ダヴィッド・ダンジェ
Pierre-Jean David d'Angers, 1788 - 1856
Lege & Bergeron,
"David d'Angers", c. 1851, 11 x 7 cm, albumen print
19世紀初頭のフランスにおいて最も重要な彫刻家、ダヴィッド・ダンジェ (Pierre-Jean David d'Angers, 1788 -
1856) は、ローマ賞をともに受賞した作曲家フェルディナン・エロルド (Louis-Joseph-Ferdinand Hérold, 1791
- 1833) の肖像メダイユを 1815年に製作しました。この作品を第一作目とし、ダヴィッド・ダンジェはその後40年間に亙って肖像メダイユの秀作を産み出すことになります。
ダヴィッド・ダンジェは1827年から「『同時代人の肖像』シリーズ」(
"Galerie des Contemporains") の製作に取り掛かります。このシリーズのメダイユはすべてブロンズ製の片面メダイユで、顔を斜め前から描いたごく少数の例外を除き、横顔の描写となっています。横顔を好んで作品にすることについて、ダヴィッド・ダンジェは次のような趣旨の言葉を語っています。「正面から捉えた顔はわれわれを見据えるが、これに対して横顔は他の物事との関わりのうちにある。正面から捉えた顔にはいくつもの性格が表われるゆえ、これを分析するのは難しい。しかしながら横顔には統一性がある。」
ここでダヴィッド・ダンジェが言っているのは、モデルの顔を正面から捉えて作品にする場合、その時その場でその人物(彫刻家)と向かい合っているという特殊な状況(一回限りの、個別的な状況)のもとで、その時限りの感情や、取り繕った体裁が顔の表情となって現れ、モデルのありのままの人柄を観察・描写する妨げになるのに対し、横顔には常に変わらないモデルの人柄が、ありのままの形で現れる、ということでしょう。その時限りの感情ではなく、ましてや取り繕った体裁ではなく、モデルとなる人物の生来の人柄と、それまで歩んできた人生によって形成された人柄を作品に表現するのであれば、横顔を捉えるのが最も適しているというダヴィッド・ダンジェの指摘には、なるほどと頷(うなず)かせる説得力があります。
「『同時代人の肖像』シリーズ」に作品化されたのは、芸術家、作家、音楽家、政治家などで、同時代の人物に加えて歴史上の人物も含まれます。またフランス人とは限らず、ダヴィッド・ダンジェは1829年と1834年にワイマールを訪れて、ゲーテ、シラー、フンボルトらに会って、彼らを浮き彫りにした作品を同シリーズに加えています。
ダヴィッド・ダンジェによる肖像メダイユの作例をいくつか取り上げます。
【作例1 ピエール=フランソワ・レアル】
ダヴィッド・ダンジェは生涯に亙って共和主義者であり、芸術家としての自分の役割は、偉人たちの主義主張と優れた業績をメダイユに表現することであると考えていました。下に示したのは粘板岩の上に蝋で製作したメダイユの原型で、政治家ピエール=フランソワ・レアル
(Pierre-Francois, comte de Réal, 1757 - 1834) の肖像を表しています。ピエール=フランソワ・レアルは往年のジャコバン党員にして、第一帝政期には帝国議会議員を務め、1830年の七月革命でも活躍した人物で、メダイユの横顔には数々の革命を生き抜いてきた政治家の、業績の重みを象徴するかのように深い皺が刻まれ、髪型はいかにもロマン主義彫刻に相応しく、整えず自然に流されています。
(下) Pierre-Jean David d'Angers,
"Pierre-Francois, Comte de Réal" , original wax relief on slate, 135 x 122 mm, private collection, U.S.A.
【作例2 ラ・ロシェルの四人の下士官】
下に示したのは、王政復古期の「ラ・ロシェルの陰謀」事件(註1)で処刑された四人の下士官を記念して製作されたメダイユです。当初ダヴィッド・ダンジェは大型の記念碑を計画しましたが、資金が集まらずに断念し、代わりに製作されたのがこの作品です。
メダイユの表(おもて)面には四人の下士官の横顔が刻まれ、中央には国家権力を象徴するファスケース(FASCES 束桿)があります。ファスケースの頂上には
マリアンヌ (Marianne) のボネ・フリジアン(フリジア帽)が載せられています。ボネ・フリジアンは隷属からの解放を象徴します。なおメダイユの裏面には自由の女神がギロチンの台にローリエの輪を置く図像が刻まれています。
(下) Pierre-Jean David d'Angers,
"Les Quatres Sargents de La Rochelle", cast bronze, diameter 88 mm, private collection, U.S.A.
【作例3 アルフレッド・ド・ミュッセ】
ダヴィッド・ダンジェはロマン主義の作家、詩人と広く交際し、シャルル・ノディエ (Jean-Charles-Emmanuel Nodier,
1780 - 1844) やヴィクトル・ユゴー (Victor Hugo, 1802 - 1885) はダヴィッド・ダンジェを讃える詩を書いています。歳若いアルフレッド・ド・ミュッセ
(Alfred Louis Charles de Musset, 1810 - 1857) も親交があった詩人のひとりで、ダヴィッド・ダンジェはこの若者をモデルにして、1831年にメダイユを製作しています。
ダヴィッド・ダンジェのメダイユに刻まれるのは、ほとんどの場合、横顔ですが、この作品はバルザック、ジェリコー、若きナポレオンと並ぶ稀な例外で、アルフレッド・ド・ミュッセの顔をほぼ正面から捉えています。彫刻は高浮き彫りで、丁寧に彫られた豊かな髪の下に、感受性豊かな若き詩人の繊細そうな表情が見事に再現されています。
(下) David d'Angers,
"Alfred de Musset", 1831, cast bronze, diameter: 172 mm, private collection, U.S.A.
