サー・ジョシュア・レノルズ (ジョシュア・レノルズ卿) Sir Joshua Reynolds, 1723 - 1792



(上) 自画像 Sir Joshua Reynolds,"Self-Portrait", 1775, Oil on canvas, 58 x 72 cm, Uffizi, Firenze


 サー・ジョシュア・レノルズ(ジョシュア・レノルズ卿 Sir Joshua Reynolds, 1723 - 1792)は、十八世紀のイギリスにおいて、ウィリアム・ホガース(William Hogarth, 1697 - 1764)と並ぶ重要な画家です。さらにサー・ジョシュア・レノルズは王立アカデミーの初代会長でもあり、イギリス美術のあらゆる時代を通して最も優れた画家のひとりといえます。

 画家であるとともに優れた知識人でもあったサー・ジョシュア・レノルズは、歴史画の分野に至上の価値を見出しましたが、実際の上流社会から注文されるのは大部分が肖像画であり、この分野において数多くの傑作を描いています。地位ある男性を描くときも、女性たちや子供たちを描くときも、サー・ジョシュア・レノルズは型に嵌った表現を避けました。サー・ジョシュア・レノルズが描く肖像画には、人物の個性が常に浮き出ています。


【サー・ジョシュア・レノルズの生涯】



(上) Sir Joshua Reynolds,"The Age of Innocence", c. 1775, Oil on canvas, 63.8 x 76.5 cm, Tate


 サー・ジョシュア・レノルズ(ジョシュア・レノルズ卿)は、1723年7月16日、デヴォン州プリンプトン(Plympton 註1)に、グラマー・スクール校長の第七子として生まれました。父はジョシュア少年を医師にするつもりでしたが、息子の絵の才能に感心して、家族や知人の肖像を描くように勧めました。十七歳になったジョシュアは、高名な肖像画家トーマス・ハドソン(Thomas Hudson, 1701 - 1779)への紹介状を携えてロンドンに行き、ハドソンの弟子となりました。ジョシュアはハドソンに指示されたグエルチーノの模写を完璧にこなして師をうならせました。

 1746年、ジョシュア・レノルズは二人の妹と三階建ての家に引っ越して、三階をアトリエにしました。この頃レノルズは肖像画制作を相次いで依頼されるようになっており、国王ジョージ二世(George II, 1683 - 1727 - 1760)の肖像画も制作しています。

 レノルズは海軍提督の地位にあった若き貴族オーガスタス・ケッペル (Augustus Keppel, 1725 - 1786)と1749年に知り合い、同年5月11日、ケッペルの乗艦 H. M. S. センチュリオンに同乗してローマに行きました。ローマでのレノルズはミケランジェロやラファエロ、ティツィアーノやニコラ・プッサンの名画を模写し、特にラファエロの「アテネの学堂」をよく研究しました。

 ローマを後にしたレノルズは、ボローニャ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ジェノヴァを巡り、パリを経由して(註2)、1752年に帰国しました。イギリスに戻ったレノルズは、これまでイギリスで描かれてきた肖像画が型に嵌り過ぎていると考え、人物の新しいポーズや、人物とともに描き込む小道具の研究に取り組みました。

 1754年、ロンドンに「技芸・産業・通商振興協会」(the Society for the Encouragement of Arts, Manufacture and Commerce 註3)が設立され、1760年に第一回目の「現代美術展」(the exhibition of contemporary art)が開かれます。レノルズとトーマス・ゲインズバラ(Thomas Gainsborough, F. R. S. A., 1727 - 1788)はこの展覧会に作品を出品しています。

