完全数
NUMERI PERFECTI, perfect numbers, nombres parfaits, vollkommene Zahlen




(上) ピュタゴラスと愛娘ダモー(註1) Raffaello Sanzio, "La Scuola di Atene", 1509 - 1511 circa, affresco, 770 x 500 cm circa, Musei Vaticani



 ある自然数について、その数自身を除いた約数の和が元の数と同じになる場合、そのような数を「完全数」といいます。最小の完全数は「六」です。

   6 の約数は、1, 2, 3  1 + 2 + 3 = 6

 完全数が無限の個数存在するのかどうかはわかっていません。完全数でない数に比べると、完全数は非常に稀(まれ)です。スーパーコンピュータを使って、現在までに 48個の完全数が見つかっています。


【古代ギリシアにおける「完全数」の探求】

 完全数の存在に気付いたのは、古代ギリシアの数学者ピュタゴラス (Πυθαγόρας, c. 580 - c. 495 B.C.) です。40までの数について、それぞれの約数の和を計算して下表に示します。なお素数が完全数であり得ないことは定義から明らかなので、素数についての計算は下表から除きました。


  約数 約数の和  約数の和と、元の数との差異 
 4  1, 2  3  -1
 6  1, 2, 3  6  0 ゆえに完全数
 8  1, 2, 4  7  -1
 9  1, 3  4  -5
 10  1, 2, 5  8  -2
 12  1, 2, 3, 4, 6  16  +4
 14  1, 2, 7  10  -4
 15  1, 3, 5  9  -6
 16  1, 2, 4, 8  15  -1
 18  1, 2, 3, 6, 9  21  +3
 20  1, 2, 4, 5, 10  22  +2
 21  1, 3, 7  11  -10
 22  1, 2, 11  14  -8
 24  1, 2, 3, 4, 6, 8, 12  36  +12
 25  1, 5  6  -19
 26  1, 2, 13  16  -10
 27  1, 3, 9  13  -14
 28  1, 2, 4, 7, 14  28  0 ゆえに完全数
 30  1, 2, 3, 5, 6, 10, 15  42  +12
 32  1, 2, 4, 8, 16  31  -1
 33  1, 3, 11  15  -18
 34  1, 2, 17  20  -14
 35  1, 2, 5, 7  15  -20
 36  1, 2, 3, 4, 6, 9, 12, 18  55  -19
 38  1, 2, 19  22  +16
 39  1, 3, 13  17  -22
 40  1, 2, 4, 5, 8, 10, 20  50  +10


 上の表から、「6」と「28」が完全数であることがわかります。上の表の範囲外ですが、第三の完全数は「496」、第四の完全数は「8128」です。完全数には「連続する自然数の和で表すことができる」という美しい性質があります。すなわち

1 + 2 + 3 = 6

1 + 2 + 3 + 4 + 5 + 6 + 7 = 28

1 + 2 + 3 + 4 + 5 + 6 + 7 + ..... + 30 + 31 = 496  検算 (1 + 31) x 31/2 = 496

1 + 2 + 3 + 4 + 5 + 6 + 7 + ..... + 126 + 127 = 8128  検算 (1 + 127) x 127/ 2 = 8128


 さらにピュタゴラスは、「2の冪(ベき)数」、すなわち「4」「8」「16」「32」... が、完全性をわずかに欠いていることにも気付きました。上の表を見てもわかるように、「2の冪(ベき)数」の約数の和は、常に「1」だけ、元の数に届きません。

 ピュタゴラスはこのようにして、「完全数」(あるいは、数の完全性)と「2の冪(ベき)数」の間に何らかの関連性があることに気付いたのでしたが、アレクサンドリアのエウクレイデス (Εὐκλείδης) は、「2の冪(ベき)数」を含む美しい式で「完全数」を表せることを発見しました。すなわち

6 = 21(22 − 1)

28 = 22(23 − 1)

496 = 24(25 − 1)

8128 = 26(27 − 1)


 ピュタゴラスと愛娘ダモーを描いたこのページ冒頭の絵は、ラファエロの名作「アテネの学堂」の一部です。下の絵は同じ作品の別の部分で、コンパスで作図するエウクレイデスを描いています。ラファエロは同時代の建築家ブラマンテ (Donato Bramante, 1444 - 1514) をエウクレイデスのモデルにしています。(註2)






【アウグスティヌスにおけるギリシア思想と聖書の統合 --- 完全数「6」をめぐって】

 「創世記」一章には、神が六日で天地を創造し給うたことが書かれています。全知全能の神は天地創造を一瞬で成し遂げることもできたのに、「創世記」はなぜ、神がその業に六日をかけ給うたと書いているのでしょうか。

