一方の面にサンタ・マリア・デ・グアダルペを、もう一方の面に聖ヒエロニムスを、いずれも肉厚の浮き彫りで表したブロンズ製メダイ。反宗教改革期、日本で言えば戦国時代のものです。
「サンタ・マリア・デ・グアダルペ」(西 Santa María de Guadalupe グアダルペの聖なるマリア)または「ヌエストラ・セニョラ・デ・グアダルペ」(西
Nuestra Señora de Guadalupe グアダルペの聖母)は黒い聖母で、ロマネスク様式による十二世紀の木像です。
グアダルペ修道院に伝わる伝承によると、この聖母子像は福音記者ルカの手による作品で、後の大教皇グレゴリウスによってコンスタンティノポリスからローマに運ばれました。ローマで疫病の流行を鎮めた聖母像は、大教皇から聖イシドロの兄であるセビジャ大司教に贈られ、司教座聖堂に安置されました。イスラム教徒がセビジャを攻略すると、数名の聖職者が聖母像を持ってセビジャを脱出し、グアダルペ川に近い山地に隠しました。五百数十年後の十三世紀末か十四世紀初頭、居なくなった牛を探して山奥に分け入った牧童に聖母が出現し、像が埋められている場所を示します。聖母像は牧童に案内されて来た司祭たちによって無事に掘り出され、発見の場所にはグアダルペ修道院が建設されました。
サンタ・マリア・デ・グアダルペ
グアダルペ修道院は1389年に聖ヘロニモ会に受け継がれ、十六世紀半ばまで同会の下で大いに繁栄しました。大勢の人々によるグアダルペの聖母への崇敬こそが、グアダルペ修道院が得る収入の基盤でした。グアダルペにおける聖母崇敬は、巡礼及び奇跡から切り離すことができません。
グアダルペにおける奇跡の特性は、「捕虜の解放」と「海難からの守護」です。なかでも捕虜の解放は、十五世紀から十六世紀のイベリア半島において、とりわけ関心を集めるテーマでした。信仰無きイスラム教徒の地で捕虜となった人々を買い戻すために行われる事柄は、イベリアのキリスト教社会に生きるすべての人々に大いに感謝され、深い影響を及ぼすのが常でした。イスラム教徒の手から救い出された元捕虜たちが巡礼者としてグアダルペ修道院を訪れ、手枷、足枷を奉納すれば、他に何よりも効果的な宣伝となりました。いっぽう船乗りたちに関して言えば、船員は非常に広範囲の人々と接点があるゆえに、グアダルペの聖母への信心を広めるうえで、やはり重要な貢献をする人々でした。要するにグアダルペの奇跡が有するこのような特性を際立たせることで、ヘロニモ会はグアダルペの聖母への信心を容易に広めることができたのです。
しかしながら十六世紀になると、増加する巡礼者のイメージは悪くなりました。とりわけ1570年代以降、カスティジャにおける広汎な階層が貧窮し、社会を不安定にしました。巡礼者と貧者は多くの場合に同一視されました。このためカスティジャに住むほとんどの人は、巡礼者に対して同情よりも警戒心を抱きました。社会が巡礼者を警戒するという新しい状況のもと、修道院が信徒から金品を集めることを一切許すべきでないという風潮が生まれます。十六世紀半ばには教皇ピウス四世(Pius
IV, 1499 - 1559 - 1565)とスペイン国王フェリペ二世(Felipe II de España, 1527 - 1556 -
1598)が相次いで教令と勅令を出し、グアダルペ修道院が方々の町を巡って喜捨を集めることを禁じ、あるいは大きく制限しました。このせいでグアダルペ修道院は巡礼者のために費やす費用の原資を失いました。またハプスブルク家出身のフェリペ二世は、1563年から
1584年まで二十年以上の歳月をかけてエル・エスコリアルにサン・ロレンソ修道院(El Monasterio de San Lorenzo de
El Escorial)を建設しました。ハプスブルク家の当時の関心はグアダルペを離れ、既にエル・エスコリアルに向いていたのです。このような事情を背景に、十六世紀後半から十七世紀初頭にかけて、グアダルペ修道院は経済的に弱体化しました。
本品はいまからおよそ五百年前、聖地グアダルペ巡礼が盛んであった十六世紀前半に制作されたメダイです。
ロマネスク様式の聖母は左腕に幼子イエスを抱き、右手に天の元后の笏を持って、母子ともに正面を向いています。母子は豪華な刺繍のあるマントを羽織っており、聖母は頭上に大きな冠を戴いていることがわかります。聖母の下はブークラニオン(βουκράνιον)のような物が見えますが、これは下弦の月です。弦月の上に立つ聖母は、無原罪の御宿りの伝統的図像表現です。メダイの最下部ではケルブ(智天使)が弦月を支えています。ラテン語の銘が聖母子を取り囲んでいます。
