パリ外国宣教会からヴェトナムに派遣され、1860年11月3日にソンタイ(Son Tay ハノイ西郊)で斬首されて殉教したフランス人宣教師、ピエール=フランソワ・ネロン師 (St. Pierre-François Néron, 1818 - 1860) の列福記念メダイ。1909年5月2日、当時の教皇ピウス10世により、他の32名の殉教者とともにネロン師が列福された際のもので、アンティーク品には稀な未使用品と思われます。
ネロン師たちが列福された際に制作された小聖画。当店の商品です。
ピエール=フランソワ・ネロン師はカトリック禁教時代の阮朝ヴェトナムに潜伏して活躍しましたが、1860年8月初旬、それまで親しくしていた区長の裏切りに遭って捕縛され、1860年11月3日、ハノイ西郊ソンタイで斬首されて殉教しました。わが国ではキリシタンに対し、1867年から1873年にかけて「浦上四番崩れ」という苛烈な弾圧が行われましたが、師の殉教はこれとほぼ同時代の出来事です。
メダイには、ロブ(四つ葉形)と正方形を組み合わせた枠の内部に、ネロン師の横顔が浮き彫りにされています。枠の形状はゴシック建築を思わせる厳かなデザインですが、聖人の表情は穏やかで親しみやすく、ルルドのメダイによく見られる聖母の横顔と重なります。ソンタイで捕縛された際、裏切りを赦してくれるように請うヴェトナム人たちに対して、ネロン師は「かまいません。あなたがた皆を赦します」と言いました。神から受けた愛を隣人へと与えたネロン師の愛が、その横顔に溢(あふ)れています。
ネロン師の横顔を囲むように、執り成しを求める祈りがフランス語で書かれています。
Bienheureux Pierre-François Néron Martyr, priez pour nous. 殉教福者ピエール=フランソワ・ネロン、われらのために祈り給え。
ネロン師は 1988年6月19日、当時の教皇ヨハネ=パウロ2世により、ヴェトナムにおける他の116名の殉教者とともに、「ヴェトナムの殉教聖人」(Les Saints Martyrs du Viet Nam) として列聖されました。ネロン師を含む「ヴェトナムの殉教者」117名の祝日は、11月24日です。また聖ピエール=フランソワ・ネロンの祝日は、殉教の日である11月3日です。
メダイのもう一方の面には、右腕にロザリオを掛けたルルドの聖母が浮き彫りにされています。
1858年3月25日、16回目の出現の際、ベルナデット・スビルーに名を問われた聖母は、微笑むのを止め、目を天に向け、下ろしていた両手を胸の前で組んで、「私は無原罪の御宿りです」("Je suis l'Immaculée Conception.") と答えました。聖母の後光には、このときの聖母の答えが標準フランス語で刻まれています。また聖母を囲むように、執り成しを求める祈りがフランス語で記されています。
Notre-Dame de Lourdes, priez pour nous. ルルドの聖母(ノートル=ダム・ド・ルルド)よ、われらのために祈り給え。
本品の制作地であるフランスは、メダイユ芸術が極度に発達した国ですが、その本領は本品においても発揮されています。上の写真は実物の面積を60倍弱に拡大しています。定規のひと目盛は
1ミリメートルです。聖母の顔立ちは整い、衣の襞(ひだ)やロザリオの珠、聖母像の下部にあるナツメヤシの葉なども克明に表されていますが、それぞれの描写を構成する部分は
1ミリメートル以下のサイズで彫られています。
本品は百年以上前にフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、いずれの面の浮き彫りも立体的であるにかかわらず、摩耗はまったく見られません。実物は写真で見るよりもずっときれいで、恐らく未使用品と思われます。ごく限られた機会にのみ鋳造された稀少な工芸品としても、貴重な歴史的資料の実物としても、価値ある稀少な品物です。本品は直径 21.6ミリメートルと硬貨ほどのサイズがありますが、軽量なアルミニウム製ゆえに、ペンダントとして常用するにも適しています。
17歳で聖職を志したとき、ピエール=フランソワ・ネロン少年には哲学や神学、ラテン語の知識はおろか、母国語の読み書きが辛うじてできるほどの教育しか無く、家も貧しく、いまから教育を受けて宣教師になるのは無理だと周囲に止められました。しかし神と隣人への熱烈な愛を抱くネロン少年に道は開けて、当初の志どおり宣教師となり、ついには殉教の栄冠を得ました。裏切った者たちをも愛したネロン師を常に思い起こさせてくれるこのメダイは、身に着ける人にとって、活きて働く真の信心具となってくれることでしょう。私自身、本品を手放しがたいのですが、思い切って商品といたします。