ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル、ラ・ビルヘン・デル・ピラル 柱の聖母
Nuestra-Señora del Pilar / La Virgen del Pilar, Zaragoza




(上) Nicolas Poussin, "Apparition de la Vierge à saint Jacques le Majeur", 1628 - 30, Huile sur toile, Musée du Louvre, Paris


 スペインで最も豊かな水量を誇るエブロ川 (El Ebro) は、イベリア半島北部、ビスケー湾に面するカンタブリア州に発して南東方向に流れ、カタロニアで地中海に流れ込みます。このエブロ川の中流、アラゴン州に、州都サラゴサ (Zaragoza) があります。伝承によると、紀元40年、当時カエサラウグスタ (CAESARAUGUSTA) と呼ばれていたサラゴサで使徒大ヤコブが布教を行っていたところ、エブロ川の岸辺で聖母がヤコブに出現して、この場所に聖堂を建てるように命じました。(註1) このとき聖母はジャスパーの柱の上に出現し、聖母の姿が消えたあとには、聖母子像と柱が残されました。大ヤコブはサラゴサで最初に改宗した7人の人々とともに、小さな煉瓦の礼拝堂を建てたといわれています。

 この時出現した聖母、その聖母を象(かたど)った像、及び聖母の命によって建てられた聖堂は、いずれも「柱の聖母」を意味するヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル (Nuestra-Señora del Pilar)、あるいはラ・ビルヘン・デル・ピラル (La Virgen del Pilar) の名で呼ばれます。サラゴサのヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルは、スペイン人の守護聖女なる聖母マリアの聖地として、スペイン最大の聖母の巡礼地となっています。




 ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルの崇敬は13世紀初頭に始まったと考えられています。使徒大ヤコブに聖母が出現したとされる伝承の記録は、教皇グレゴリウス1世 (Gregorius I, c. 540 - 590 - 604) が著したヨブ記註解 ("Moralia" sive "Expositio in Job") に遡ります。なお紀元40年は被昇天よりも前ですから、生前の聖母がパレスティナに在住しているまま、その分身がスペインで大ヤコブに現れたことになります。聖母の出現は珍しいことではありませんが、サラゴサのヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルは生前の聖母が出現したとされる唯一の事例です。


 イスラム化したイベリア半島をキリスト教徒が再征服するレコンキスタ(国土回復)の時代、アラゴンとナバラの王アルフォンソ1世 (Alfonso I, c. 1703 - 1134) が 1118年にサラゴサをムーア人から奪います。聖母の柱があった場所に建てられた聖母と同名の聖堂ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルは、当時モサラベ様式で建てられていましたが、これから時を措かずしてロマネスク式聖堂に建て替えられました。1562年から1583年までヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル聖堂の年代記作者であったディエゴ・デ・エスペス (Diego de Espes, + 1602) によると、1240年の時点で聖堂内には簡単な作りの礼拝堂があり、聖母の柱を安置していました。

 1293年以前に聖堂を建て替える必要が生じました。ちょうどこの頃教皇ボニファティウス8世(Bonifatius VIII 1235 - 1303) が回勅で「柱の聖母」に言及し、サラゴサ司教ウゴ・デ・マタプラナ (Hugo de Mataplana) はヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル聖堂の建て替えを命じます。こうして聖堂は建て替えられ、ロマネスク聖堂はタンパンにのみその姿を留めています。


【ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル 聖母子像の概要】




 聖母子像ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルは後期ゴシック様式の木像で、金箔が張ってあり、高さは 38センチメートルあります。聖母は戴冠し、右腕に抱いた幼子イエズスのほうに優しい眼差しを向けています。幼子イエズスは右手で聖母の衣を掴み、左手には鳥を留まらせています。

 聖母子像ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルは、アラゴン王フアン2世 (Juan II, 1397 - 1479) の妃であるブランカ1世 (Blanca I, 1387 - 1441) がその病の快癒に感謝し、1431年から1456年までサラゴサ大司教であったダルマウ(ダルマシオ)・デ・ムル・イ・セルベジョン (Dalmau/Dalmacio de Mur y Cervellon/Cervello, + 1456) を通じて寄進したものと考えられています。像の製作年代は 1435年頃で、サラゴサの南西約70キロメートルにあるダロカ(Daroca アラゴン州サラゴサ県)の聖像彫刻家、フアン・デ・ラ・ウエルタ (Juan de la Huerta, fl. 1431 - 62) の手によります。

