔薇礼拝堂(伊
la cappella delle rose)と薔薇園(伊 il roseto)があります。
もう一方の面には、十字架上端にイオタ、エータ、シグマ(IHΣ)のクリストグラム(キリストを表す略字)があります。イオタ、エータ、シグマはギリシア文字ですが、西ヨーロッパではシグマ(Σ)を異体字(S)に置き換えて、ラテン文字アイ、エイチ、エス(IHS)のように見える表記も行われます。本品のクリストグラムもアイ、エイチ、エスの字形になっています。
環状部分にはベネディクティオー・サーンクティー・パトリス・フランキスキー(羅 BENEDICTIO SANCTI PATRIS FRANCISCI 聖なる師父フランチェスコの祝福)の文字と薔薇の文様が刻まれています。
イオタ、エータ、シグマの下にはコーンフォールミタース(羅 CONFORMITAS 同型、一致)と呼ばれるフランシスコ会のシンボルが浮き彫りにされています。これは受難し給うイエスの裸の腕と、粗い修道衣を着た聖フランチェスコの腕が、十字架を背景に交叉する意匠です。イエスの手には釘の孔が、フランチェスコの手には聖痕による孔が、いずれも大きく口を開けています。
コーンフォールミタースという名称は、十四世紀のフランシスコ会士ピザのバルトロメオ(Bartholomaeus Pisanus, 1338 -
1401)が著した「聖フランチェスコの生と、我らの救い主イエスの生の一致」(羅 De Conformitate vitae Beati Francisci ad vitam Domini Jesu redemptoris
nostri)という本に由来します。同書によると、フランシスコ会の聖人ボナヴェントゥラは枢機卿になったとき、小さき兄弟会の全会員がキリストに連なることを願いました。枢機卿ボナヴェントゥラはこの願いゆえに、キリストの右腕とフランチェスコの左腕を付け根で重ねてV字形に開大させ、扇でいえば要(かなめ)に当たる部分に一本の釘を打ち付けた図像を、自身の紋章としました。
コーンフォールミタースの紋章はボナヴェントゥラの列聖を描いた十五世紀のフランドル絵画にも登場しており、当時既に広く認知されていたことが分かります。この紋章が発展し、交叉する腕の意匠に変化したのが、現在知られている図像です。
聖フランチェスコの聖人伝「イ・フィオレッティ」(伊 "I Fioretti" 聖フランチェスコの小さな花)には、「聖痕についての考察」が収録されています。この部分は五箇所の聖痕に因んで五つの考察に分かれており、聖痕の奇跡が起きたときの状況は「第三の考察」で詳述されています。
イタリア中部アペニン山中の町キウージ・デッラ・ヴェルナ(Chiusi della Verna トスカナ州アレッツォ県)に近い山の中で、1224年9月14日、十字架称讃の祝日に、聖フランチェスコはキリストの姿をしたセラフから聖痕(せいこん)を受けたと伝えられます。聖痕とはイエス・キリストが受難の際に負い給うた五つの傷、すなわち両手両足の釘孔と脇腹の槍傷が、聖人の身体に自然に現れたものを指します。
本品メダイ最下部のフランチェスコ像が十字架の後光を戴く事実について述べた際、筆者(広川)はフランチェスコが人としてのキリストに一致する生き方を選んだと指摘しました。聖フランチェスコがセラフから聖痕を与えられた事件は、フランチェスコの生き方がキリストと一致したことを端的に示す出来事です。本品メダイに浮き彫りにされたコーンフォールミタースは、もう一方の面に刻まれた十字架付きの後光と共に、キリストとの一致を目指す不可視の信仰を、可視的シンボルのうちに表現しています。
「イ・フィオレッティ」に収録された「聖痕についての考察」のなかで、ヴェルナ山中における聖痕の奇跡は「第三の考察」に記録されています。しかるにこの出来事の少し前、聖フランチェスコは信仰上の悩みを抱える弟子フラテ・レオーネ(Frate
Leone きょうだいレオーネ、レオーネ修道士)のために、ヴルガタ訳「民数記」六章二十四節から二十六節を引用し、祝福の言葉を加えて羊皮紙に書き付けました。この出来事は「聖痕についての考察」のうち「第二の考察」に記録されています。
本品十字架型メダイの横木及び縦木の下半分には、聖フランチェスコによる「民数記」の引用が記されています。内容は次の通りです。テキストはラテン語で、日本語訳は広川によります。
6:24 | BENEDICAT TIBI DOMINUS ET CUSTODIAT TE : | 主が汝を祝福し、守り給うように。 | |||
6:25 | OSTENDAT FACIEM SUAM TIBI : ET MISEREATUR TUI : | 汝に御顔を示し給うように。汝を憐れみ給うように。 | |||
6:26 | CONVERTAT VULTUM SUUM AD TE : ET DET TIBI PACEM. | 御顔を汝に向け給いて、汝に平和を与え給うように。 | |||
旧約聖書において「神が人の上に御顔を輝かす」とは祝福を与えることです。以上三節を「民数記」から引用した後、聖フランチェスコは悩めるレオーネ修道士のために次の言葉を付け加えています。 | |||||
DOMINUS BENEDICAT TE, FRATER LEO. | レオーネ修道士よ。主が汝を祝福し給うように。 | ||||
メダイの最下部にはギリシア文字タウ(Τ)があり、レオーネ修道士への言葉はこれに絡み付くように記されています。 | |||||
「エゼキエル書」八章にはエルサレム神殿における偶像崇拝及び被造物崇拝が、続く九章にはユダ王国及びエルサレムに対する裁きが、それぞれ描写されています。九章四節には次のように書かれています。新共同訳により引用します。 | |||||
9:4 | 主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」 | ||||
「エゼキエル書」九章に倣い、「ヨハネの黙示録」七章三節、及び十四章一節にも同様の印に関する記述が見られます。新共同訳で引用いたします。 | |||||
7:3 | 我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。 | ||||
14:1 | また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。 |
これらの個所において、額の印は神に忠実な信仰を象徴します。ところで「エゼキエル書」に言及されている印は、ヘブル語でタウといいます。これがギリシア語のタウと同音であることから、ギリシア文字タウは回心の象徴とされるようになりました。アッシジの聖フランチェスコが生きた十三世紀には、ギリシア文字タウは信仰の印として頻用されました。聖フランチェスコがレオーネ修道士に与えた書き付けにタウを記したのも、このような理由によります。
上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりも一回り大きなサイズに感じられます。
フランチェスコが手ずから修復したポルツィウンコラ礼拝堂、人としてのキリストと一致して歩んだ聖フランチェスコの生き方と、その象徴であるコーンフォールミタース、常に主に従い続ける信仰と回心を象徴するタウ十字、悩める弟子に聖人が与えた祝福の言葉を刻んだ本品メダイは、最も純粋な信仰の美しい形象化です。グレゴリウス改革を経たことにより、キリスト教会は却って内的危機に陥りました。その教会を建て直したアッシジの聖フランチェスコは、地上を歩むエクレシアの守り手であり続けています。
本品は百数十年前のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、古い年代にも関わらず、保存状態は極めて良好です。聖フランチェスコの顔やポルツィウンコラの壁画、コーンフォールミタース等の突出部分もほとんど摩滅しておらず、鋳造された当時のまま残っています。
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