ポンマンの聖母のメダイはめったに目にできませんが、本品は「ポンマンの聖母」崇敬の初期である 1870年代に制作された最古級の稀少品であり、私がこれまでに目にしたなかで最大の作例でもあります。素材はブロンズで、35.9ミリメートルの直径、百円硬貨四枚分に近い
18.4グラムの重量があり、手に取るとかなりの重みを感じます。厚さも 4.5ミリメートルあるゆえに、聖母像はたいへん立体的で、打刻による平たいメダイが多い19世紀のメダイのなかでは異色の作例です。
一方の面には、ポンマンに出現した「希望の聖母」(Notre-Dame d'Esperance) を天地いっぱいに浮き彫りにしています。ポンマンの聖母は星を散りばめた長衣を着て、特徴的な形の帽子を被っています。本品の浮き彫りにおいて、聖母は楕円と四つの燭台に囲まれ、特徴的な形の十字架を胸の前に掲げ持って人々に示しています。これはポンマンにおける聖母出現の第四段階の姿で、最もよく図像に表されます。
(下) フランスの古いカード。当店の商品。
聖母を囲む楕円の外側には多数の星がちりばめられ、ポンマンにおける聖母出現の際、子供たちが空中に読み取った言葉が書かれています。内容は次の通りです。
MAIS PRIEZ MES ENFANTS. DIEU VOUS EXAUCERA EN PEU DE TEMPS. MON FILS SE LAISSE TOUCHER. 祈りなさい、子供たちよ。神はあなた方の祈りをすぐに聞き入れてくださいます。わが息子は憐れんで心を動かします。 |
ポンマンに聖母が現れるという事件が起こったのは、普仏戦争が終結する直前の1871年1月17日でした。およそ一年後の1872年2月2日には、ラヴァル司教ヴィカール師
(Msgr. Casimir-Alexis-Joseph Wicart, 1799 - 1879) によって、ポンマンでの出来事が真正の聖母出現であると認められ、その崇敬が承認されました。翌1873年から1877年にかけて、小村ポンマンにネオ・ゴシック式の壮麗な聖堂、「ポンマンの聖母教会」(Eglise
de Notre-Dame de Pontmain) が建設されました。
ポンマンに聖母が出現したのは、プロシア軍によってフランスの国土が蹂躙され、パリが陥落し、コミューンの混乱によって全土が荒廃するという、近代フランスにとって最も苛酷な時代でした。ポンマンの村人たちのみならず、個人の力を圧倒する大きな災厄に巻き込まれた当時のフランスの人々にとって、「祈りなさい、子供たちよ。神はあなた方の祈りをすぐに聞き入れてくださいます」("Mais
priez, mes enfants. Dieu vous exaucera en peu de temps.")、「わが息子は憐れんで心を動かします」("Mon
fils se laisse toucher...") と語りかけた聖母のメッセージは、どれほどの安心を与えてくれたことでしょうか。
メダイのもう一方の面には、美しい星空を背景にネオ・ゴシック式の壮麗な聖堂を浮き彫りにし、周囲にフランス語で「ポンマンにおけるノートル=ダム・デスペランス(希望の聖母)の聖地」(Sanctuaire
de Notre-Dame d'Espérance à Pont-main) と刻んでいます。その外周には「1871年1月17日 ポンマンにおける聖母の御出現」(apparition
de la Sainte Vierge à Pont-main, 17 janvier 1871) と書かれています。
ポンマンの聖堂は聖母出現を記念して、1873年から1877年にかけて当地に建設されました。1908年には教皇ピウス10世によってバシリカとされますが、このメダイが製作されたのは19世紀ですので、バシリカ(フランス語で basilique)という言葉はまだ使われていません。
この重厚なメダイは、「ポンマンの聖母教会」建設の資金を集めるために制作された品物であろうと思われます。立派な浮き彫り彫刻と、 打刻ではなく鋳造による本格的な作りからは、能う限り最良のメダイユを制作して、能う限り最良の聖堂を奉献したいと考えた当時の人々の篤い信仰心、母なるマリアへの愛と信頼と感謝を読み取ることができ、美術工芸品として、アンティーク信心具として、フランス近代史の実物資料として、大きな価値を有します。
本品はおよそ百四十年前に制作された真正のアンティーク品でありながら、磨滅は少なく、細部までよく残っています。ブロンズ表面の黒ずみと緑青(ろくしょう)が趣(おもむき)ある古色となって、メダイユの両面を被っています。実物は写真で見るよりもずっと重厚で、味わいある一品となっています。