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年号 |
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できごと |
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1855 |
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ルパージュが他の二人とともに、フランス、ベルギー、イギリスにおいて、ボワ・デュルシの製造方法に関する十五年間の特許を申請する。 |
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1857 |
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ルパージュら、先の特許に関して、追加明細書を提出する。ルパージュがパリ、ストックホルム通り四番地に「ラ・ソシエテ・デュ・ボワ・デュルシ」(a
Société du Bois Durci ボワ・デュルシ協会)を、ソトヴィル=レ=ルーアン(Sotteville-les-Rouen ノルマンディー地域圏セーヌ=マリティーム県)に工場を、それぞれ設立する。 |
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1858 |
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一月、アルフレッド・ラトリー(Alfred Latry)が「木をプラスティック素材で代用したブローチ」の特許を申請し、パリ、ヴィオレ通り三十九番地でボワ・デュルシ製品の製造を開始する。 |
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1859 |
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二月、アルフレッド・ラトリーが、ルパージュたちのボワ・デュルシ製品の販売独占権を得る。これ以降、ボワ・デュルシ製品は、ラトリーの会社(A Latry
& Cie. of 7 Rue du Grand-Chantier, Paris)のみが扱うことになる。 |
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1860 |
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ラトリーが特許追加明細書を提出する。 |
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1861 |
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ラトリーがさらに別の特許追加明細書を提出する。この年エリゼ宮で開かれた勧業博覧会(Exposition des arts industriels
au palais de l’Industrie autorisée par Leurs Excellences le Ministre d’État,
et le Ministre des Travaux Publics, de l’Agriculture et du Commerce)にて、ラトリーがメダイユを獲得する。 |
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1862 |
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ラトリー、 さらに別の特許追加明細書を提出する。この年ロンドンで開かれた万国博覧会にて、ラトリーはメダイユ二枚と栄誉賞を獲得。この年、ボワ・デュルシ製品の三分の一が輸出される。 |
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1864 |
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ラトリー、 内国勧業協会(la Société d'Encouragement pour l'Industrie Nationale)から金メダルを受ける。またバイヨンヌ(Bayonne ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏ピレネー=アトランティック県)で開かれたフランス・スペイン国際博覧会(l'Exposition
internationale franco-espagnole)にて、栄誉賞を受ける。 |
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1865 |
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ボルドー博覧会(l'Exposition de Bordeaux)に出品。ポルト博覧会(l'Exposition Internationale
de Porto)にも参加し、栄誉賞を受ける。 |
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1867 |
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ラトリー、この年のパリ万国博覧会(l'Exposition Internationale de Paris)で審査員を務める。 |
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1868 |
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ラトリーの下で働いたのちに退職したデュフール(Dufour)が、ボワ・デュルシ製品工場を設立する。ラトリーはデュフールを提訴して、勝訴する。この年、ラトリーはパリのジュエリー製造業者二社を意匠盗用で提訴するが、自社製品の意匠をあらかじめ登録していなかったために敗訴する。 |
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1870 |
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ボワ・デュルシの特許が切れ、この後数年の間にいくつものメーカーが誕生して、ボワ・デュルシ製ビジュ・ド・ドゥイユ(仏 bijoux de deuil
モーニング・ジュエリー)が製造されるようになる。 |
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1874 |
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ビジュ・ド・ドゥイユのメーカー、アンブローズ・アドリアン・シュヴァリエ(Ambroise Adrien Chevalier)が、パリに「ラ・マニュファクチュール・ド・ボワ・デュルシ」(仏
la Manufacture de Bois Durci ボワ・デュルシ制作社)を創業する。 |
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1876 |
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デュフールが二つめの自社工場をパリに開設する。 |
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1878 |
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ラトリー、パリ万博に出品。ルーヴェル(Louvel)、デュフール社を買収し、パリ万博に参加。 |
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1883 |
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シュヴァリエ、「ラ・マニュファクチュール・ド・ボワ・デュルシ」をセザンヌ(Sézanne グラン・テスト地域圏マルヌ県)に移す。新工場の所在地は、シャロン通り十七番地(17,
rue de Chalons, Sézanne)。 |
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1886 |
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アンブローズ・アドリアン・シュヴァリエ死去。「ラ・マニュファクチュール・ド・ボワ・デュルシ」は未亡人が引き継ぐ。 |
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1887 |
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シュヴァリエ未亡人のラ・マニュファクチュール・ド・ボワ・デュルシが、パリ、プレヴォスト社の営業権(fond de commerce)を獲得する。プレヴォスト社はルーヴェル社を買収した会社である。
この年、シュヴァリエ未亡人がアドルフ・アルヌル(Adolphe Arnoult)と再婚。アドルフ・アルヌルがラ・マニュファクチュール・ド・ボワ・デュルシの経営者となる。 |
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1914 |
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アドルフ・アルヌルの甥ルコルシュ(R. Lecorche)がラ・マニュファクチュール・ド・ボワ・デュルシの経営を引き継ぐ。 |
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1916 |
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R. ルコルシュ、ソンムの戦いで行方不明者となる。 |
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1920 |
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ラ・マニュファクチュール・ド・ボワ・デュルシの工場は、ピエール・エ・アンドレ・ユヌベル合名会社(la société en nom collectif
Pierre et André Hunebelle)に売却される。 |
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1921 |
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ピエール・ユヌベル,、弟アンドレに経営権を譲る。 |
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1926 |
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ラ・マニュファクチュール・ド・ボワ・デュルシから同社のものとなった工場が火災に遭う。火災によって停止したボワ・デュルシの生産が、この後に再開することはなかった。 |
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1928 |
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アンドレ・ユヌベル、焼失したボワ・デュルシ工場を売却し、ガラス業界に経営を転換する。 |