類い稀なる才能を持ちながら早逝したフランスのメダイユ彫刻家、ジョルジュ・デュプレ (Georges Dupré, 1869 - 1909) のブロンズ製円形メダイユ。
表(おもて)面には幼子イエズスを頂点とする三人の群像を浮き彫りにしています。このメダイユは宗教的テーマに基づく作品ですが、浮き彫りにされた三人の人物像はたいへん写実的で、メダイユをじっと眺めているとあたかも画面に引き込まれて、眼前に繰り広げられる光景を見ているかのような錯覚さえも覚えます。
マリアの表現は、この群像の中でもとりわけ注目に値します。祭壇の傍らでイエスを高く掲げるマリアの姿は聖体を奉挙する司祭にそっくりであり、このメダイユが祭壇画をはじめとする中世以来の宗教画に連なる作品であることがわかります。マリアは乳房を露わにしていますが、乳房は母性の象徴であり、伝統的宗教画に描かれる乳房を露わにしたマリアは、母性愛にあふれる「執り成しの聖母」を表します。聖母マリアの立ち姿は、円形画面の最上部から最下部まで、上下いっぱいの高さで表されています。これは受胎告知の際、天使ガブリエルに対して「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカによる福音書 1: 38 新共同訳)と答えたマリアが、天と地、神と人を結ぶ「恩寵の器」(la
vase de bénédiction) であることを表します。救いに至る唯一の道、イエズス・キリストを世に示す聖母像は、「ホデーゲートリア(ὁδηγήτρια ギリシア語で「道案内人」)」の系譜にも連なる図像ですが、本品の表現様式は正面向きの聖母子像「ホデーゲートリア」と大きく異なっており、伝統を継承しつつも独自に発露したメダイユ彫刻家デュプレの創意を見ることができます。
マリアは幼子イエズス・キリストを高々と抱きあげています。マリアの眼差しはわが子イエズスに注がれていますが、幼子イエズスはマリアの方を見ず、眼差しを天へと向けています。
イエズス・キリストが「普通の人間」ではないことはもちろんです。しかしながら正統教義によると、キリストは「半分が人間」なのではなくて、「全くの人間」です。したがって成人したのちのイエズスが父なる神に最後まで従い、信仰を貫けたのも、母マリアが幼子イエズスに無条件の愛を注ぎ、健全な大人へと成長する精神的基盤となったからでありましょう。
したがって、このメダイユにおいて幼子イエズスは母の方を見ていないからといって、それは愛情が一方通行であったことを表しているわけでは決してありません。メダイユ彫刻はいわば「静止画像」ですから、ある一瞬をとらえて表現するためには、他の一瞬を犠牲にしなければなりません。ふたつの異なる瞬間を、ひとつの画面に同時に表すことはできないのです。
このメダイユは世の救い主イエズス・キリストという宗教的なテーマに基づく作品であり、図像化できない「父なる神」と「子なる神イエズス・キリスト」の関係を表すために、幼子イエズスの視線を天へと向けさせているのですが、同時に「全くの人間」(半神ではない人間)である幼子イエズスと母マリアは、地上の愛を通わせ合い、睦み合って、信頼と受容に基づく良好な親子関係を築いています。デュプレはこのことを強調するために、母の愛そのもののシンボル、「乳房」を、メダイユに刻んだのです。「静止画像」であるメダイユ彫刻において時間的な広がりを表現し、さらには天の愛(神の愛)と地の愛(人間の愛)をも同時に表現する巧みなテクニックといえます。
マリアに抱き上げられたイエズスは、あたかも十字架上におけるかのように両腕を広げ、天を指さしています。伸ばされた右の足先、十字架上では釘で貫かれるはずの足先に、年老いた羊飼いが接吻しています。羊飼いの傍らには牧杖が置かれ、遠景には草を食(は)む羊の群れが見えます。
この年老いた男性は、旧約時代から救い主を待ち続けた人類を表します。羊飼いという点に注目すれば、シナイの砂漠で40年に亙ってイスラエルを率い、約束の地に入ることなく死んだモーセ(申命記34章)と見ることも可能です。モーセが率いた神の選民イスラエル人は旧約聖書において「羊」に譬えられますし(イザヤ
40: 9 - 11)、モーセは初めて神に見(まみ)えたとき、実際に羊飼いでした(出エジプト記 3: 1 - 10)。また「ルカによる福音書」
2章8節から20節によると、ベツレヘム近郊でイエズス・キリストの誕生を天使から告げられたのは、羊飼いたちでした。したがって本品に刻まれた年老いた羊飼いは、全人類を表した姿に他なりません。さらに牧杖を鍵にして解釈すれば、この男性を使徒ペトロとその後継者である教皇たちに率いられるキリスト教会と考えることも可能です。その場合、洗礼者ヨハネのような装いは、キリスト者の悔い改めを表すと見ることができます。