 聖母子像ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルが立つ柱、ラ・サンタ・コルムナ (la Santa Columna) は世界軸で、紀元40年に聖母が出現して以来、場所が変わっていないといわれます。柱はジャスパー製で、ブロンズと銀のカバーに覆われています。柱の直径は 24センチメートル、高さは 170センチメートルです。

 なおヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルの像は、普段は下半身から柱の頂部にかけてマントで覆われていますが、このマントは毎月2日、12日、20日に外され、像の全身を見ることができます。この三つの日付は、毎年1月2日に祝われるラ・フィエスタ・デ・ラ・ベニダ・デ・ラ・ビルヘン(la Fiesta de la Venida de la Virgen 聖母御出現の祝日)、10月12日に祝われるラス・フィエスタス・デル・ピラル(las Fiestas del Pilar 柱の祝日)、5月20日に祝われるラ・フィエスタ・デ・ラ・コロナシオン・カノニカ(la Fiesta de la Coronacion Canonica 聖母戴冠の祝日)に、それぞれ因んでいます。


【ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル崇敬の歴史 その1 16世紀まで】

 ローマ時代、カエサラウグスタと呼ばれていたサラゴサには、多数のキリスト教徒が暮らしていました。この地のキリスト教徒については、重要なラテン教父のひとりであるカルタゴ司教キプリアヌス (Thascius Caecilius Cyprianus, + 258) の書簡に既に言及があります。現在ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルのバシリカが建つ場所には、この頃に既にキリスト教徒の集会所がありました。

 ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル、すなわち使徒大ヤコブに出現した柱の聖母への信仰も古くから存在しており、柱の聖母に捧げたミサが 368年から行われていました。

 またヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルを乗せる柱、エル・サント・ピラルに関する古い記録としては、4世紀後半から5世紀初頭にかけて生きたヒスパニアの詩人プルデンティウス (Aurelius Prudentius Clemens) により、キリストが鞭打たれた際に縛り付けられた柱であり、天使によってサラゴサに運ばれたと書かれています。


 716年、サラゴサはムーア人(イスラム教徒)に攻略されましたが、キリスト教徒は従前の信仰を持ち続けることを許され、当時サンタ・マリア・ラ・マジョル(Santa María la Mayor 中世の発音ではサンタ・マリア・ラ・マヨル)と呼ばれていたヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル聖堂は、サラゴサにおける重要な聖堂のひとつとして存続しました。キリスト教の聖堂を新規に建設することは認められませんでしたが、当時の年代記によると、「至福なる柱の聖母」信心会 (la Cofradia de la Bienaventurada Virgen María del Pilar) が結成されました。


 レコンキスタの過程において、1118年にサラゴサはアラゴン及びヤバラの王アルフォンソ1世 (Alfonso I, c. 1073 - 1134) に攻略されて、アラゴン王国の首都になりました。この時点でサンタ・マリア・ラ・マジョル聖堂は荒廃しており、アルフォンソ1世によってサラゴサ司教に任命されたペドロ・デ・リブラナ (Pedro de Librana, 在位 1118 - 1128) は聖堂の現状を嘆きましたが、1119年から1120年にかけて助祭長ミオランド (Miorrando) がイスパニア、フランス、イタリアを回って、聖堂補修のための浄財を集めることに成功しました。

 サラゴサにおけるヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル(柱の聖母)の信心は、イスラム時代にも絶えることが無かったので、レコンキスタ後すぐに再興しました。サラゴサ攻略に功績のあったベアルン子爵ガストン4世 (Gaston IV de Bearn, + 1131) はアルフォンソ1世によって、サンタ・マリア・ラ・マジョル聖堂内にあるヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル礼拝堂の守護者に任じられ、その死後には夫人タレサ・デ・アラゴン (Talesa de Aragon) によって、愛用の角笛が同礼拝堂に奉納されました。教皇エウゲニウス3世 (Eugenius III, + 1153)、アレクサンデル3世 (Alexander III, c. 1105 - 1181)、ケレスティヌス3世 (Celestine III, 1106 - 1198) は、合計6回の回勅において、ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルの信心に言及しています。

