κίρκος, CIRCULUS, circle, cercle, der Kreis




(上) Vasily Kandinsky, "Circles in a Circle", 1923, Oil on canvas, 98.7 x 95.6 cm, the Philadelphia Museum of Art, Philadelphia


 平面上の一点から等距離にある点の集合は、円となります。したがって円は点と同様の象徴性を共有します。円は独自の象徴性をも有しますが、哲学と宗教において重要な象徴性を担うという特性において、点と共通しています。

 本稿では、円がその幾何学的性質に基づいて有する象徴性について論じます。


1. シンプリキタース(単純性)の象徴

 円とは平面上の一点から等距離にある点の集合であるゆえに、点の延長であるといえます。しかるに、点の象徴性の解説ページで論じたように、点は神に類比して考えることができます(註1)。したがって円も、点と同様に、神に類比して考えることができます。

 神はあらゆる意味で単純(羅 SIMPLEX)であり、神のうちには如何なる複合(羅 COMPOSITIO)もありません。それゆえ円はシンプリキタース・デイー(羅 SIMPLICITAS DEI 神の単純性)を象徴します(註2)。


2. 均質性の象徴

 多角形は角の数が同じであっても無限個の種類を有します。たとえば三角形には不等辺三角形、二等辺三角形、直角二等辺三角形、正三角形がありますし、このうち正三角形以外の三角形には、角度が異なる無限個の種類があります。他の多角形についても同じことが言えます。しかるに円はすべて相似であり、特筆すべき均質性を有します。


3. 完全性の象徴

 古典古代以来、円は如何なる歪みも破綻も含まない完全な図形と考えられてきました。

 近世以前の科学思想によれば、コスモス(希 κόσμος 秩序ある宇宙)は幾つかの層に分かれた天球が地球を取り囲む構造になっています。月下界の物質は四つの元素でできていて生成消滅しますが、月よりも上にある天体は第五元素アイテール(希 αἰθήρ エーテル)でできていて、生成消滅は起こりません。また円運動はアイテールの自然本姓に属するゆえに、アイテールでできた天体は土や水のように下方に向かって運動する(落下する)こともなく天上界に留まり、地球の周りを永遠に公転し続けます。

 天上の物質アイテールでできた天体は、ハルモニア・ムンディーと呼ばれる天界の音楽を奏でながら、円形の軌道を描いて公転していると考えられました。ハルモニア・ムンディー(羅 HARMONIA MUNDI)は「世界の調和」という意味で、耳に聞こえる音楽ではなく、むしろ造物主あるいは第一動者(希 τὸ πρώτη ἀκίνητον 羅 PRIMUM MOVENS)が万物に与え給うた数学的秩序を指します。このように美しい秩序に従って運動する天上界の物体(天体)は、完全な図形である円形の軌道を描くと考えられました(註3)。


4. 「被造性」あるいは「被造的世界」の象徴

 1. で論じたシンプリキタース・デイーとは逆に、円は被造性、被造的世界の象徴でもあります。

 点の象徴性の解説ページで論じたように、神がどのような方であるかを、地上の人間が知ることはできません。地上に生きる人間の知性が知りうるのは、神がどのような方でないかということだけです。それゆえ神は座標の無い数学的点に譬えることができます。しかるに円は平面上の一点から等距離にある点の集合ですが、神とあらゆる被造物の間には無限の隔たりがあって、その隔たりの無限性に大小は無いゆえに、あらゆる被造物の集合は、神から等距離にある円周に譬えることができます。それゆえ円は神が創り給うた森羅万象、秩序あるコスモスを象徴します。神である中心点を取り巻く同心円は、被造的事物が為す階梯を表します。


5. 神において一点に収束する被造的多様性の象徴

 4. に関連して、円は単純な神から発出する被造的多様性、あるいは神において一点に収束する被造的多様性をも象徴し得ます。すなわち円の中心となる点は分割することができないゆえに、如何なる多様性も有しません。しかしながらこれは必ずしも点が空虚であるということではなく、点においては無限に豊かな多様性が発現しないままに潜在していると考えることができます。

