ジ・アート・ジャーナル The Art Journal, 1839 - 1912
(上) 「ジ・アート・ジャーナル」 1860年 縦 33センチメートル、横 26センチメートル、厚さ 4センチメートルの大型本 当店蔵
"The Art Journal", New Series volume VI, 1860, James S. Virtue, London, and 26, John Street, New York
「ジ・アート・ジャーナル」(
The Art Journal, 1839 - 1912)はロンドンとフィラデルフィアで発行されていた定期刊行物で、十九世紀のイギリス美術界に最も大きな影響力を有しました。
【「ジ・アート・ジャーナル」の歴史】
1839年2月15日、ロンドンにある版画の出版元ホジスン・アンド・グレイヴズ(Hodgson & Graves, 6 Pall Mall,
London)から、七百五十部の月刊誌「ジ・アート・ユニオン」(
the Art Union)が創刊されました。ロンドンの出版業者ジョージ・ヴァーチュー(George C. Virtue, 1794 - 1868)は、1848年、「ジ・アート・ユニオン」誌を買収し、翌 1849年に「ジ・アート・ジャーナル」(
the Art Journal)と改称しました。
「ジ・アート・ユニオン」の編集長であり、誌名が「ジ・アート・ジャーナル」に変わった後も 1880年まで編集長を続けたサミュエル・カーター・ホール(Samuel
Carter Hall, 1800 - 1889)は、イギリスの美術愛好家がイタリア美術を崇拝する一方でイギリス美術を軽視している現状を憂慮していました。編集長ホールの考えは「ジ・アート・ジャーナル」に掲載される批評の方向性を決定づけました。版画の選択に関しても、大様式(宗教画と歴史画)を偏重せず、イギリスの画家たちが得意とした風俗画に基づく作品が多く掲載されました。
サミュエル・カーター・ホールの辞任後、1881年から 1892年まではマーカス・ボーン・ヒュイシュ(Marcus Bourne Huish,
1843 - 1921)が、1892年から 1902年まではデイヴィッド・クロウル・トムスン(David Croal Thomson, 1855
- 1930)が、それぞれ編集長を務めました。1880年代以降の「ジ・アート・ジャーナル」は、他誌との競合や印象派の人気によって圧迫され、1912年に廃刊を余儀なくされました。
なおフィラデルフィアのD. アップルトン社(D. Appleton and Co.)からも、ヴァーチュー社版とほぼ同様の内容で、1875年から
1881年まで、アメリカ合衆国版「ジ・アート・ジャーナル」が発行されました。D. アップルトン社版「ジ・アート・ジャーナル」は 1881年頃にパタースン・アンド・ニールスン社(Patterson
and Neilson, New York)へと引き継がれ、 1887年まで存続しました。
【「ジ・アート・ジャーナル」とアランデル協会】
第二十一代アランデル伯であったトーマス・ハワード(Thomas Howard, 21st Earl of Arundel KG, 1586
- 1646)は美術を愛好したことで知られています。このアランデル伯の名に因み、1848年に「アランデル協会」(The Arundel Society
For Promoting The Knowledge Of Art 美術の知識を深めるためのアランデル協会)が設立され、1897年まで存続しました。
アランデル協会の目的は、国民の美的趣味の水準を高めることにより、イギリス美術をより一層進歩させることでした。この目的を達成するために、アランデル協会はヨーロッパの名画やフレスコ画の忠実な複製を制作しました。アランデル協会が複製した名画は、やがて設立されるサウス・ケンジントン博物館(the
South Kensington Museum ヴィクトリア・アンド・アルバーート博物館の前身)に展示され、イギリス国民に広く公開されます。サウス・ケンジントン博物館の初代館長ヘンリー・コウル(Henry
Cole, 1808 - 1882)はアランデル協会の絵画収集に力を入れ、現在のヴィクトリア・アンド・アルバーート博物館には三百点を超える作品が収蔵されています。
アランデル協会と「ジ・アート・ジャーナル」は、設立及び創刊の時期においても、設立及び創刊の目的においても一致しています。「ジ・アート・ジャーナル」
1869年1月号の第二十六ページには、次のように書かれています。
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The object of the Society has been to preserve the record and diffuse
a knowledge of the most important remains of painting and sculpture, to
furnish valuable contributions towards the illustration of the history
of Art, to elevate the standard of taste in England, and thus incidentally
to exert a beneficial influence upon our native and national schools of