 13世紀に入ると、ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル(柱の聖母)の信心はスペイン中に広まり、信心会が結成されました。

 ローマ時代に建てられたサンタ・マリア・ラ・マジョル聖堂は、1261年頃までに洪水の被害を受けて荒廃してしまい、1291年、サラゴサ司教ウゴ・デ・マタプラナ(Hugo de Mataplana 在位 1296 - 1317)師は聖堂を当時主流となっていたゴシック様式に改築することを決断します。1296年、司教は教皇ボニファティウス8世 (Bonifacius/Bonifatius VIII, c. 1235 - 1294 - 1303) の支援を得るべく聖座に赴き、そのままローマで没しますが、教皇は回勅「ミーラービリス・デウス」("MIRABILIS DEUS") を発して、サンタ・マリア・ラ・マジョル聖堂再建への協力を広く呼び掛け、この事業を支援しました。やがて完成したゴシック式の新聖堂は、15世紀に入ると「サンタ・マリア・ラ・マジョル・イ・デル・ピラル」(Santa María la Mayor y del Pilar) という名称で呼ばれるようになりました。

 アラゴン王フアン2世 (Juan II, 1397 - 1479) の妃であるブランカ1世 (Blanca I de Navarra, 1387 - 1441) は重病から奇蹟的に回復し、これをサラゴサのヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル(柱の聖母)の執り成しによるものと考えて、1434年7月、サンタ・マリア・ラ・マジョル・イ・デル・ピラルに参詣し、また現在まで崇敬の対象となっている柱上の聖母子像を寄進しました。またフアン2世とその息子である次代のアラゴン王フェルナンド2世 (Fernando II, 1452 - 1516) は、サンタ・マリア・ラ・マジョル・イ・デル・ピラルにさまざまな特権を与えて保護しました。その後スペインを支配するようになったハプスブルク家も、サンタ・マリア・ラ・マジョル・イ・デル・ピラルを同様に保護しています。


【ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル崇敬の歴史 その2 カランダの奇蹟】




 アラゴン州南部のカランダ (Calanda, Teruel) に住むミゲル・フアン・ペリセル・ブラスコ (Miguel Juan Pellicer Blasco, 1617 - 1647) という19歳の若者の身に起こった「カランダの奇蹟」によって、ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルへの信心はさらに広まりました。

 1637年7月、二頭のラバが牽く荷車で小麦を運んでいたミゲル・フアンは、ラバから墜ちて右脚を車に轢かれてしまいました。8月3日から5日間、バレンシアの王立病院に入院しましたが、サラゴサに移ることを願い出て、10月1日にサラゴサに着き、すぐにヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルに参詣しました。その後ミゲル・フアンは当地の病院で右膝から下の切断手術を受けて、切断した脚は病院の墓地に埋め、木製の義足と松葉杖を使うようになりました。

 片脚を失ったミゲル・フアンはサンタ・マリア・ラ・マジョル・イ・デル・ピラル聖堂で行われている慈善事業に頼って聖堂の門付近で生活し、ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルの礼拝堂で行われるミサに毎日参列し、脚の傷の痛みを和らげるために、礼拝堂の燈明の油を傷跡に塗るようになりました。このような生活を二年ほど続けた後、ミゲル・フアンはカランダに帰ることにし、1640年3月初めに故郷に向けて出発しました。

 同月29日の夜、ミゲル・フアンは両親のベッドの脇に臨時に作ったベッドで眠っていました。ミゲル・フアンのベッドは、その夜家に泊まっていた兵士に貸していたのです。夜も更けた10時半か11時頃、両親が灯りを持って部屋に入ると、普段とは違った芳香が漂っていました。ミゲル・フアンが臨時のベッドで眠っているのを確かめようと母親が近寄ると、毛布代わりに掛けていた外套の裾から、二本の脚が突き出しているではありませんか。両親が息子を揺り起こすと、ミゲル・フアンはヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルの礼拝堂で燈明の油を傷跡に塗る夢を見たと話しました。三人が脚を調べると、新しい脚には切断の傷跡が付いていました。