 円の中心点を通る直線は、二か所において円と交点を結びます。円周上にあるこれら一対の交点は、中心点に内在する多様性が正反対の方向に発現したものと見做すことができます。中心点が神の単純性を象徴するのに対して、円周上にあるこれらの点は被造物の多様性を象徴すると考えることが可能です。

 円の中心を通る直線が円周上に結ぶ二つの交点は、円周上にある限り、被造物が有する互いに正反対の性質を象徴します。しかしながら円の直径が小さくなるにつれて、これら二点間の距離はどんどん小さくなり、ついには中心点において区別を失います。プロティノス(Πλωτῖνος, PLOTINUS, 205 - 270)は中心点は円の父であると言い、アンゲルス・シレジウス(Angelus Silesius, 1624 - 1677)は中心点のうちに円があると言っています。


6. 「時間の永遠性」及び「時間の均質性」の象徴

 円には始まりも終わりもありません。それゆえ円は、永遠の過去から永遠の未来に向かって流れ続ける時間の永遠性を象徴します。また円は直径が定まれば、円周のどの部分においても同一の曲率を示します。それゆえ円は時間の均質性を象徴します。

 円環状に流れるものとして表象される場合、時間は回転する車輪によって象徴されることが多くあります。


7. 天上界の象徴

 3. で示したように、天上界の物体は円を描いて運動します。それゆえ円は天上界の象徴です。

 西ヨーロッパにもあって、ロマネスク聖堂、特にその後陣は方形の上に円蓋(ドーム)を乗せた形に建てられています。このような聖堂建築において、方形部分は地上を、円蓋は天上を表します。内部の壁画、天井画に関しても、描かれる領域の区別は厳密に守られ、方形部分には福音書の地上における場面や聖人伝が、円天井には天上の様子が描かれます。

 ロマネスク聖堂における方形の下層と円蓋のシンボリズムは、「天円地方」の通俗的解釈を思い起こさせます(註4)。康熙年間(1622 - 1722年)に制作された天球儀には、大地を象徴する直方体を名部に固定した作例があります。


8. 「創造主が地上に及ぼし給う働き」「神が被造物に与え給う秩序」「神の摂理」の象徴

 天体が円軌道を描いて周回する中心には、地球すなわち地上界があります。それゆえ円は地上界との関係において天上界を象徴していることがわかります。このことから円は、地上界を創造し、秩序を与え、存続させる神の働きを象徴します。

 宗教的世界観に基づくTO図では、神が創り給うた世界が円形に描かれています。下の写真は「エプストルフの世界図」(die Ebstorfer Weltkarte)の複製です。「エプストルフの世界図」は1300年頃に作られた地図で、TO図の一例です。




9. 世界の始原の象徴

 日本語では球も円も「まるい」と言いますが、球と円は異なります。球が立体図形である一方、円は平面図形です。しかしながら円は「球の断面」あるいは「球を平面に投射した図形」であって、球と無関係ではありません。象徴としての役割においても、円と球は多くの意味と役割を共有します。

 世界の始原はしばしば卵、すなわち球で象徴されます。これを二次元の絵に表現する場合、円が同じ役割を果たします。世界の始原である楽園は、円形に描かれる場合が多くあります。曼荼羅の中心にも円が描かれます。


10. アルベルティの建築論における円

 イタリア初期ルネサンスにおいてフィリッポ・ブルネレスキと並ぶ万能の天才、レオン・バティスタ・アルベルティ(Leon Battista Alberti, 1404 - 1472)は、1443年から 1452年にかけて十巻の「建築論」(De re aedificatoria libri decem)を著しました。ロマネスク期からゴシック期にかけて、キリスト教の聖堂は十字架型プランによって建てられるのが常識でした。しかしながらアルベルティは、建築物のあるべき形状を論じる「建築論」第一巻("Lineamenti")において、教会堂に最もふさわしい平面プランは、円形、および円から派生する正多角形であると論じています。