 十八世紀半ばのイギリス上流階級はイタリア美術を崇拝し、自国の画家たちを顧みませんでした。この状況を変えることを望んだウィリアム・ホガース(William Hogarth, 1697 - 1764)は、1746年以来、自身が初代院長を務めるロンドンの慈善福祉施設ファウンドリング・ホスピタル(the Foundling Hospital 註4)で展覧会を開き、イギリスの画家たちの評価を高めるべく熱心に活動していました。ホガースの活動はイギリス美術家協会(the Society of Artists of Great Britain, 1761 - 1791 註5)と美術家自由協会(the Free Society of Artists)が誕生するきっかけになりましたが、これら二つの団体はいずれも内部対立のために活力を失っていったので、1768年12月10日、ジョシュア・レノルズ、トーマス・ゲインズバラを含む三十四名により、定員四十名の王立美術アカデミー(The Royal Academy of Arts, RA 註6)が結成され、レノルズが初代会長に就任しました。このときレノルズはナイトに叙され、「サー」(Sir)の称号を得ています。




(上) Sir Joshia Reynolds, "Cupid Untying the Zone of Venus", 1788, Oil on canvas, 127.5 x 101 cm, the State Hermitage Museum, St. Petersburg


 この頃肖像画制作の依頼が非常に多くなったため、レノルズは大きな家に引っ越しました。レノルズはモデルの外見を写すだけでなく、モデルの人柄や社会とのかかわりを、肖像画を通して表現しようとしました。レノルズは絶えずモデルと対話し、必要な情報を集めながら肖像画を描いてゆきました。このようにして制作された肖像画はロンドンの上流社会で大きな評判を呼び、レノルズの評価はさらに高まってゆきました。

 上の写真はレノルズが 1788年に描いた「ヴィーナスの帯をほどくキューピッド」("Cupid Untying the Zone of Venus")、あるいは「スネイク・イン・ザ・グラス」(The Snake in the Grass 草の中の蛇)、「美神の帯を解くクピードー」(Love Unloosing the Zone of Beauty)で、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に収蔵されています。 レノルズはこの作品を数点描いており、1784年に描かれた最初の作品はテート・ブリテンにあります。

 「スネイク・イン・ザ・グラス」、「美神の帯を解くクピードー」という題名は、「恋は盲目」、すなわち「予期せざる危険に気を付けなさい」という意味です。絵のモデルは 1784年当時十八歳であった美貌の女性エマ・ハート(Emma Hart, 1765 - 1815)と考えられています。最初にこの絵が描かれた七年後、エマ・ハートはイギリスの駐ナポリ公使サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton, 1730 - 1803)と結婚しましたが、その後ネルソン提督(Horatio Nelson, 1758 - 1805)の愛人になり、提督の子供を二人生んでいます。夫のハミルトン卿が購入した家で、夫と提督とともに奇妙な同居生活を送り、夫と提督の死後には浪費の結果債務不履行で収監され、最後はフランスのカレーで困窮のうちに亡くなりました。エマ・ハートが送ることになる波乱の人生とを思うと、この絵は予言じみて見えます。

 レノルズは英語辞典で有名なサミュエル・ジョンソン博士(Dr. Samuel Johnson, 1709-1784)と、従来から親交があり、レノルズとジョンソン博士を中心に毎週月曜日にタヴァーン(酒場)で「文芸クラブ」(the Literary Club)の集まりが開かれて、芸術や文化に関する最新の情報が交換されました。レノルズは「文芸クラブ」に参加する文化人たに対し、美術に関する自身の考え方を論じましたが、「文芸クラブ」でのこのような交流は、アカデミーを設立するにあたって大きな力になりました。



(上) Sir Joshia Reynolds, "Dr. Samuel Johnson", c. 1772, Oil on canvas, 756 x 622 mm, Tate, London


 晩年のレノルズは腫瘍のために左目の視力を失い、王立アカデミーの会長職には留まりつつも、画業からは退かざるを得ませんでした。レノルズは 1792年2月23日に六十八歳で亡くなり、セイント・ポール主教座聖堂で葬儀が行われました。遺体は火葬され、同主教座聖堂に安置されました。


【サー・ジョシュア・レノルズの画風】


 サー・ジョシュア・レノルズはもともと歴史画を最大の価値ある分野と考えていました。このような考え方に基づき、レノルズは肖像画のモデルをギリシア・ローマの神々になぞらえて描き、上流階級の人々に大きな人気を博しました。