 ヒッポのアウグスティヌス (354 - 430) は、神は天地のすべてを同じ日に創り給うたと考えました。アウグスティヌスによると、天地創造の御業が六日に亙ったとする記述は、天地創造を六つの部分に分けて記述しているだけのことです。「創世記」が天地創造を六つの部分に分けて記録しているのは、完全数「六」によって、神が創り給うた世界の完全性を象徴するためである、とアウグスティヌスは考えました。アウグスティヌスによるこの議論は、「デー・キウィターテ・デイー」(「神の国について」) 11巻 30章 ("DE CIVITATE DEI" liber XI, caput XXX) で読むことができます。

 ミーニュの「パトロロギア・ラティナ」に基づき、「神の国」 11巻 30章のラテン語テキストを示し、日本語に全訳いたします。日本語訳は筆者(広川)によります。


     Haec autem propter senarii numeri perfectionem eodem die sexiens repetito sex diebus perfecta narrantur,    しかしながらこれらのことは同じ日に完成されたのであって、その日のことが六度繰り返して語られて、「六日かかって完成された」といわれているのである。このように表されているのは、「6」という数の完全性ゆえである。(註3)
    non quia Deo fuerit necessaria mora temporum, quasi qui non potuerit creare omnia simul, quae deinceps congruis motibus peragerent tempora; sed quia per senarium numerum est operum significata perfectio.    なぜならば、あたかも神がすべてのものを同時に創造できないかのように、時の長さが神にとって必要だったのではないからだ。[すなわち、]時が交互に、連続する働きによってそれら被造物を完成するのではないからだ。そうではなくて、「6」という数字で示されたのは、神の御業の完全性なのだ。
      Numerus quippe senarius primus completur suis partibus, id est sexta sui parte et tertia et dimidia, quae sunt unum et duo et tria, quae in summam ducta sex fiunt.    なぜならば、「6」という数は、「パルテース」(partes pars の複数形 直訳「部分」)の和が元の数になる最初の数だからである。すなわち、「6」の「六分の一」「三分の一」「二分の一」は「1」「2」「3」であるが、これらを合計すると「6」になるのである。
         
     Partes autem in hac consideratione numerorum illae intellegendae sunt, quae quotae sint dici potest; sicut dimidia, tertia, quarta et deinceps ab aliquo numero denominatae.    さまざまな数についてかかる考察を行うにあたり、その数の「パルテース」(部分)とは、「クオータエ」(quotae quota の複数 「いくつかに分けた部分」すなわち「約数」)と呼ばれ得る数のこと、すなわち「二分の一」「三分の一」「四分の一」というように、ある数によって分割した数と理解せねばならない。
     Neque enim exempli gratia quia in novenario numero quattuor pars aliqua eius est, ideo dici potest quota eius sit; unum autem potest, nam nona eius est; et tria potest, nam tertia eius est. Coniunctae vero istae duae partes eius, nona scilicet atque tertia, id est unum et tria, longe sunt a tota summa eius, quod est novem.      すなわち、例を挙げれば、「9」という数において、「4」は「9」の「パルス」(pars 部分)ではなく、「9」の「クオータ」(約数)であるとも言われ得ない。しかるに「1」は「9」の「クオータ」(約数)と言われ得る。なぜなら「9」の九分の一 (nona quota) であるから。また「3」は「9」の「クオータ」(約数)と言われ得る。なぜなら「9」の三分の一 (tertia quota) であるから。しかし「9」のこれらふたつのパルテース、すなわち九分の一である「1」と、三分の一である「3」は、二つを足しても、合計の量である「9」には全く届かない。
     Itemque in denario quaternarius est aliqua pars eius; sed quota sit dici non potest; unum autem potest; nam decima pars eius est. Habet et quintam, quod sunt duo; habet et dimidiam, quod sunt quinque. Sed hae tres partes eius, decima et quinta et dimidia, id est unum et duo et quinque, simul ductae non complent decem; sunt enim octo.    同様に、四つの物は十の物の「パルス」ではあるが、「クオータ」であるとは言われ得ない。しかし「1」は[「10」の]「クオータ」であると言われ得る。なぜなら[「1」は「10」の]十分の一であるから。[「10」は「クオータ」として]五分の一である「2」を有し、さらに二分の一である「5」をも有する。しかしこれら三つのパルテース、すなわち十分の一である「1」、五分の一である「2」、二分の一である「5」は、一緒にされても「10」を満たさない。[1, 2, 5の和は]「8」であるから。
     Duodenarii vero numeri partes in summam ductae transeunt eum; habet enim duodecimam, quod est unum; habet sextam, quae sunt duo; habet quartam, quae sunt tria; habet tertiam, quae sunt quattuor; habet et dimidiam, quae sunt sex; unum autem et duo et tria et quattuor et sex non duodecim, sed amplius, id est sedecim, fiunt.    しかし「12」という数のパルテースは、合計されれば「12」を超える。なぜなら[「12」は]十二分の一である「1」を有し、六分の一である「2」を有し、四分の一である「3」を有し、三分の一である「4」を有し、二分の一である「6」を有するが、1, 2, 3, 4, 6 を足すと「12」ではなく、もっと多く、「16」になるからである。
         
