(下) 店主(男性)の手に載せたところ。女性の手に載せると、もう少し大きなサイズに見えます。





アルマ・クリスティと「ペトロの鶏」 重厚なブロンズ製クルシフィクス 46.9 x 24.5 mm


突出部分を含むサイズ 縦 46.9 x 横 24.5 mm

フランス  19世紀中頃



 19世紀中頃のフランスで制作されたブロンズのクルシフィクス。真正のアンティーク品ならではの美しいパティナ(古色)が、クルシフィクス全体を被っています。





 クロスはシンプルなシルエットによる幅広のラテン十字で、コルプス(キリスト)、及びキリストの足下にある髑髏(どくろ)と一体になっています。

 「ティトゥルス」(TITULUS) とはラテン語で「罪状書き」のことで、"INRI" と記されたクルシフィクス上部の札を指して、このように呼んでいます。四福音書によると、磔刑のキリストの頭上には、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と記された札が掲げられました。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」は、ラテン語で「イエースス・ナザレーヌス(または、ナザラエウス)、レークス・ユーダエオールム」(IESUS NAZARENUS/NAZARAEUS REX IUDAEORUM) ですが、クルシフィクスの小さな札に多くの文字を書くことはできないので、"INRI" と略記されます。ちなみに「ヨハネによる福音書」十九章十九節によると、実際の罪状書きはヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていました。


(下) Francisco de Zurbarán, "Christ on the Cross", 291 x 165 cm, 1627, oil on canvas, Art Institute, Chicago スルバランのこの作品において、ティトゥルスはギリシア語とラテン語で書かれています。




 福音書によると(マタイ 22:33、マルコ 15:22、ヨハネ 19:17)、キリストが十字架に架かり給うたのは「ゴルゴタ」という場所で、「ゴルゴタ」とはへブル語で「されこうべ」(髑髏)のことです。この変わった地名は、刑場であることに由来するとも、頭蓋に似た地形に由来するとも言われています。

 クルシフィクスにおいてキリストの足下にある髑髏は、死の象徴です。とりわけ人祖アダムの髑髏は、原罪によって人類にもたらされた罪と死を象徴します。本品をはじめ、古い時代のクルシフィクスにはキリストの足下に髑髏が置かれる場合が多くありますが、これは受難の三日後に復活するキリストが、「死」に打ち勝ち給うたことを表しています。




(上) Piero della Francesca, "Adorazione della Croce" (dettaglio), 1452 - 66, affresco, la cappella maggiore della basilica di San Francesco, Arezzo


 伝承によると、人祖アダムの骨は「ゴルゴタ」に埋められているとされます。ピエロ・デッラ・フランチェスカはアダムと生命の木、及びキリストの十字架に関する伝承に基づいて、フレスコ画の連作「聖十字架の物語」("Le Storie della Vera Croce", 1452 - 66) を制作しています。この連作はイタリア中部、アレッツォ(Arezzo トスカナ州アレッツォ県)のサン・フランチェスコ聖堂にあります。

 上の画像は連作のうち「十字架の礼拝」の部分で、シバの女王がソロモンの宮殿に向かう途中で「聖なる梁(はり)」(生命の木から製材した梁)を見つけ、跪いて礼拝しています。この梁はユダヤ人が橋として使っていたもので、後にキリストの十字架の材料となります。





 クロスの裏面には「アルマ・クリスティ」(ARMA CHRISTI ラテン語で「キリストの道具類」の意) 、すなわち受難に関連した事物が浮き彫りにされています。本品の「アルマ・クリスティ」は下表の十四種類です。表中の数字は上の写真の番号に対応します。

