処女たちの女王マリアの上半身を描き、背景全体に繊細な切り紙細工を施した美しいカニヴェ。
カニヴェの表(おもて)面には、天に目を向け、両手を胸に当てて祈るバロック絵画風のマリア像が、非常に細密なインタリオで描かれています。天からの光を受けて輝くマリアの肌、艶やかに波打つ豊かな髪を、あたかも生身の女性を見るかのような迫真性を以って再現する19世紀フランスのエングレーヴァーの技量に圧倒されます。
拡大写真に写っている定規のひと目盛は1ミリメートルです。1ミリメートルあたりの線の密度は場所によって異なりますが、概ね3ないし6本程度、スティプル(点描)の密度は1ミリメートル四方に15ないし25個を数えることができます。
マリアの目元は、虹彩や瞳、まつ毛まで、極小のスティプルにより巧みに表されています。右目、左目の幅は、それぞれ約 2ミリメートル、2.5ミリメートルです。マリアは祈りを唱えているのか、形の良い上唇とふっくらと丸みを帯びた下唇の間から、綺麗な歯が覗いています。口の幅は約
2ミリメートルです。
手の陰になっている衣の部分は、クロスハッチ(線が交差してできる菱形)内部にひとつひとつ点を刻んでゆくことにより、明度を落としています。定規の目盛と比較すると、いかに細かい作業が為されているかがよくわかります。
髪の拡大。この部分は細密なオー・フォルト(エッチング)によります。髪の毛は鉄筆を束ねて描くのではなく、一本ずつ丁寧に描かれており、ボリュームを出したい部分は太く、毛先は細く、線の幅を調整しつつ刻まれていることがわかります。
カニヴェを飾る切り紙細工は直線と曲線を組み合わせた古典的な植物模様で、立体的なエンボス(型押し)が施されています。これだけ繊細かつ複雑なパターンにもかかわらず、一箇所の破損も無い完品です。
裏面には聖母への祈りがフランス語で記されています。内容は次の通りです。日本語訳は筆者(広川)によります。
Reine de vierges, aimable Marie, obtenez-moi d'être pur d'esprit, de cœur et de corps, afin que je mérite un jour de contempler la gloire céleste que vous a mérité votre admirable pureté. Ainsi soit-il. | おとめらの女王、慕わしきマリアよ。魂と心と体において、私が純潔でいられるように、そして御身が誉むべき純潔ゆえに天の栄光を観るに値したまえる如くに、いつの日か私も天の栄光を観られるように為したまえ。アーメン。 |
「ピュルテ」(pureté 純潔)というフランス語は、19世紀において、通常は女性の性的貞操を指すのに使われましたが、上記の祈りで純潔を表す形容詞「ピュール」(pur)
は男性形が用いられていますので、このカニヴェの祈りは男女を問わず、若者全般のために書かれたものであることがわかります。
祈りの下には、版元ブレヴァル (Breval, éditeur) の名前、所在地(rue Saint-Severin, 16, Paris パリ、サン=スヴラン通
16番地)、図版番号 (221) が刻まれています。これらを取り巻いて、鉛筆による次の書き込みがあります。
Souvenir donné par Madame Pierre Anée, le 8, janvier, 1874 ピエール・アネ氏の奥様からいただいたもの 1874年1月8日
普仏戦争とコミューンの混乱を経たフランスでは、多くの人々が宗教に回帰し、身を律して清らかな生活を送ることで、「悔悛のガリア」なるフランスを神に捧げようとしました。本品、1874年のカニヴェに記された簡潔な祈りは、当時の時代精神の結晶ともいうべきものです。
本品は140年近く前にフランスで制作された古いものですが、類品中とりわけ繊細な切り紙細工にも瑕疵は見当たらず、稀少な完品です。優れた出来栄えのアンティーク版画による、19世紀カニヴェの名品です。
下の写真は別料金による額装の例です。この額は日本の職人が手作りした特注品で、ベルベット張りマット、工賃、税を含めた価格は 16,800円です。
この額縁はシェーヌ(ブナ、ナラ、カシ)をモティーフにし、愛らしいどんぐりと美しい形の葉に飾られています。堅材であるシェーヌは「力強さ」「堅固さ」を象徴します。また聖書において、シェーヌは天地を繋ぐ樹木であり、神との平和を象徴します。本品はマリアに倣って堅持すべき純潔をテーマとするゆえに、また受胎告知を受け容れたマリアは神との平和の要(かなめ)であるゆえに、シェーヌをモティーフとする額はカニヴェのテーマとよく調和しています。