     Hoc breviter commemorandum putavi ad commemorandam senarii numeri perfectionem, qui primus, ut dixi, partibus suis in summam redactis ipse perficitur; in quo perfecit Deus opera sua. Unde ratio numeri contemnenda non est, quae in multis sanctarum Scripturarum locis quam magni aestimanda sit elucet diligenter intuentibus. Nec frustra in laudibus Dei dictum est: Omnia in mensura et numero et pondere disposuisti    このことが手短かに考察されるべきだと考えたのは、「6」という数の完全性を考察するためである。既に述べたように、「6」は、まず、そのパルテースが合計されれば、「6」自身が出来上がる。神はこの「6」において、ご自身の御業を完成し給うたのだ。それゆえ数が内包する意味を見過ごしてはならない。聖書の多くの箇所において、数が内包する意味は重んじられるべきであり、熱心に見る者たちに対して輝き出るのだ。神の賛美において「御身はすべてを測り給い、数え給い、量り給うた」と言われるのは、当を得た言葉なのである。


 この箇所において、アウグスティヌスはギリシア数学の成果である「完全数」について説明し、神が「六日で天地を創った」とされるのは、「6」という数が有する完全性に基づく表現である、と述べています。

 現代人から見れば、数論と旧約聖書の間に関連性は感じられません。それゆえ数論に基づく旧約聖書の解釈には、木に竹を接ぐような違和感を覚えます。しかしながら古代人から見れば、ピュタゴラスやエウクレイデスが読み解いた宇宙のロゴスは、神の内なる理法と同一のものでした。宇宙のロゴスの表れである数論と、神の啓示である聖書は、いずれも神の内なる理法に基づきます。それゆえ数論と「創世記」は同じ論理あるいはロゴスに貫かれています。アウグスティヌスにとって、神の真なる言葉である聖書と、神がお創りになった宇宙のロゴス(理法)は、隔絶なく矛盾なく、シームレスに一体でありました.。それゆえ数論を使った「創世記」の解釈は、可能であるばかりか、当然為すべき研究方法であったのです。

 「神がお創りになった宇宙の理法は、その反映ともいうべき人間の理性によって必ず認識できる」と信じられたからこそ、キリスト教が近代科学の養父になった、とする説は、従来から科学史家によって表明されてきました。科学史家が指摘する思想の源流を、われわれは学識ある古代人アウグスティヌスに見出すことができます。


 「自然理性の光」と「啓示の光」は互いに矛盾せず、前者のみによっては知られ得ないことを後者が補って人間に示す、とする考え方は、中世に受け継がれます。トマス・アクィナスの「スンマ・テオロギアエ」("SUMMA THEOLOGIAE" 「神学大全」)第一部第一問は、神学あるいは宗教的知識そのものの性質に関する考察に充てられていますが、第一問第五項「聖なる教えは他の諸学よりも権威があるか」("Utrum sacra doctrina sit dignior aliis scientiis") において、トマスは啓示と自然科学との関係を分かりやすく論じています。「自然理性の光」と「啓示の光」に関するトマスの思想については、稿を改めます。



註1 この絵はラファエロ・サンツィオによる「アテネの学堂」の一部で、ピュタゴラスと愛娘ダモー (Δαμώ) を描いています。ダモーはピュタゴラスとテアノー (Θεανώ) の間に生まれた娘です。テアノーはピュタゴラス教団の後援者であった富裕な男性ミロンの娘で、ピュタゴラスの弟子となり、後に妻となりました。

註2 エウクレイデスのすぐ後ろ奥に立つ白い衣の人物はゾロアスター(ツァラトゥストラ)です。ゾロアスターは後世の伝承において星占いや天文学と関連付けられたために、この作品では天球儀を持っています。手前に立つ黄色い衣の人物は地理学者プトレマイオス (Κλαύδιος Πτολεμαῖος, c. 83 - c. 168) で、地球儀を手にしています。プトレマイオスは誤ってプトレマイオス王朝と関連付けられたために、この作品では王冠を被った姿で表されています。プトレマイオスと視線を合わせるように、ラファエロの自画像が描かれています。

註3 直訳 しかしながらこれらのことは、「六」という数の完全性ゆえに、同じ日が六度繰り返されて[記述され]、六日かかって完成された、と語られている。

 ※ "eodem die sexiens repetito"  「六度繰り返[して記述]された同じ日によって」 絶対的奪格として訳すならば、「同じ日が六度繰り返されて」



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