    1 .  茨の冠
    2    罪の女が注ぎかけたナルドの香油の容器、あるいは埋葬用の香油の容器、あるいは酸い葡萄酒の容器
    3    イエスが飲んだ「受難の杯」、あるいは聖杯
    4    ペトロの鶏
    5, 6    金槌と釘抜き 
    7    罪の女が注ぎかけたナルドの香油の容器、あるいは埋葬用の香油の容器、あるいは酸い葡萄酒の容器
    8    顕示台に入った聖体
    9    鞭
    10     降架の際に用いられた梯子
    11     酢に浸した海綿を先に付けた棒
    12     イエスの脇腹を突いた槍
    13     捕縛の際のランプ
    14     三本の釘(手用に二本、足用に一本)





(上) Jacques-Joseph Tissot, dit James Tissot, "Mary Magdalene's Box of Very Precious Ointment", 1880s/90s, Brooklyn Museum of Art, New York


 2.7..の水差し状容器は、食事をしているイエスに女が注ぎかけたナルドの香油、あるいは埋葬用の香油を表します。マタイ 26: 6 - 13、マルコ 14 : 3 - 9、ヨハネ 12: 1 - 8によると、女がナルドの香油をイエスに注ぎかけたのはベタニアでの出来事で、女の名は「マリア」でした。いっぽうルカ 7: 36 - 50は地名を挙げずにこの出来事を記述し、女については名指しせずに「一人の罪深い女」としています。「ベタニアのマリア」と「一人の罪深い女」は伝統的に同一視され、さらにマグダラのマリアと同一人物であるとされました。

 埋葬用の香油については、上述の出来事の際、イエス自身が「この女はわたしの埋葬の準備として香油を注いだのである」と言っておられますし(マタイ 26: 12、マルコ 14: 8、ヨハネ 12: 7)、十字架で息絶えたイエスの遺体に塗るために、実際に香油が用意されました(マルコ 16: 1、ルカ 23: 56)。


 2.7..のいずれかを、苦い没薬を混ぜた酸い葡萄酒の容器と考えることもできます(マタイ 27: 34、マルコ 15: 23、ルカ 23: 36)。ピラトの兵士はイエスを十字架に付ける前にこれを飲ませようとしましたが、イエスは舐めただけで飲もうとはされませんでした。没薬を混ぜた葡萄酒は、十字架に付けられる死刑囚が痛みのあまり気絶して、苦痛を十分に味わえなくなるのを防ぐための気付け薬です。葡萄酒が酸いのは、酢に変わりかけた安物だからです。




(上) Jan van Eyck, "Autel de Gand" (details) 「ゲントの祭壇画」 下段センター・パネル、小羊を描いた部分の拡大画像 聖杯がアグヌス・デイの血を受けています。


 3.の杯について。イエスは捕縛される直前、ゲツセマネの園で父なる神に向かって、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈り給いました(マタイ 26: 39、マルコ 14: 36、ルカ 22: 42)。イエスの祈りに出てくる「この杯」とは、十字架における受難の象徴で、3.の杯はこれを表していると考えることができます。

 3.の杯は「聖杯」を表すと考えることも可能です。「聖杯」には三つの意味があり、「最後の晩餐で使われた杯」、「キリストから流れる血を受けたと伝えられる杯」、「ミサの際に司祭が葡萄酒を入れて、キリストの血に実体変化させる杯」のいずれかを指しますが、このうちのどの意味においても、聖杯はキリストの受難に関係します。




(上) Caravaggio, "Il rinnegamento di San Pietro", 1610, Olio su tela, 94 x 125.4 cm, the Metropolitan Museum of Art, New York


 「アルマ・クリスティ」はいずれも見る者の心を痛めますが、とりわけ胸に迫るのは、4.の「ペトロの鶏」ではないでしょうか。「ペトロの鶏」は人間の弱さを表します。

 イエスは十字架にかけられる前夜、弟子たちと共に過ぎ越しの食事をなさいました。その際弟子たちの離反を予告したイエスに、リーダー格の使徒ペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言いますが、イエスは「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と答え給います。これに対し、ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い切ります。(マタイ 26: 31 - 35)

