多角形ケースの懐中時計と腕時計
watches in polygonal cases




(上) 1930年代後半に流行した「四角い時計」。左から順に、「ロード・エルジン 《グレード 531》」(1937年)、「ブローバ 《アメリカン・クリッパー》」(1936年)、「ブローバ 《ライタングル》」(1938年)、「ウエストフィールド 《ハドソン》」(1940年)


 「ウォッチ」(英 watch 携帯用時計 註1)という語を聞くと、現代人は腕時計を思い浮かべます。しかしながら携帯用時計すなわち懐中時計は、オランダの物理学者ホイヘンス(Christiaan Huygens, 1629 - 1695) が 1675年に作った天符式懐中時計が最初です。

 懐中時計を容易に持ち運ぶうえで、なるべく小さなサイズが望ましいことは言を俟ちません。しかるにアナログ式時計は、短針と長針を文字盤上で回転させる必要があります。したがって懐中時計のサイズが最小になるのは、半径が長針の長さよりも少し大きな円形にデザインされた場合です。懐中時計が円形であれば、サイズが最小になるだけでなく、ケースの角が摩滅することもありませんし、ポケットの生地を傷めることもありません。

 このような理由で、 ホイヘンス以降二百年以上に亙り、懐中時計は円い形に製作されました。初期の懐中時計はムーヴメント(機械)に厚みがあったので、時計は非常に分厚かったのですが、時代が進むにつれてムーヴメントは薄くなり、十九世紀末の時点では腕時計と変わらない薄さになっていました。しかし正面から見た懐中時計のシルエットは、相変わらず円形でした。二十世紀初頭頃までの人々にとって、時計は円いのが当たり前でした。円形でない形のケースにムーヴメントを入れようという発想は、誰にもなかったと思われます。時計の造形が全く自由になるのは、LEDや液晶によるデジタル式腕時計が作られた1972年以降のことです。




(上) ウォルサム 《1894 コロニアル・ロイヤル》 1918年製 当店の販売済み商品


 しかしながら 1910年代に入ると、多角形のケースを持つ時計が、突然作られ始めます。1910年代から 1930年代は、建築と装飾の美術様式として全世界で大きな影響力を揮った《アール・デコ》の時代です。「アール・デコ」(仏 l'Art déco)という様式名は、もともとフランス語の「アール・デコラティフ」(仏  les Arts décoratifs 装飾美術)を略した言葉ですが、1910年代から 1930年代に流行し、直前の「アール・ヌーヴォー」とは対照的に、幾何学的パターンを偏愛した装飾様式を、美術史ではこのように呼んでいます。アール・デコのデザインでは、円や楕円に並んで、多角形もよく用いられました。この様式が時計ケースの形にも強く影響して、史上初めて、多角形の懐中時計と腕時計が作られるようになったのです。

 上の写真はウォルサム社が 1918年に製作した男性用懐中時計「1894 コロニアル・ロイヤル」で、八角形のケースを有します。時計のムーヴメントは円形が基本で、特に懐中時計のムーヴメントはすべて円形です。円形のムーヴメントを多角形のケースに入れるとケース内に無駄な空間が生じますが、八角形は三角形、四角形等に比べると円形に近いので、円形ケースに次いで、ケース内の空間を有効に利用できます。男性は1920年代まで懐中時計を使いましたが、男性用時計は精度が重視されたので、安定して動作しやすい大型の機械が好まれました。このような理由で、多角形にデザインされたアール・デコ期の男性用懐中時計には、八角形の作例が最も多く見られます。




(上) グリュエン 《カルトゥーシュ》 1922年 当店の商品


 いっぽう女性用時計には、ケース内の空間を必ずしも最大限に利用せず、より大胆にデザインした作例が多く見られました。女性は男性よりも先に腕時計を使い始めたので、早くも 1920年頃には、楕円形、トノー型、四角形等の女性用ムーヴメントが開発されていました。上の写真はグリュエン社が1922年に製作した女性用ウォッチ「カルトゥーシュ」で、楕円形ムーヴメントを搭載しています。

 しかるに同時代の男性用懐中時計のムーヴメントは例外無く円形で、稀に作られた多角形の懐中時計も円形の機械を搭載していました。グリュエンは 1925年に男性用腕時計《クアドロン》を作っていますが、男性が手首に時計をはめるというアイディアは、当時としてはあまりにも先進的過ぎ、ほとんどの男性には支持されませんでした。1925年の時点で腕時計を使う男性は少数派であり、この状況は 1930年代前半まで続きました。

 したがって1930年代頃までの携帯用時計は、ムーヴメントの形においても、ケースの形においても、女性用が男性用をリードする形で進歩したといえます。





 1930年代後半になるとこの状況は大きく変わり、ほとんどの男性が腕時計を使い始めます。この時代、男女ともに圧倒的に人気があったのは、四角い時計でした。上の写真は 1930年代後半のエルジン社の広告ですが、これを見ると円い時計が流行ではなかったことがわかります。


 この時代に四角い時計が流行したのは、女性用時計のデザインを通して、アール・デコ様式の影響が長く続いていたせいです。

 十九世紀末からニ十世紀初頭に流行したアール・ヌーヴォ様式は、植物の蔓や女性の体など、柔らかな曲線のみを用いました。しかしながらこれに続くアール・デコの時代、装飾美術の様式は一転し、幾何学的パターンのみが用いられるようになりました。

