三世紀末の処女殉教者、聖アポローニアを刻んだ非常に珍しい作品。直径 69.3ミリメートル、最大の厚さ 10.0ミリメートル、重量 203.9グラムというたいへん立派なサイズの円形メダイユで、ブロンズ・フロランタン(高級ブロンズ)で鋳造されています。浮き彫りは立体的で、生身の聖女を眼前に見るかのように美しく、大胆な構図によりながらも極めて丁寧に仕上げられています。
一方の面には、古代の衣装とマントをまとった聖女、アレクサンドリアの聖アポローニア (SANCTA APOLLONIA DE ALEXANDRIA, + 249) が、女王のように堂々とした姿で浮き彫りにされています。
カイサレアのエウセビオス (Eusebius Caesariensis, Εὐσέβιος ὁ Καισάρειος, c. 265 - 339)
が「教会史」第6巻41章において引用するアレクサンドリア司教ディオニュシオスの書簡によると、アポローニアは年長の処女であり、称讃すべき信仰の持ち主でした。「教会史」の該当箇所に具体的な年齢は書かれていませんが、ふつうは50歳くらいの女性を指す「プレスビューティス」(πρεσβῦτις)
という言葉が使われています。
(上) Francisco de Zurbarán, "Santa Apolonia", 1636, Óleo sobre lienzo, 116 cm × 66 cm, Museo del Louvre, París
しかるに17世紀スペインの画家フランシスコ・デ・スルバラン (Francisco de Zurbarán, 1598 - 1664) は、1636年に制作した油彩画で、アポローニアに美しい花の冠を被らせ、両頬に赤みが差した若々しい姿に描いています。アポローニアが被る花の冠は「レゲンダ・アウレア」の聖アポローニア伝が典拠で、「貞淑と思慮と清らかさ」(castitas, sobrietas atque munditia) を表しています。
スルバランがアポローニアを若い女性として描いた理由は、当時の資料によると「処女が永遠の若さと美しさを保つことを示すため」です。しかしながらいまひとつの見方によれば、スルバランのこの作品は世俗の風俗画や美人画ではなく、祭壇画であったので、天国に転生した殉教者アポローニアを、「永遠の命」にふさわしい若々しい姿で表現したと考えることができます。実際、殉教者の祝日は地上に生まれた日ではなく亡くなった日ですが、これは新しい姿で天国に生まれ変わったことを祝っているのです。
アポローニアの周囲を取り巻くように、フランス語で「サント・アポリーヌ、パトロンヌ・デ・ダンティスト」(Sainte Apolline, patronne
des dentistes 「歯科医師の守護聖人、聖アポローニア」)の文字が刻まれています。
メダイユの縁には「コルヌ・コーピアエ」(CORNU COPIAE 豊穣の角)の刻印と「ブロンズ・フロランタン」を意味する "BR
FLOR" の文字、及び 1984年の年号が打刻されています。「ブロンズ・フロランタン」(bronze florentin 「フィレンツェのブロンズ」の意)は美しい色をした高品位のブロンズで、90パーセントよりも多い銅と10パーセント未満の錫(すず)またはアルミニウムの合金です。
メダイユの裏面には、燃え盛る火刑の火を背景に、聖アポローニアのアトリビュートである「歯を挟んだやっとこ」と、殉教者の徴(しるし)である「ナツメヤシの葉」が写実的な浮き彫りで表されています。刻まれている文字はフランス語で、内容は次の通りです。
Elle eut ses dents arrachée et pour ne pas insulter la Sainte Croix , se jeta dans le feu en l'an CCXLIX. | 249年、アポローニアは歯を抜かれ、聖なる十字架を侮辱しないように、火中に身を投じた。 |
メダイユの左下、縁に近いところに、メダイユ彫刻家ベルナール・ラボリのサイン (Bernard Laborie) があります。
ヤコブス・デ・ヴォラギネは「聖アポローニア伝」において聖女が殉教する様子を記述した後、アポローニアはこの迫害が起こるよりも以前から、すでに火刑囚であった、と述べています。すなわちアポローニアの心は、火のように強い神の愛に焼かれていたのです。それゆえアポローニアは長い年月のあいだ情欲に溺れずに貞操を守り続け、迫害者に捕えられた際にも信仰を守り抜くことができました。神の愛の火に浄化されたアポローニアの心には、情欲に縛られない真の自由と安息がありました。
本品の表(おもて)面に刻まれたアポローニアは晴れ晴れとした表情で、両目を開け、口許には微笑を浮かべています。その両頬には若々しい紅色が見えるような気さえします。アポローニアのこの表情は、神の愛の火によって心を浄化された聖女の顔なのです。
本品は若々しい姿で天国に転生した処女殉教者アポローニアを、あたかも生身の女性を見るかのように生き生きと再現し、20世紀フランスのメダイユ史に残るべき名作となっています。しかしながら本品が名作である理由は美術品としての美しさにとどまりません。神の愛を知るゆえに、情欲を退ける日々の戦いにも、激しい迫害にも勝利したアポローニアの信仰を、彫刻家ベルナール・ラボリは聖女の晴れやかな表情の内に見事に可視化し、信心具としての性格をも兼ね備えた作品に仕上げています。
本品の制作年代は比較的新しいですが、僅少の点数しか鋳造されなかったと思われ、恐らく二度と手に入らない稀少品です。保存状態はきわめて良好で、特筆すべき問題は何もありません。