 間もなくこの出来事はアラゴンじゅうで知られるようになり、1641年4月27日、サラゴサの大司教によって、奇蹟であると宣言されました。こうしてアラゴンにおけるヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルへの崇敬はますます盛んになり、セゴルベ及びカルドナ公ペドロ・アントニオ・デ・アラゴン (Pedro Antonio de Aragon, 1611 - 1690) は国王カルロス2世 (Carlos II, 1661 - 1700) の名によりコルテス(身分制議会)を招集して、ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルをアラゴンの守護聖女と宣言しました。


【ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル崇敬の歴史 その3 18世紀以降】

 ゴヤによるヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル聖堂のフレスコ画(部分)


 その後、1718年10月11日にバロック様式のヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル聖堂が完成しました。ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルの像は、1905年5月20日、スペイン全国から集まった貴顕と諸外国の外交官、及び前代未聞ともいうべき数の巡礼者たちの参列のもと、最初に幼子イエズス、次に聖母の順で、サラゴサ大司教の手により戴冠されました。ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルの下半身を覆うマントが毎月20日に外されるのは、このときの戴冠を記念しています。

 ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルはスペインにおいて正式に戴冠した6番目の聖母子像です。これより以前には、1881年にモンセラートの聖母、1886年にバルセロナのビルヘン・デ・ラ・メルセ(la Virgen de la Merced 恵みの聖母)、1889年にカナリア諸島テネリフェ島のビルヘン・デ・ラ・カンデラリア(la Virgen de la Candelaria)、1904年にセビジャ(セビリャ)のビルヘン・デ・ロス・レジェス(la Virgen de los Reyes 諸王の聖母)、同年にカタロニア、レウスの(la Virgen de la Misericordia 憐みの聖母)が戴冠しています。

 1946年6月24日、教皇ピウス12世により、ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル聖堂は小バシリカとされました。




(上) ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルの礼拝堂 スペインの古い絵葉書から


【ラス・フィエスタス・デル・ピラル 柱の祝日】

 毎年10月12日を中心に、その前の週末から後の週末までの10日間、ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルにおいて最も大切な行事であるラス・フィエスタス・デル・ピラル(las Fiestas del Pilar 柱の祝日)が盛大に挙行されます。この祭りでは様々な行事が行われ、大勢の巡礼者や観光客が訪れて、ふだんは60万人にすぎないサラゴサの人口が200万人に膨れ上がります。


 ラス・フィエスタス・デル・ピラルで行われる主な行事には、次のようなものがあります。

・10月12日の早朝に行われる幼子のミサ (Solemne misa de Infantes)。

・10月12日正午から行われるサラゴサ大司教のミサと、それに続いて行われるパレード。

・10月12日に行われるオフレンダ・デ・フロレス(Ofrenda de Flores 花の奉献)。ラス・フィエスタス・デル・ピラルの中心となる行事で、アラゴンをはじめとする世界各地の衣装で着飾った人々がヌエストラ=セニョラ・デル・ピラル聖堂の門の前に数多くの花を運んできて、金属の台に載せられた聖母像のために花のマントを作ります。この行事は1958年から行われています。

オフレンダ・デ・フロレス

・10月13日に行われるオフレンダ・デ・フルトス(Ofrenda de Frutos 果物の奉献)のパレード。この日の正午、行列がサンタ・エングラシア広場 (la plaza de Santa Engracia) を出発し、ヌエストラ=セニョラ・デル・ピラルの広場まで歩き、果物や野菜、飲み物などを聖母子像に捧げます。

・10月13日夜に行われるロサリオ・デ・クリスタル (Rosario de cristal) のパレード。1889年に始まった行事で、現在では内側からの照明で光り輝くようになった29基のカロサ (carroza) と呼ばれる山車がイグレシア・デル・サグラド・コラソン・デ・ヘスス(la Iglesia del Sagrado Corazón de Jesús イエズスの聖心教会)を出発して行進します。カロサのうち15台はロザリオのミステリウムを表します。




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