羊飼いの傍らには燔祭(はんさい)の祭壇があり、イエズス・キリストが完全なる捧げ物、アグヌス・デイ(Agnus Dei ラテン語で「神の子羊」)であることを示しています。羊飼いの足下には茨の冠が置かれ、イエズスの受難を予告しています。
(下) 石版による1905年の小聖画 神の子羊イエズス・キリスト 当店の商品です。
メダイユの最下部に、メダイユ彫刻家ジョルジュ・デュプレ (Georges Dupré, 1869 - 1909) の署名が刻まれています。ジョルジュ・デュプレは第14代のフランス貨幣彫刻師
(Graveur général des monnaies) にして高名なメダイユ彫刻家でもあったオギュスタン・デュプレ (Augustin Dupré, 1748 - 1833) の大甥(兄弟の孫)です。ジョルジュはパリ高等美術学校 (Ecole Nationale Supérieure des Beaux-arts,
ENSB-A) に学んで、メダイユ彫刻の優れた才能を開花させ、1896年にローマ賞プルミエ・グラン・プリ(特賞)を獲得しました。
メダイユの裏面には、燔祭の祭壇を思わせる方形の石積みに倚(よ)って、クルシフィクスを見上げる男性を浮き彫りにしています。この人物も表(おもて)面の男性と同様の姿をした羊飼いで、やはり全人類を寓意的に表しますが、こちらは若者です。表(おもて)面の年老いた羊飼いが旧約時代の人間を表すとすれば、裏面の若い羊飼いは新約時代の人間を表すと考えられます。
若者の背景には廃墟の一部のような石材が見えますが、これはイエズス・キリストという完全な捧げ物によって燔祭が不要になり、廃棄された旧約時代の祭壇を表します。
若者が倚り掛かる石積みあるいは祭壇には、開いた祈祷書とクルシフィクスが置かれ、蔦(つた)が絡まっています。祈祷書が祈りを、クルシフィクスが神の愛を象徴することはいうまでもありません。また常緑の蔦は永遠の命を象徴するとともに、神を頼む信仰をも表します。石積みには次の言葉がラテン語で刻まれています。
O CRUX AVE, SPES UNICA. めでたし、十字架よ。唯一の望みよ。
これは「十字架称讃」(Exaltatio Sanctae Crucis) の祝日に歌われる聖歌「王の御旗は進み」("VEXILLA REGIS PRODEUNT.") の一節です。伝承によると、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世 (Gaius Flavius Valerius Constantinus, 272 - 337) の母后ヘレナ(聖ヘレナ Flavia Iulia Helena Augusta, c. 250 - 330)はエルサレムに巡礼に行き、「真の十字架」(キリストが架かった十字架)を発見しました。コンスタンティヌス1世とヘレナの命により、発見の場所に聖墳墓教会が建てられ、335年9月13日から14日にかけて聖堂の祝別と聖遺物「真の十字架」の崇敬が行われました。カトリック教会では毎年9月14日に「十字架称讃」の祝日を設けて、この故事を記念し、人間に救いをもたらす道具となった十字架を崇敬しています。
十字架称讃の典礼に使われる聖歌「王の御旗は進み」は、ラテン詩人聖フォルトゥーナートゥス (St. Venance Fortunat, Sanctus
Venantius Honorius Clementianus Fortunatus, c. 530 - 609) の作品に基づきます。「めでたし、十字架よ。唯一の望みよ。」("O
CRUX AVE, SPES UNICA.") は、この聖歌の第7連にある言葉です。
メダイユの縁には、ブロンズ製を表すコルヌ・コーピアエ(CORNU COPIAE 豊穣の角)、及び「ブロンズ」(BRONZE) の刻印があります。コルヌ・コーピアエは、1880年から1929年までの間にモネ・ド・パリ(La
Monnaie de Paris パリ造幣局)で鋳造されたメダイユに刻印されるプリヴィ・マーク(ミント・マークの一種)です。
本品においては人物像をはじめあらゆるものがまるで手に取るように写実的に表され、とりわけ表面における母子愛の表現は、見る者の心をゆさぶります。1ミリメートルに満たない厚みの差によって、これだけの作品を製作したメダイユ彫刻家、ジョルジュ・デュプレが、神に愛された故に早逝したと考えるのは、あまりにも浪漫主義的でしょうか。
本品はおよそ百年前に制作された真正のアンティーク品ですが、特筆すべき瑕疵は無く、きわめて良好なコンディションです。優れた芸術性と良好な保存状態により、貴重なアンティーク美術工芸品となっています。ご希望により、別料金にてメダイユを額装いたします。額装料金は使用する額によって異なります。