painting and sculpture...The forthcoming work will show the efforts made
in order to popularise high art among people who have everything to learn
and gain experience. |
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アランデル協会の目的は絵画と彫刻の最も重要な遺産を記録し、それらの作品に関する知識広め、美術史の視覚的解説に価値ある貢献を為すこと、その貢献により、一般のイングランド市民における趣味の水準を高め、ひいては祖国イギリスの画家たち・彫刻家たちにとって良い影響をもたらすことである。アランデル協会が今後に為す仕事を見れば、知識も経験も大きく不足している一般の人々に高級美術を広めるための努力がわかるであろう。 |
【「ジ・アート・ジャーナル」に見るラファエル前派批判】
十九世紀イギリス絵画の主流は
サー・ジョシュア・レノルズが率いる王立アカデミーにありましたが、アカデミー絵画の描かれ方を型に嵌った様式主義(マナリズム 註1)と見做して反発した画家たちがいました。この画家たちは正統絵画が則る様式の起源をラファエロやミケランジェロに求め、美術が初々しい生命力を取り戻すには、ラファエロ及びミケランジェロよりも前の時代に立ち戻って、自然に誠実さを取り戻す必要があると考えました。このような思想に基づいて創作活動を行った芸術家たちを、「ラファエル前派」(英
Pre-Raphaelites 註2)と呼びます。
ラファエル前派のこのような思想を、「ジ・アート・ジャーナル」は一貫して批判しました。1846年から同誌に記事を書いていた美術史家ラルフ・ニコルスン・ワーナム(Ralph
Nicholson Wornum, 1812 - 1877)は 1849年の王立アカデミー夏期展覧会に関する批評「美術の新傾向」(
Modern Moves in Art)において、ラファエル前派は「作品の精神において、非常に暗い修道院時代の惨めな禁欲主義を呼吸し、かれらが描く絵において、初期中世のあらゆる画工の作品を歪めてしまった全くくだらない様式を示している」("...
breathes in the spirit of its works the miserable asceticism of the darkest
monastic ages; and exhibits in their execution quite the extremest littleness
of style that ever disfigured the works of any of the early middle-age
masters" )と辛辣な批判を加えています。ラルフ・ニコルスン・ワーナムの目から見れば、ラファエル前派が好む中世美術のような画風は美術の幼児期に戻る試みであり、ルネサンス以来の美術の進歩がもたらした成果と功績を無視することに他なりませんでした。
1850年の「ジ・アート・ジャーナル」に掲載されたアドリアン・ファン・オスターデ(Adriaen van Ostade, 1610 - 1685)の解説記事には、「ラファエロ以前の画工たちと、現代におけるその模倣者たちだけが、高級芸術を正しく理解しているのだとすれば、彼らと異なる全ての芸術家は、どのようなジャンルの絵が専門であっても経験に基づいて描いているに過ぎず、良くても異端の芸術家でしかないことになろう。」("If
the ancient pre-Raffaellites and their modern imitators be its only expounders,
then all who differ from them, whatever class of painting they followed,
are little else than empirics, or, at best, heterodox disciples of Art")と書かれています。
「ジ・アート・ジャーナル」1851年7月号の巻頭記事「ラファエル前派」(
The Pre-Raffaellites)は、「ラファエル前派の画家たちは中世の祭具や
聖遺物函、ステンドグラスを手本にしているのだろうが、このような物品における造形は平面的で、嵌め込まれたものであり、色に関しても調和や明暗は全く考慮されていない」と言い、とりわけラファエル前派の色遣いを非常に古い絵や
祈祷書のイルミネーション(彩色)に喩え、「階層分けも秩序付けも不在であり、青、赤、黄、緑が優位を占めようと争う」("no signs of either classification
or subordination [appear]; on the contrary, blue, red, yellows, and green
struggle for superiority")状態だと批判しています。
【「ジ・アート・ジャーナル」が喚起した中世美術への関心】
しかしながら「ジ・アート・ジャーナル」は、1851年にこのような批判記事を掲載する一方で、この年(1851年)よりも以前から、中世美術の紹介に力を入れていました。ラファエル前派をこき下ろす一方で中世美術への関心を喚起するのは、一見したところ自家撞着のように思えます。しかしながら「ジ・アート・ジャーナル」は、中世美術の手法を現代すなわち十九世紀に復活させることに反対したのであって、中世美術が数百年前に成し遂げた業績を貶めるつもりは全くありませんでした。
