モン=サン=ミシェル修道院
L'abbaye du Mont-Saint-Michel, Le Mont-Saint-Michel
フランス北西部から英仏海峡に突き出たコタンタン半島の西の付け根あたり、ブルターニュとの境界に近いサン=マロ湾(la baie de Saint-Malo)に面する町、ル・モン=サン=ミシェル(Le
Mont-Saint-Michel バス=ノルマンディー地域圏マンシュ県)の沖合に、モン=サン=ミシェル修道院 (L'abbaye du Mont-Saint-Michel)
があります。
モン=サン=ミシェル修道院はバス=ノルマンディー地域圏とブルターニュ地域圏の境界を為すクェノン川 (le Couesnon) の河口に位置し、海中から突出した岩盤上に建てられています。
干満による潮位差がヨーロッパで最も大きい場所として知られるサン=マロ湾は、干潮時と満潮時の差が15メートル近くにも及び、干潮時には波打ち際が沖合18キロメートルまで後退します。このため干潮時には、修道院はル・モン=サン=ミシェルの町と陸続きになります。もとは満潮時に孤立した島となっていましたが、現在では潮の干満にかかわらず修道院に渡ることが可能な道路が造られています。
【モン=サン=ミシェルの歴史】
1. キリスト教以前から最初期まで
伝承によると、708年、
アヴランシュ司教聖オベールの夢に現れた
大天使聖ミカエルの命により、
モンテ・ガルガノの洞窟に似せた聖所が、当時モン・トンブと呼ばれていた岩山に造られました。この聖所はモン=サン=ミシェル=オ=ペリル=ド=ラ=メール(仏 Mont-St.-Michel-au-péril-de-la-mer 海難からの守護天使聖ミカエルの山)と呼ばれて巡礼を集めるようになりました。詳しい解説は、
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2-1. ノルマン人の侵入 (九世紀から十世紀)
九世紀半ば、ノルマン人の侵入により、修道士たちはモン=サン=ミシェルを離れましたが、カロリング朝西フランク王によってノルマンディー公に封じられたノルマン人の首領ロロはモン=サン=ミシェルに寄進を行い、修道士たちを呼び戻してモン=サン=ミシェルを再興しました。詳しい解説は、
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2-2. ノルマンディー公とモン=サン=ミシェル修道院
965年にベネディクト会の修道院になったモン=サン=ミシェルは、ノルマンディー公及び諸領主からの寄進によって発展し、以前にもまして重要な巡礼地となりました。十一世紀には修道院付属聖堂が建設され、西ヨーロッパにおける学問の中心地のひとつになりました。詳しい解説は、
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3-1. フランス王権下のモン=サン=ミシェル修道院
フィリップ尊厳時代の大火とラ・メルヴェイユ建設
カペー朝フランス国王フィリップ二世(フィリップ尊厳)の封臣であるブルターニュ公は、1204年、モン=サン=ミシェルに火を放ち、修道院を焼き尽くしました。フィリップ2世はこれを償うために多額の寄進をし、「ラ・メルヴェイユ」と呼ばれるノルマン・ゴシック様式の建物が、モン=サン=ミシェルの北側に建てられました。詳しい解説は、
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3-2. フランス王権下のモン=サン=ミシェル修道院 百年戦争前半期
十四世紀のモン=サン=ミシェルは、教皇庁への多額の送金、黒死病による巡礼の減少、百年戦争によるイングランドの分院喪失によって打撃を受けました。ただし修道院長に関しては優れた人材に恵まれ、またイングランドに攻囲されても陥落しませんでした。詳しい解説は、
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3-3. フランス王権下のモン=サン=ミシェル修道院 百年戦争後半期
アザンクールの戦い(1415年)で圧勝したイングランドはノルマンディー全域を制圧し、モン=サン=ミシェルはこの地域におけるヴァロワ朝最後の砦となりました。イングランドによる封鎖と攻囲は続きましたが、モン=サン=ミシェルは最後まで持ちこたえ、1435年以降は巡礼も再開されました。イングランドは
1450年、フォルミニーの戦闘で大敗し、ノルマンディーから完全に撤退しました。詳しい解説は、
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4. モン=サン=ミシェルの衰退 (十六世紀から十八世紀)
十六世紀に入り、モン=サン=ミシェルが受封による院長を戴くようになると、修道士たちの士気は著しく低下しました。十七世紀に改革が行われましたが、十八世紀には再び衰退しました。フランス革命によって修道院が閉鎖された後、モン=サン=ミシェルは監獄として使用されました。詳しい解説は、
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5. モン=サン=ミシェルの修復と修道院の復興
十九世紀のモン=サン=ミシェル修道院は荒廃の極にありましたが、1874年に歴史的記念建造物に指定されて修復作業が進められました。 1966年のモン=サン=ミシェル修道院創立1000年祭を機に、ベネディクト会修道院モン=サン=ミシェルが復興しました。2001年以降はエルサレム修道会の修道院となって、現在に至っています。詳しい解説は、
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【モン=サン=ミシェルの建築】
966年、モン=サン=ミシェルがベネディクト会修道院となった際に聖堂ノートル=ダム=ス=テール(Notre-Dame-Sous-Terre 地下の聖母)が建てられましたが、その後モン=サン=ミシェルの岩山上には、この聖堂を吸収するような形で数多くの建物が建設され、もともとの聖堂ノートル=ダム=ス=テールは修道院付属聖堂の地下に埋もれてしまい、数世紀の間忘れ去られていました。
モン=サン=ミシェルの建築物群は、修道院付属聖堂(ラバシアル l'Abbatiale)と修道院部分に二分されます。後者はさらに二分され、ロベール・ド・トリニによる十二世紀の建築と、ラ・メルヴェイユ(la
Merveille)と呼ばれる十三世紀の建築から成り立ちます。
・修道院付属聖堂
モン=サン=ミシェルへの巡礼者が増えると、修道院の建物をノートル=ダム=ス=テールの北に移し、修道院の建物があった元の場所には、新しい修道院付属聖堂を建てることになりました。
新しい修道院付属聖堂は三つのクリプトを有し、それらは北側にあるトラント=シエルジュ礼拝堂(a chapelle des Trente-Cierges 三十本のろうそくの礼拝堂)、東側にあるル・クール礼拝堂(仏
la crypte du chœur 聖歌隊礼拝堂または内陣礼拝堂)、南側にあるサン=マルタン礼拝堂(la chapelle Saint-Martin
聖マルタン礼拝堂)でした。これらの地下聖堂は 1031年から 1047年にかけて建設されました。
新しい修道院付属聖堂の身廊は 1060年から建設が始まりました。ノートル=ダム=ス=テールは身廊の床に覆われて完全な地下聖堂となりましたが、その後も使われ続けました。
いっぽうノートル=ダム=ス=テールの北側には、1080年に3階建ての修道院が建てられて、巡礼を迎えるラ・サル・ド・ラキロン(仏 la salle
de l'Aquilon 北風の間)および修道士のための廻廊と大寝室が設けられました。
身廊は強度が不十分であったため、1103年に西側の柱間三つ分が崩落しました。この部分は1115年から1125年にかけて再建されました。1421年には交差部にあるロマネスク式の塔が崩落しましたが、二度の工事7(1446年から1449年、1500年から1523年)により再建されました。
1776年、修道院付属聖堂で落雷による火災があり、西側の柱間三つ分を取り壊して身廊を短縮し、1780年に現在の西側正面が完成しました。このときファサードを支える柱によってノートル=ダム=ス=テールが二分されました。
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