神に由来し、神が与え給うサピエンティア(SAPIENTIA ラテン語で「智慧」)をテーマに制作されたメダイ。現代フランスのグラヴール(仏 graveur メダイユ彫刻家)であるポール・ペナン
(Paul Penin, 1921 - ) の作品です。
一方の面には茨の冠を被ったキリストと、その上に降臨する聖霊が彫られています。イエスの背後には十字架があるので、浮き彫りにされているのは十字架上のイエスであることがわかります。左下にグラヴールのサイン
(P. PENIN) が刻まれています。浮き彫りの周囲には、次の言葉がラテン語で刻まれています。
SAPIENTIA SACRI CAPITIS, REGE NOS. 聖なる御頭(おんかしら)の智慧よ。我らを統(す)べ給え。
イエスに苦しみはうかがえず、その表情は王の威厳に満ちています。茨の冠を被るイエスの姿は眩(まばゆ)く輝き、その光輝は金と宝石でできた地上の諸王の冠を凌ぎます。鳩の形の聖霊がイエスの上に降(くだ)る図柄は、ヨルダン川でイエスに洗礼を授けたヨハネの証言に基づきます。
キリスト教は非常に特異な宗教です。イエスが十字架に架かっておられる御姿を、我々は普段からさまざまな図像で見慣れていて、それが普通のことであるように錯覚しています。しかしながら旧約時代から待望された救世主が王の位に就くのではなく、重罪を犯した非ローマ市民にのみ適用される方法で処刑されたのです。これを現代に当てはめれば、拘置所で絞首索からぶら下がっている刑死人を、救世主として崇(あが)めるようなものです。このように考えれば、キリスト教信仰はまったくの気違い沙汰と言われても、返す言葉がありません。
下の写真はローマで見つかった「アレッサメーノの落書き」で、二世紀頃のものと考えられています。この落書きでは向かって左下に描かれたキリスト教徒(アレクサメノスという名前の男性)が、十字架上の驢馬を礼拝しています。「アレクサメノス・セベテ・テオン」(᾿Αλεξάμενος
σέβετε θεόν ギリシア語で「アレクサメノスが神を拝んでいるところ」)と書き殴られています。
Il graffito di Alessameno
しかしながらキリスト者は自らの信仰の特異性に気付いていないのではなくて、キリスト教が尋常の宗教でないことを分かったうえで、イエスを救世主と信じているのです。イエスを救世主と信じる智慧(サピエンティア)について、使徒パウロは次のように語っています。
しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。(「コリントの信徒への手紙 一」 2: 6 - 12 新共同訳) |
(上) アンティーク・フォトグラヴュア ルイ・ソゼ作 「殉教する愛娘を励ますキリスト教徒」 202 x 250 mm 1880年代 当店の商品です。
トマス・アクィナスは「スンマ・コントラ・ゲンティーレース」("SUMMA CONTRA GENTILES" 「対異教徒大全」)第一巻第六章で次のように述べています。
武器の暴力に曝されても、さまざまな快楽の約束を与えられても、また最も驚くべきは迫害者たちの暴虐の中にあっても、教養無き者たちのみならず、最も知恵ある人々までもが数えきれない群れとなってキリスト教信仰へと馳せ参じた。キリスト教信仰においては、人間の知性全体を超越する諸々の事柄が明らかにされ、現世のさまざまな快楽が制御され、地上にあるすべての事物が蔑まれるべきであると説かれる。死すべき者たちの魂がこれらのことに賛同するのは驚くべき諸事のうちの最大事である。可視的諸事物が蔑(さげす)まれ、不可視のものだけが欲せられるのは、神による示し(イーンスピラーチオー)の明らかな御業(みわざ)である。(Thomae Aquinatis "SUMMA CONTRA GENTILES" Liber I, Caput VI 筆者訳) |
洗礼を受ける必要の無いイエスがヨハネから受洗し給うたのは、キリスト者に範を示し、予型となるためでした。聖霊を受け給うた点に関しても、イエスはキリスト者の範であられます。このメダイで「聖なる御頭の智慧」(SAPIENTIA
SACRI CAPITIS) と呼ばれているのは聖霊なる神のことであり、「聖霊なる神が王(羅 REX)として我が魂を統べ治め(羅 REGO)給う」ことを祈り求めるメダイになっています。使徒パウロは「ローマ人への手紙」
5章 5節において、聖霊なる神がキリスト者の心に神の愛を注ぎ給うと書いています。
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(「ローマ人への手紙」 5章 1 - 5節 新共同訳) |
アウグスティヌスは「デー・トリニターテ」("DE TRINITATE" 「三位一体論」)において、聖霊は父と子の間に生まれる愛であると論じています。
もう一方の面には十字架とホスチアを重ねて浮き彫りにしています。ミサの度ごとに受難し給うキリストの御体は、十字架上にあって、あまりにも強い愛ゆえに、眩い光輝を発しています。浮き彫りの周囲には、次の言葉がラテン語で刻まれています。
TEMPLUM DIVINAE SAPIENTIAE, ADORAMUS TE. 神の智慧の宮よ、御身を拝して愛します。
上で「拝して愛します」としたのは、「アドーラームス」(ADORAMUS) の訳です。「アドーラームス」は動詞で、不定形(不定法能動相現在形)で表せば「アドーラーレ」(ADORARE)、辞書の見出しに載っている形(直説法能動相現在一人称単数形)で示せば「アドーロー」(ADORO)
です。この動詞の原意は「語りかける」ということですが、これに宗教的な色彩が加わり、「神に懇願する」「祈り求める」という意味にも使われるようになりました。「祈る」にあたるラテン語にはもうひとつ「ウェネレラーリー」(VENERARI)
がありますが、「アドーロー」はこれよりもずっと強い意味の言葉で、ちょうどギリシア語の「プロスキュネオー」(προσκυνέω 神の前に身を投げ出す、ひれ伏して祈る)に相当します。
その一方で、「アドーロー」には宗教色が薄まった用法もあり、この場合は「非常に強く愛する」という意味になります。
地上の人間に過ぎないキリスト者が、曲がりなりにも「アガペー」の感情を経験できるのは、「ローマ人への手紙」 5章 5節において使徒パウロが言うように、聖霊なる神がキリスト者の心に神の愛を注ぎ給うゆえであり、救い主の愛の反映です。われわれが何よりも神とキリストを愛し、さらにはその愛が隣人へと向かうことができるように、「愛」であり「智慧」である聖霊の賜物を求めて、神に祈りたく思います。
本品は五十年以上前にフランスで制作された真正のヴィンテージ品ですが、保存状態は極めて良好です。突出部分にも磨滅は認められません。ある程度の厚みもあって、手に取ると心地よい重みを感じます。筆者はこれまで数多くのメダイを扱ってきましたが、ポール・ペナンの作品は本品が初めてです。