1849年の同誌は、ヘンリー・ノエル・ハンフリーズの新著「中世の彩色手稿本」(註3)を絶賛する書評を掲載しています。 1851年の書評では、ヘンリー・ショー(Henry
Shaw, 1800 - 1873)の新著「聖俗の中世装飾美術」(
Decorative Arts, ecclesiastical and civil, of the Middle Ages, 1851)を同様に称賛しており、実際同書の一部は既に「ジ・アート・ジャーナル」に掲載済でした。中世をテーマにした著作は、「ジ・アート・ジャーナル」が支援するアランデル協会の出版物にも含まれていました。
「ジ・アート・ジャーナル」が中世美術に関わったのは書評だけではなく、トーマス・ライト(Thomas Wright, 1810 - 1877)、フレデリック・ウィリアム・フェアホルト(Frederick William Fairholt, 1814 - 1866)、エドワード・ルイス・カッツ(Edward Lewes Cutts, 1824 - 1901)、ルウェリン・ジュウィット(Llewellynn Jewit, 1816 - 1886)をはじめとする古美術研究家たちからも論文が寄せられました。これらの論文は二ページないし四ページの三段組み、1875年以降は二段組みで、彩色手稿本イルミネーションの線描を伴っており、数年に亙って連載される場合も多くありました。中世美術に関するこれらの論文の意義については、同誌の1867年1月号でカッツが説明しています。
一般の美術愛好家に中世美術への関心を呼び覚ましたのに引き続いて、1875年以降の「ジ・アート・ジャーナル」には東洋美術に関する記事も掲載されるようになりました。1875年の「ジ・アート・ジャーナル」は、インドの金属工芸品、中国磁器、日本美術に関する論文が載っています。日本美術の論文はサー・ラザフォード・オルコック(註4)の執筆で、四年に亙って連載されました。
註1 十六世紀の美術史家ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari, 1511 - 1574)は、この世紀以降に芸術が為すべき仕事は、ミケランジェロのマニエラ(伊
maniera 様式)に則って創作することであると考えました。十五世紀にイタリア・ルネサンスの盛期を築いたラファエロとミケランジェロはあまりにも偉大であり、美術は彼らによって完成されたので、あとに続く者たちはこれらの巨匠の様式に従うのみであると考えたのです。
ヴァザーリのような考えが支配的であったイタリア・ルネサンス末期、1520年から 1580年頃の芸術家たちは、ミケランジェロが描いた人体のねじれや複雑なポーズをさらに極端にし、また画面構成に自然とはいいがたい特徴を加えることで、ミケランジェロのマニエラ(様式)に従いつつも、自作に可能な限りの独自性を与えようと試みました。この画家たちの作品に見られる描き方を、マニエリスモ(伊 il manierismo)といいます。
「マニエリスモ」とは「ミケランジェロのマニエラ(様式)に従う芸術の在り方」という意味で、文字通りには「様式主義」という意味ですが、わが国ではフランス語をそのまま片仮名に移して「マニエリスム」(仏 le maniérisme)と言っています。マニエリスムを英語でいえばマナリズム(英 mannerism)で、片仮名書きの日常語「マンネリズム」と同じ言葉です。
註2 「ラファエル前派」は、1848年、ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt, 1827 - 1910)、ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais 1829 - 1896)、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti, 1828 - 1882)の三名が、「前ラファエル兄弟団」(The Pre-Raphaelite Brotherhood)を結成することで始まりました。
註3 ヘンリー・ノエル・ハンフリーズ(Henry Noel Humphreys, 1810 - 1879)は、博学の昆虫学者にして写本、版画、貨幣学者でもある人物です。ハンフリーズによる
1849年の「中世の彩色手稿本」(
The Illuminated Books of the Middle Ages, Longman, Brown, Green, and Longmans, London, 1849)はフォリオ版の大型本で、四世紀から十七世紀に至る最上の彩色手稿本を原寸大で複製しています。
註4 サー・ラザフォード・オルコック(Sir Rutherford Alcock, 1809 - 1897)は初代駐日総領事及び駐日公使を務めた外交官で、「大君の都」(
The capital of the tycoon: a narrative of a three years' residence in Japan, 1863)、「日本の美術と工芸」(
Art and Art Industries in Japan, 1878)をはじめ、多数の著作によっても知られています。
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