 エトルリアの神殿が長方形の平面プランを有するのに対し、古代ローマの神殿は円形プランに基づいて建てられました。ローマ人は円形または環形の神殿を天空の象(かたど)りとし、共和政期から帝政期にかけて、多数の円形神殿を建設しました。ティヴォリのシビュラ神殿やローマのパンテオンを見れば、ギリシア建築の強い影響を受けつつも、ローマ人が円形神殿の伝統を放棄しなかったことがわかります。

 古典古代を理想としたアルベルティは円形聖堂を設計することにより、古代ローマの伝統をキリスト教の元で復活させようとしました。円形プランではありませんが、西側正面がローマの凱旋門を髣髴させるマントヴァの聖アンドレアス聖堂は、アルベルティが古代ローマを現代(十五世紀)に蘇らせた例です。アルベルティは存命中に集中式聖堂を建設する野心を実現できませんでしたが、「建築論」の理想は建築家の没後に支持を集め、十五世紀末から十六世紀前半にかけて数多くの集中式聖堂が建設されました。


11. ホモー・ウィトルウィアーヌスにおける円



(上) Leonardo da Vinci, "HOMO VITRUVIANUS", c. 1490, penna e inchiostro su carta, 34.6 x 25.5 cm, Gallerie dell'Accademia, Venezia


 アルベルティによって西欧に紹介されたウィトルウィウス(Vitruvius, B. C. 80/70 - B. C. c. 15)の「デー・アルキテクトゥーラー」("DE ARCHITECTURA" 「建築について」)は、パッラーディオ(Andrea Palladio, 1508 - 1580)を通じてルネサンス期の建築に支配的な影響を及ぼしました。「デー・アルキテクトゥーラー」の記述に基づいて、1490年頃にレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci, 1452 - 1519)が描いたホモー・ウィトルウィアーヌス(羅 HOMO VITRUVIANUS ウィトルウィウスに基づく人体)は、秩序立った比例の人体図としてよく知られています。叙上のように、円は神から発出する被造的世界(マクロコスモス)を象徴しますが、円と人体を重ねるウィトルウィウス的人体図の描写は、人体もまたコスモス(ミクロコスモス)でり、マクロコスモスとの類比的同一性を有するとの思想に基づいています。

 静的な均衡を特徴とするウィトルウィウス的な人体把握は、ホモー・ウィトルウィアーヌスが描かれた十五世紀末の彫刻や絵画において、フィグーラ・セルペンティナータ(羅 FIGURA SERPENTINATA 蛇のようにくねる人体)に早くも場所を譲り始めていました。レオナルド自身の作品やラファエロ(Raffaello Sanzio, 1483 - 1520)の諸作品で、多くの人物が進退を捻じ曲げ、くねらせています。そして「動いているときに、コンパスは役に立たない」と言ったミケランジェロ(Michelangelo Buonarroti, 1475 - 1564)に至って、ウィトルウィウス的人体把握からの乖離は完全なものとなります。




(上) Gian Lorenzo Bernini, "Il Ratto di Proserpina", 1621 - 22, marmo, 255 cm, Galleria Borghese, Roma  フィグーラ・セルペンティナータの例

 ウィリアム・ハーヴェイは十七世紀においても、ミクロコスモス(人体)をマクロコスモス(宇宙)とのアナロギアにおいて捉えていました。しかしながらマクロコスモスの秩序が人体に反映されているとする考えは、美術の世界では一足先に放棄されます。早くもレオナルドやラファエロにおいて芽生え、ミケランジェロにおいて顕著となったフィグーラ・セルペンティナータ(蛇のようにくねる人体)は、そのままマニエリスムへと繋がってゆきます。



註1 Clemens Alexandrinus, "STROMATA", Liber V, caput 11


註2 シンプリキタース・デイー(羅 SIMPLICITAS DEI 「神の単純性」)はスコラ学の用語で、神における複合の欠如を表す。スコラ哲学を代表するトマス・アクィナスのオントロギア(存在論)に基づいて、シンプリキタース・デイーは次のように説明できる。すなわち