 アール・デコ期によく用いられた幾何学的パターンには円と楕円も含まれますが、アール・ヌーヴォーとの対比が最も著しく顕れるのは、直線や多角形の意匠です。1910年代に登場した女性用腕時計には、多角形のデザインが用いられました。二十世紀初頭以前の懐中時計時代には、多角形は考えられなかった意匠であり、新時代の流行を強く印象付けました。男性が円い懐中時計を使い続けている間に、女性たちの間では四角い腕時計が当たり前になっていました。

 1930年代後半の時点で、美術史上のアール・デコ期は既に終わっていました。しかしながら新たに腕時計を使い始めた男性たちは、懐中時計には無い新しさを腕時計に求めましたし、ひと足先に腕時計を使い始めていた女性たちのおかげで、四角を基調とする腕時計の基本デザインが既に出来上がっていました。女性用の時計デザインに保存されたアール・デコ様式は、時計が日々使われる品物であったために、いわば生きたまま保存され、男性用腕時計を造形する力を失いませんでした。「腕時計は四角いのが当たり前」という感覚は、男性が四角い腕時計を好んで使い始めたことによって、いっそう強化されました。

 美術史上のアール・デコ期が終わっても、時計の世界では直線を多用したアール・デコ様式のデザインが持続的に採用され続けたのには、以上のような事情があったと考えられます。二百年以上同じであった時計の形が、円形から四角形へと劇的に変化したのは、新しい流行に敏感に反応した女性のおしゃれ心のおかげだったのです。




(上) グリュエン・カーヴェクス 《デューク》 キャリバー 330 カスタム・カーヴド 十七石プレシジョン・ムーヴメント スタイル・ナンバー 293 1937年 当店の商品


 腕時計を使い始めた男性は、「四角い時計」を挙(こぞ)って求めました。これを受けて時計各社は「四角い男性用時計」に最適化したムーヴメントの開発を急ぎます。上の写真はグリュエン社が 1937年に発売した「カーヴェクス」です。この時計が搭載する「グリュエン キャリバー 330」は、この時代に開発された男性用ムーヴメントのなかでも、最も有名な機械の一つです。




(上) 第二次世界大戦期の軍用時計。1945年製。当店の商品


 四角い腕時計の流行は、第二次世界大戦期を挟んで、1950年代の終わり頃まで続きます。例外的に円い形であったのは、軍用腕時計です。軍用時計に装飾的要素は不要ですし、ケース内の空間を最大限に活用して時計の信頼性を高める必要があります。それゆえ軍用腕時計はすべて円形ケースを採用していました。

 上の写真は第二次世界大戦期のナース・ウォッチを、腕時計に改造したもので、軍用腕時計 "A-11" と同じムーヴメント、「エルジン グレード 539」を搭載しています。この時計のサイズは五百円硬貨と同じぐらいです。




(上) 男性用懐中時計 《エルジン グレード 345》 十二サイズ ケースの直径 45ミリメ-トル 1923年


 服飾、ジュエリー、化粧法、髪型など、あらゆるものの流行は繰り返します。時計についても同様で、サイズや意匠の流行は、数十年ないし百年ほどの周期で繰り返しています。

 時計のサイズに関して言えば、およそ百年前の男性用懐中時計は、十八サイズを中心に、非常に大きなサイズのものが流行していました。しかしながら 1920年頃には、十二サイズをはじめ、小さめで薄い懐中時計が好まれるようになります。上の写真は 1923年に製作された十二サイズの男性用懐中時計で、これよりも十数年前に人気があった時計と比べると、直径が一センチメートルほど小さくなっています。

 小さな時計を好む傾向は腕時計の時代になっても続き、ヴィンテージの男性用腕時計は現代の女性用と同じぐらいのサイズです。ヴィンテージの女性用腕時計は、一円硬貨よりも小さく作られています。これに対して近年は大きな時計が流行していますが、数年前のバーゼル・フェアから時計が小さくなる傾向が表れており、今世紀半ばに向けて時計の小型化が進むと予想されます。


 時計の形に関して言えば、上の写真の懐中時計が作られた 1923年の時点で、女性はすでに四角い腕時計を使い始めていました。同時代の男性が未だに円い懐中時計を使っている一方で、女性が四角い腕時計を使い始めていた事実は、時計デザインの流行を牽引したのが女性であったこと、女性客を意識して時計デザインが変わっていったことを、端的に示しています。

 二十世紀初頭まで、時計は円いものでした。その次にはおよそ五十年にわたって四角い時計の時代が続きますが、1960年代に時計は再び円くなりました。それ以来およそ五十年が経ちます。時計はそろそろ四角くなってくる頃です。



註1 英語で「時計」を表す名詞「ウォッチ」は、動詞「ウォッチ」(英 watch 見守る)と同じ語で、英語の「ウェイク」(英 wake 目覚めている、寝ずの番をする、通夜をする)、ドイツ語の「ヴァッヒェン」(独 wachen 見守る、目覚めている、寝ずの番をする)と同根です。すなわち名詞「ウォッチ」は「不寝番の道具」が原意で、夜警用の懐中時計を指しています。







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