 レノルズの作品には大きなサイズのものが多く、長く滑らかな筆致を多用しました。レノルズは筆の跡を完全に消すことはせず、くっきりと大胆で伸びやかな筆遣いを見せています。

 絵に三次元の奥行を感じさせるために、レノルズはキアロスクーロ(伊 chiaroscuro 明暗法)を多用しました。背景に置かれた布などの小道具も、光が当たって陰翳を形成することにより、絵全体の奥行をさらに強調しました。

 レノルズが活躍した十八世紀は、その前世紀までとは違って、様々な色調の絵具が容易に手に入るようになっていました。しかしながらレノルズは、無神経な混色は色調を損なうと考え、絵具が乾かないうちに層を塗り重ねる方法を選びました。絵具の重ね方は最下層にカーミンと明度を調整した灰色を、その上に白を混ぜて明るくしたオーピメント(黄色)を置き、最後に白や藍色を加えます。

 人物の肌色に関しては、下書きの完成後、早い段階でパレット上に混色を行い、モデルの肌にできるだけ近い色を作りました。肌の赤みをはじめ、原色を取り入れて画面を引き締め、統一感を与えるのも、レノルズがよく使う手法です。

 レノルズは色の効果を確認するために、メモを取りながら制作を行いました。以前に描いた作品のメモを検討し、以前とは色を変えたり混色を試したりして、常に研究を怠らないのがレノルズのやり方でした。




註1 イングランドの南西部には、コーンウォール半島が大西洋に向かって突き出ています。コーンウォール半島の中ほどに、デヴォン州があります。プリンプトン(Plympton)はコーンウォール半島の南側、プリマスの東十キロメートルにある海沿いの町です。サー・ジョシュア・レノルズは 1773年にプリンプトンのメイヤーになっています。

註2 レノルズはパリで旧師ハドソンに会い、彫刻家ルイ=フランソワ・ルビリヤック(Louis-François Roubiliac, 1702 - 1762)とウィリアム・チェインバーズ(Sir William Chambers R. A., 1723 - 1796)を紹介されています。ウィリアム・チェインバーズは後に王立アカデミーの創立メンバーに加わります。

 サー・ウィリアム・チェインバーズ(Sir William Chambers R. A., 1723 - 1796)はスウェーデンに生まれ、ロンドンで活動した建築家です。レノルズと出会ったときのチェインバーズは青年でしたが、ずっと後の1775年にはサマセット・ハウスの設計を委託されることになります。サマセット・ハウス(Somerset House)はロンドンにある非常に大きな建物で、1776年から工事が始まり、チェインバーズの没年と同じ1796年に完成しました。

註3 ロイヤル・ソサエティ・オヴ・アーツ(The Royal Society of Arts, R. S. A. 王立技芸協会)の前身。

註4 子供が無かったホガースは、棄児の愛護に熱心に取り組みました。「ファウンドリング・ホスピタル」(the Foungling Hospital)とは、英語で「捨て子を迎え入れる施設」という意味です。

 「ファウンドリング」(英 foundling)は語源的には「ファインディング」(英 finding 見つけもの)と同じで、捨てられているのが見つかった子、つまり棄児のことです。「ファウンドリング」の語尾は、「ダックリング」(英 duckling 子鴨、アヒルの雛)等において「小さなもの」を表す語尾 "-ling" に同化しています。

 「ホスピタル」は現代語では病院を指しますが、もともとは「迎え入れる所」という意味です。「ホスピタル」は「ホスピタブル」(英 hospitable 友好的な)、「ホスピタリティ」(英 hospitality 歓迎)、さらには「ホウスト」(英 host 客を迎える主人、もてなす人、宿主)、「ホウテル」(英 hotel ホテル)等と同語源です。

註5 レノルズはイギリス美術家協会に参加していました。

註6 建築家サー・ウィリアム・チェインバーズは王室と関係が深かったので、国王ジョージ三世に願い出て、アカデミーのために王室による保護と財政的援助を得ることができました。これによりレノルズたちのアカデミーは王立の団体となりました。



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