      物体はすべてマテリア(羅 MATERIA 質料)とエッセンチア(羅 ESSENTIA 本質)の複合(羅 COMPOSITIO)である。
     
       一方、天使及び死者の霊は物体ではなく、マテリア無しに自存する霊的存在者である。しかしながらこれらの霊的存在者は、完全な意味で自存しているのではなく、神から与えられるエッセ(羅 ESSE 存在するという働き)を分有することによってのみ、存在できている。天使及び死者の霊は、エッセンチアとエッセの複合である。神のエッセを分有し、神の許しを得てはじめて存在できているという点で、天使及び死者の霊は、物体的存在者(生きている人間や動植物、生命を持たない物体)と共通する。
     
      したがってあらゆる被造物は、霊的存在者であると物体的存在者であるとを問わず、すべて複合である。物体的存在者はマテリアとエッセンチアの複合を有する。霊的存在者はマテリアを有さないが、霊的存在者のエッセンチアはエッセと複合している。
     
      しかるに神は如何なる複合も有さない。なぜならば神は物体ではないので、マテリアとエッセンチアの複合ではない。また神は必然的存在者であって、より上位の者からエッセを分有して存在を許されているのではないので、エッセンチアとエッセの複合でもない。神は完全な意味において自存するエッセンチア(羅 ESSENTIA SUBSISTENS)である。それゆえ神においてはエッセとエッセンチアが同一である。神においてはマテリアとエッセンチアの複合が存しないのみならず、エッセンチアとエッセの複合も存しない。


 複合が無い状態を「単純」という。神が「単純(羅 SIMPLEX)である」とは、以上で説明したように、「神のうちには如何なる複合も無い」という意味である。トマス・アクィナスは「スンマ・テオロギアエ」第一部第三問において「神の単純性」を論じている。


註3 回転対称性を有する円は、現代の数学者や物理学者から見ても最も美しい平面幾何学図形である。それゆえ近世以前の天文学者が天体の軌道を円と考えたのも、無理のないことと思える。初期の地動説においても、惑星は円軌道を描くと考えられた。実際の軌道が楕円であることを見出したのは、ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler, 1571 - 1630)である。


註4 天が北極星を中心に円軌道を描いて回転していることは容易に観察できるから、古代中国においても天は円い(あるいは丸い)と考えられた。しかるに大地の形状は居ながらにして分からず、大地の涯まで測量に向かうことも企図されなかった。そもそも暦学という呼称が端的に示すように、近世以前の中国天文学は正確な暦作りを事とし、大地の形状は関心の埒外であった。元代にはイスラム圏から地球儀が齎されたが、大地が球体であるという新奇な説も、中国では大した関心を呼び起さないまま忘れられた。

 したがって天円地方の天円は文字通りの意味と考えてよいが、地方の本来の意味は、地が方形であるということではなかった。天は回転運動するが、地は不動である。天と地は性質を大きく異にする。この本質的差異を強調する表現として、天の「円」に対し、地が「方」と称された。すなわち常に円運動する天に対し、地の不動性を表す方便として、円と対立する「方」が選ばれただけのことであって、大地の実際の形状が方形であると考えられたのではない。後漢魏晋頃の趙君卿は「周髀算経」の註において、円と方は天地の実態を表さず、広大な天地の形状は知ることはできないと書いている。天円地方を「天は円形、地は方形」という意味に取るのは、後世の誤解に基づく通俗的解釈である。




(上) 貨泉(A. D. 14 - 40) 当店蔵


 始皇帝(B. C. 259 - 210)はそれまで地域ごとに大きく異なっていた文字や度量衡を統一したことで知られるが、貨幣に関しても半両銭という円形方孔銭を鋳造させている。円の中心に方形が位置する半両銭の形状は、天円地方の通俗的解釈に基づく。円形方孔の形状は日本にも伝わり、我が国の銭貨もこの形状に鋳造された。



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