厳寒のなか、自らの外套を断ち切って貧者に与えるトゥールの聖マルタンを一方の面に、トゥール司教としての聖マルタンをもう一方の面に、それぞれ打刻による浅浮き彫りで表した19世紀フランスのブロンズ製メダイ。トゥールの聖マルタンはガロ・ロマン期のローマ軍人で、フランスの守護聖人ともされ、中世ヨーロッパにおいて最も人気があった聖人の一人です。外套を与えるシーンは聖マルタンの図像表現において最もよく見られるもので、聖マルタンとほぼ同時代の人、聖シュルピス=セヴェールによる「聖マルタンの生涯」(De vita Beati Martini) が出典になっています。
メダイの一方の面には、とりわけ寒さが厳しい冬の日、アミアンの市門近くを、軍馬に乗った18歳の若者マルタンが通りかかる場面を、浅浮き彫りで描いています。マルタンはこの場所で寒さに震える半裸の乞食を見つけますが、施す物を持ちません。そこでマルタンは太刀を抜くと、自らがまとう軍用の外套を真っ二つに切り裂いて、半分を乞食の体に優しく巻き付けています。この場面を取り巻くように、聖人に執り成しを求める祈りの言葉がフランス語で記されています。
Saint Martin, priez pour nous. 聖マルタンよ、われらのために祈りたまえ。
もう一方の面には 371年、55歳の頃にトゥールの市民たちから請われて当地の司教となったマルタンを描きます。聖人は祭服を着て司教のミトラを被り、両手を肩のあたりに挙げ、掌を前方に向けて祝福の姿勢を取っています。左手に持った帯状の布は、乞食に与えたマントの残りを畳んだものでしょう。浮き彫り像の周囲には、聖人に執り成しを求める祈りがフランス語で記されています。
Saint Martin, priez pour nous. 聖マルタンよ、われらのために祈りたまえ。
聖マルタンのマントは、聖人自身がトゥール近郊に創建したマルムティエ修道院に保存されていました。このマントは679年に王室財産として記録されています。聖マルタンのマントはフランス王室にとって最も貴重な聖遺物であって、王に同行して戦場に運ばれることもありました。「カペー」(Capet)
という王朝の名は、「聖マルタンのマント」(cappa Sancti Martini カッパ・サンクティー・マルティニー)に由来します。
この上なく貴重な聖遺物である聖マルタンのマントは、特に指名された司祭によって厳重に保管されていました。マント係のこの司祭は、10世紀にはカペラニ
(cappellani) と呼ばれていました。この言葉は「シャプラン」(chapelain 礼拝堂付司祭)として現代フランス語に入っています。「シャペル」(chappelle 礼拝堂)という言葉も、聖マルタンのマントを保管した場所であることに由来しています。
聖マルタンのバシリカは1562年にプロテスタントの略奪に遭い、聖人の遺体は焼却されて腕の骨片一個しか残りませんでした。聖堂が壊滅的な打撃を受けたのはフランス革命時で、このときバシリカは馬小屋にされた後、完全に取り壊され、石材はすべて売り払われて、跡地は道路になりました。
「トゥールの聖者 (le saint homme de Tours)」「聖顔の使徒 (l'apôtre de la Sainte Face)」として知られるレオン・デュポン
(Léon Papin Dupont, 1797 - 1876) は聖マルタンのバシリカ跡地を発掘し、1860年12月14日に聖人の墓所を再発見しました。その後間を置かずに始まった普仏戦争
(1870 - 71) において、プロシアは圧倒的な強さを示し、1870年9月、セダンの戦いで皇帝ナポレオン3世が捕虜になると、フランス政府はパリの陥落に備えて
1870年9月から12月までトゥールに疎開しました。このとき軍人であるトゥールの聖マルタンはフランスの守護聖人とされ、教会は第二帝政の崩壊をナポレオン3世の不信仰に対する天罰であると説きました。バシリカの半壊した鐘楼ラ・トゥール・シャルルマーニュ
(la Tour Charlesmagne) は再建すべき信仰心の象徴とされ、聖人の墓の上の仮設礼拝堂には巡礼が押し寄せました。
普仏戦争の敗戦に続くコミューンの動乱が収まり、フランス全土で信仰心が復興すると、聖マルタンのバシリカ再建の機運が高まり、ヴィクトル・ラルー
(Victor Alexandre Frederic Laloux, 1850 - 1937) によって、ネオ・ビザンティン式の聖堂、ラ・バジリク・サン=マルタン
(La basilique Saint-Martin de Tours) が建設されました。ヴィクトル・ラルーはトゥール出身で、トゥール市役所やトゥール駅、パリのオルセー駅等を手掛けたフランス建築界の重鎮です。ラ・バジリク・サン=マルタンの建設は
1886年に始まり、1889年に地下聖堂が、1890年に地上の聖堂が完成しました。
(下) 再建されたバシリカと鐘楼 古い絵葉書より。
このメダイは普仏戦争(1870 - 71年)後にカトリック信仰が復興し、トゥールにある聖マルタンの墓所に巡礼が押し寄せていた時代、すなわち
1870 - 80年代にフランスで制作されたものです。聖マルタンのメダイにおいて、マントを切断して乞食に与えるシーンは、19世紀の作品にも20世紀の作品にも共通の定型化した表現ですが、司教姿の聖マルタンがマントを示す図像は珍しく、私自身も初めて目にしました。
本品は古い制作年代にもかかわらず、表(おもて)面、裏面とも浅浮き彫りの細部まで綺麗に残っており、たいへん良好なコンディションです。聖マルタンは乗馬をする人、バイクに乗る人、補給係の将校、兵士、宿屋、仕立屋、葡萄農家、ワイン醸造業者、貧しい人、アルコール中毒者、馬、鵞鳥、フランスの守護聖人です。マルタンはフランスで最も多い名前(姓あるいは名)のひとつですし、サン=マルタンと名付けられた教会はフランス全土に4,000以上あると言われています。