【作例4 ニッコロ・パガニーニ】
ダヴィッド・ダンジェは 1833年にパガニーニ (Niccolo Paganini, 1782 - 1840) の胸像(註2)を、翌 1834年にはパガニーニのメダイユを製作しました。
パガニーニのメダイユは「『同時代人の肖像』シリーズ」を構成する一点です。メダイユにおいて、パガニーニは肉体には収まりきらない偉大な天才の持ち主として描かれています。パガニーニの頭骨はドーム状に高く盛り上がっていますが、これはダヴィッド・ダンジェが当時流行していた骨相学(註3)に関心を持っていたことを示しています。
骨相学は現在では否定されていますが、このパガニーニのメダイユは、モデルの肉体的特徴を的確にとらえ、わずかに強調することにより、その人物の精神面をも描き出すダヴィッド・ダンジェの才能が、遺憾なく発揮された好例といえます。
(下) David d'Angers,
"Niccolo Paganini", 1834, cast bronze, diameter 15 cm, private collection
【19世紀後半におけるメダイユ彫刻の興隆】
国家に統制されて製作されるプロパガンダ用メダイユは、この時代にはまったく無個性な紋切り型の物になり下がっていました。これと比べてダヴィッド・ダンジェ作品は、三次元的な浮き彫りによってモデルの個性を活き活きと描き出しており、その優れた芸術性は誰の目にも明らかでした。
ルイ14世の造幣局長官ジャン・ヴァラン (Jean Varin/Warin, c. 1596 - 1672) と、宰相コルベール (Jean-Baptiste
Colbert, 1619 - 1683) が作った仕組みに従って、フランス学士院 (Académies des inscriptions et
belles-lettres) 管轄の美術学校で研鑽を積む若きメダイユ彫刻家たちは、本来であれば国家のプロパガンダのためのメダイユ製作を担うはずでしたが、ダヴィッド・ダンジェの自由な作風に惹き付けられ、強い影響を受けました。またナポレオン・ボナパルトの芸術顧問ヴィヴァン・ドゥノン
(Dominique Vivant
, baron Denon, dit
Vivant Denon
ou Dominique Vivant Denon, 1747 - 1825) はローマ賞にメダイユ部門を創設しましたが、ローマの豊かな芸術的環境に学んで視野を広めた受賞者たちは、プロパガンダ用メダイユの製作に心を惹かれることは最早ありませんでした。
このような潮流は彫刻界全体を巻き込み、若手芸術家の間にはメダイユ彫刻への関心が高まりました。学士院に属する若手彫刻家たちは、友人の肖像メダイユをこぞって製作しましたし、オーギュスト・プレオ
(Antoine-Augustin Préault, 1809 - 1879)、ジャン=バティスト・カルポー (Jean-Baptiste Carpeaux,
1827 - 1875)、エマニュエル・フレミエ (Emmanuel Frémiet, 1824 - 1910)、アンリ・シャピュ (Henri-Michel-Antoine
Chapu, 1833 - 1891) らの優れた彫刻家たちも、メダイユを製作しています。
これらの彫刻家たちによってメダイユ彫刻に持ち込まれた新しい作風は、ナポレオンの御用メダイユ彫刻家を務め、美術学校の教授であり、レジオン・ドヌール受章者でもあるユベール・ポンカルム
(François Joseph Hubert Ponscarme, 1827 - 1903) らにも影響を及ぼしました。またイギリスに帰化したフランスの彫刻家アルフォンス・ルグロ
(Alphonse Legros, 1837 - 1911) は1876年から1892年までユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン (University
College London) の教授を務め、イギリスにメダイユ彫刻を導入するのに貢献しました。
註1 ブルボン第二復古王政期(1815 - 1830年)にあたる1822年3月19日、大西洋に面したサントンジュの港町ラ・ロシェル(La Rochelle ポワトゥー=シャラント地域圏シャラント=マリティーム県)に駐留していた第45連隊の下士官四名が、急進的な革命組織である炭焼党(カルボナリ、シャルボヌリ)に属しているとの嫌疑で逮捕されました。四名は炭焼党の沈黙の誓いを守って指導者の名前を自白しなかったため、同年9月5日に死刑判決が下され、9月21日、パリのグレーヴ広場でギロチン刑に処されました。
世論はこのあまりにも厳しい処罰に反発し、「ラ・ロシェルの四人の下士官たち」(les quatre sergents de La Rochelle)
を「自由の殉教者」(martyrs de la liberté) と看做しました。彼らを記念するため、ラ・ロシェルの海辺の城壁にある四基の塔のひとつ、「ランタンの塔」(la
tour de la Lanterne) には、「四人の下士官の塔」(
la tour des Quatre Sergents) という別名が付けられました。
(下) ラ・ロシェルの四名の下士官たち。処刑直前の様子。
註2 ダヴィッド・ダンジェが 1833年に製作したパガニーニの胸像。この時期に、ダヴィッド・ダンジェは非常に大きなサイズの胸像を、本作を含めて数体製作しています。パガニーニ像はロマン主義彫刻における最高傑作のひとつとして高く評価されています。
(下) David d'Angers,
"Niccolo Paganini", 1830, bronze, 60 x 30 cm, Musee des Beaux-Arts, Angers
註3 骨相学 (独 Phrenologie 英 phrenology 仏 phrénologie) とは19世紀初頭に流行した学説で、頭蓋骨の大きさや形状が精神的能力を大きく規定しているとする考え方です。骨相学は現在では否定されています。
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