 その夜、イエスは捕縛され、大祭司の屋敷に連行されて裁判にかけられます。いったん逃げ出したペトロは、こっそりと戻って大祭司邸の中庭に入り、様子をうかがっていましたが、人々に「お前もイエスの仲間であろう」と言われ、むきになって否定します。ペトロが三度めに否定したとき、鶏が啼きました。

 この逸話はすべての福音書に記録されています。「マタイによる福音書」二十六章六十九節から七十五節を新共同訳により引用します。

 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

 「ペトロの鶏」は人間が天使的なものと悪魔的なものの中間的存在であること、人間の弱さは、それ自体が罪でないにしても、神に向かう信仰無くしては容易に罪に至る入り口となることを、象徴的に表しています。





(上) E. カシエによる石膏彫刻 ルーベンス作「十字架降架」 縦 405 x 横 325 x 厚み 65ミリメートル フランス 1850 - 80年代 当店の商品です。


 5.6.は金槌と釘抜きで、それぞれ人間の「罪」と「信仰」を表します。アルマ・クリスティのほとんどは人間の罪を表しますが、釘抜きと、10.の「降架の際に用いられた梯子」は例外で、救い主を受け容れる信仰の象徴です。

 聖書における梯子が第一に思い起こさせるのは、ヤコブがハランに向かう途中で夢に見た天国の梯子です(「創世記」二十八章十節から二十二節)。眠りから覚めたヤコブは夢を思い返し、「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」(「創世記」 28: 17 新共同訳)と言いました。イエスを十字架から取り下ろす信仰は、天の門に他なりません。




(上) Adriaen Isenbrandt (1480/90 - 1551), "La misa de San Gregorio", óleo sobre tabla, 72 x 56 cm, El Museo del Prado


 カトリックの教義によると、ミサはキリストの受難の完全な再現です。したがって 8. 聖体は、受難のキリストそのものです。


 "Livre d' heures du Maréchal de Boucicaut", vers 1470 - 1480, filio 242


 イエスを捕縛する際、実際には松明(たいまつ)が照明に使われたと思われます。しかしながら小さなクルシフィクスに松明を浮き彫りにしても、単なる棒のように見えて、槍や海綿の棒との区別が難しくなります。それゆえに、時代錯誤を承知の上で分かりやすさを優先して、松明の代わりに 13.の近世風ランプが彫られています。棒の先にランプを取り付けた奇妙な形も、このランプが松明の代わりであることを示しています。

 「アルマ・クリスティ」に近世風ランプが描かれた類例は、上に示した15世紀後半の写本挿絵に見出すことができます。この写本挿絵はパリのジャクマール=アンドレ美術館 (Musée Jacquemart-André, Paris) に収蔵されている「マレシャル・ド・ブシコーの時祷書」("Livre d' heures du Maréchal de Boucicaut") のフォリオ 242で、アングラン・カルトン (Enguerrand Quarton) とピエール・ヴィラト (Pierre Villate)、あるいはその弟子が 1470年代頃に制作したと考えられています。

 残りのアルマ・クリスティについては福音書に言及されている通りで、特に説明の必要はないでしょう。





 本品上部の環は、十字架の平面に対して直角を為しますが、これは19世紀半ば以前に制作されたメダイやクルシフィクスの特徴です。孔の直径は 2.5ミリメートルほどで、一般的なチェーンを通すには、端の金具をいったん外す必要があります。チェーンの代わりに革紐などを使うのも良い方法です。

 数あるフランス製アンティーク・クルシフィクスのなかでも、本品は古い年代に属します。厚みのあるしっかりとした作りで、元々の作りの重厚さと、真に古い物ならではのパティナ(古色)が、美しく調和しています。

 本品はフランスにあったものですが、わが国でもこれに似たクルシフィクスが見つかって、東京国立博物館に収蔵されています。東京国立博物館にある類品は、1865年3月17日、大浦天主堂のフランス人司祭プチジャン師に、「さんた・まりあの御像はどこ?」と尋ねて世界を驚愕させた浦上のキリシタンたちが、四番崩れの際に没収されたものと思われます。





15,800円 販売終了 SOLD

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