一方の面に聖心を示すイエス・キリスト、もう一方の面に幼子イエスを腕に抱く聖心の聖母を、それぞれ打刻したブロンズ製メダイ。十九世紀末から二十世紀初頭頃のフランスで制作されたものと思われます。
本品の一方の面にはイエス・キリストの姿が浅浮き彫りで表されています。イエスは愛に燃える聖心を左手で示しつつ、掌を前に向けて右手を斜め下に降ろし、罪びとを招いています。イエスの周囲にはドイツ語で次の言葉が記されています。
Heiligstes Herz Jesu, erbarme dich unser. イエスの聖心よ、我らを憐れみたまえ。
この面に刻まれたキリストは、無原罪の御宿リによくみられる図像表現に類似して、球体の上に立っています。球体は被造的世界の象徴です。それゆえ球体上にキリストが立ち、その胸で聖心が愛の炎を噴き上げる本品の図柄には、「神とキリストの愛が世界を支配しますように」との祈りが籠められています。
もう一方の面には、幼子イエスを抱く聖母の姿が浅浮き彫りで表されています。イエスとともに戴冠した聖母は、蛇を踏みつけて立つ無原罪の御宿りとして表されています。聖母はキリスト教図像学の伝統的様式に従って幼子を左腕に抱き、慈愛あふれる仕草で幼子に顔を寄せています。幼子は左手で胸の聖心を示しつつ、右手で祝福を与えています。
聖母子は互いに見つめ合わずにむしろ視線を前に向けて、聖母子を見る者に語りかけ、睦み合う愛のなかへと招いています。これは救いに至る道、すなわちイエスを胸の前に抱きあげて世の人々に示す聖母の姿であり、このような聖母像を「ホデーゲートリア」(希
ὁδηγήτρια)と呼びます。「ホデーゲートリア」とはギリシア語「ホデーゲーテール」(希 ὁδηγητήτρ = ὁδηγός 道案内人)の女性形で、「道を示す女」という意味です。
聖母子の足下の雲は、ふたりが天上なる栄光の座にいることを表します。ノートル=ダム・デュ・サクレ=クール(聖心の聖母)に執り成しを求めるドイツ語の祈りが、聖母子を取り巻いています。
Unsere Liebe Frau von Heiligsten Herzen Jesu, bitte für uns. いとも聖なるイエスの御心の聖母よ、我らのために祈りたまえ。
ノートル=ダム・デュ・サクレ=クール(仏 Notre-Dame du Sacré-Cœur 聖心の聖母)への信心は、聖心の布教を志したジュール・シュヴァリエ神父(Jules
Chevalier, 1824 - 1907)が、宣教師会を設立するにあたって無原罪の御宿り(聖母)の助けを得たことに始まります。シュヴァリエ神父は聖母への祈りの結果得られた資金でフランス中心部のイスダン(Issoudun サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏アンドル県)に土地を買い、この地に建てた聖堂が聖心布教会(La
Société des Missionnaires du Sacré-Cœur, Missionarii Sacratissimi Cordis,
MSC)の本部となりました。
聖心の聖母像とジュール・シュヴァリエ師
フランス第三共和政期の 1879年、ジュール・グレヴィ(Jules Grévy, 1807 - 1891)が第四代大統領、ジュール・フェリー(Jules
Ferry, 1832 - 1893)が教育相に就任しましたが、翌 1880年、フランスは共和国政府の許可を受けていない宗教団体を強制的に解散させる等の法律、いわゆるジュール・フェリー法を施行しました。このため聖心布教会はフランス国外のヨーロッパ各地に拠点を移さざるを得ませんでしたが、同会はこのせいで却って成長し、全世界へ活動の場を広げました。
本品はおそらく 1880年から二十世紀初頭、遅くとも 1910年頃までに制作されたメダイです。メダイに書かれている言葉は両面ともドイツ語ですが、打刻用の母型に施された細密彫刻はフランスのものと思われます。聖母子の面のドイツ語に、綴りの誤りがあります。"Herzin"
は "Herzen" の間違いです。
本品は百年以上前に制作された真正のアンティーク品です。古い品物であるにもかかわらず、浅浮き彫りの細部はいずれの面においても鮮明で、保存状態は良好です。美しいパティナ(古色)が、メダイの両面を均一に被っています。
「聖心の聖母」のメダイはフランスではそれほど珍しくありませんが、ドイツ語による作例は筆者自身初めて目にしました。本品は稀少な信心具であることに加えて、フランス第三共和政政府の反宗教政策と、反宗教政策が却って促した聖心布教会の発展を証言する貴重な実物資料でもあります。