S(ANCTA) M(ARIA) D(E) G(UADALUPE) サンクタ・マリア・デー・グアダルペ
ラテン語の「サンクタ・マリア・デー・グアダルペ」(SANCTA MARIA DE GUADALUPE)は、スペイン語の「サンタ・マリア・デ・グアダルペ」(Santa
María de Guadalupe)と同じく、「グアダルペの聖なるマリア」という意味です。
ベルト代わりに修道者の腰を縛る縄が、銘の外側を取り巻いています。縄をモティーフにした同様の装飾は、国立博物館に収蔵されている無原罪の御宿りのメダイ(21
x 15 mm)、及び無原罪の御宿りの大型メダイ(105 x 75 mm)にも見られます。国立博物館の二点はいずれも本品と同時期に制作されたもので、もと長崎奉行所宗門蔵の保管品です。
十六世紀前半は反宗教改革の時代であり、わが国で言えば戦国時代、すなわち聖フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝来した時代に当たります。戦国時代とこれに続く安土桃山時代には、大勢のパードレ(西
padre 神父、宣教師)がスペインから来日し、メダイやロザリオがもたらされました。それらの品物はキリシタン武将の城から出土したり、長崎奉行所の宗門蔵から見つかったりして、現在は多くが上野の国立博物館に収蔵されています。本品は日本への伝来品ではなく、スペイン国内にあったメダイですが、国立博物館の収蔵品と同時代の品物です。
もう一方の面には、古代キリスト教において最も偉大な教父のひとりである聖ヒエロニムス(Eusebius Sophronius Hieronymus Stridonensis, Εὐσέβιος Σωφρόνιος
Ἱερώνυμος, 347 - 419)が大きく浮き彫りにされています。本品におけるヒエロニムスは、荒れ地で苦行する半裸の隠修士として表されています。
聖ヒエロニムスはローマ帝国の東半分で活動した人で、ヒスパニア(イスパニア、スペイン)を訪れたことはありません。それにもかかわらず本品の浮き彫りに取り上げられているのは、十六世紀のグアダルペ修道院が聖ヘロニモ会(La Orden de San Jerónimo, ORDO SANCTI HIERONYMI O.S.H.)の修道院であったからです。「聖ヘロニモ」(サン・ヘロニモ San Jerónimo)とは、聖ヒエロニムスのことです。
ヒエロニムスは気性が激しく狷介(けんかい)な人でした。妥協を知らない厳しさは自身にも向けられ、現世を軽んじ、ひたすら神にのみ目を向けて、激しい苦行を伴う禁欲生活のうちに一生を送りました。本品に彫られたヒエロニムスは、岩上の十字架に向かって跪いています。突出部分が磨滅して細部がわかりませんが、わが身を殴打するための石、あるいはわが身を打つための棒か鞭を持っているように見えます。
本品はルネサンスと宗教改革の後、カトリックの反宗教改革が最も盛んであった十六世紀の遺品です。このような時代に作られたゆえに、本品は次のような特性を有します。
1. カトリックの反宗教改革は、プロテスタントの宗教改革とは全く逆に、図像や彫刻などの宗教芸術を重視しました。本品は日本にキリスト教をもたらしたのと同じ反宗教改革の精神が生み出した品物であり、近世初期のメダイユ彫刻の実例として美術的価値を有します。
2. 聖地への巡礼という中世的な信仰形態は、プロテスタンティズムの出現によって否応なく方向転換を迫られました。巡礼がすなわち信仰を意味していた時代が終焉を迎え、信仰が内面化しようとする中で、本品は中世の心性が生んだ最後の信心具といえます。
3. クリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)はインド航路を開く航海への資金援助を得るために、グアダルペ修道院を訪れてカトリック両王に拝謁しました。グアダルペの聖母信仰はコロンが航路を開いた新大陸に飛び火し、スペイン本国を凌ぐ勢いを得て現在に至っています。エストレマドゥラの山中に残るグアダルペ修道院とその聖母は、「グアダルペの聖母」がメキシコに出現する以前の栄光の名残を、昔のメダイにのみ留めています。
本品の表面に見られる磨滅は、聖母にすがる信仰の証しです。不可視の信仰心が金属に与えた優しい丸みと、五百年の歳月を経て獲得された深い古色は、真に古い文化財特有の美しさを本品に与えています。