ローマの聖フランチェスカ 聖フランチェスカ・ロマーナ
Santa Francesca Romana, 1384 - 1440




(上) il Baciccio, "Frances of Rome giving alms", 1675, Getty museum, Los Angeles


 聖フランチェスカ・ロマーナ(ローマの聖フランチェスカ Santa Francesca Romana, 1384 - 1440)は貴族出身の信仰深い女性で、カシアの聖リタジャンヌ・ダルクと同時代人です。フランチェスカは同じくローマの貴族であった男性と十三歳の時に結婚して二男一女を儲けましたが、修道生活への希求を断ちがたく、およそ四十年間に亙る結婚生活の後に夫が亡くなるとすぐに在俗献身者会の修道院に移り住みました。この在俗献身者会とは一種の修道会で、フランチェスカが加わった会は、フランチェスカ自身が家庭の妻であったときに設立したものです。フランチェスカの在俗献身者会は、後にフランチェスカ・ロマーナ在俗修道会(伊 Le Oblate di Santa Francesca Romana 羅 CONGREGATIO OBLATARUM TURRIS SPECULORUM)となり、今日に至ります。

 聖フランチェスカ・ロマーナは、1608年、パウルス五世により列聖されました。祝日は帰天(死去)の日付と同じ五月九日です。


【聖フランチェスカ・ロマーナの生涯】

 フランチェスカ・ロマーナ、結婚後の俗名フランチェスカ・ポンツィアーニ(Francesca Ponziani)は、1384年、いずれもローマの貴族階級に属する父パオロ・ブッサ・デ・レオーニ(Paolo Bussa de' Leoni)と母ジャコベッラ・デ・ロッフレデスキ(Giacobella de' Roffredeschi)の間に生を享けました。母ジャコベッラはサンタ・マリア・ノヴァ教会(Santa Maria Nova)のベネディクト会士アントニオ・ディ・モンテ・サヴェッロ師(Dom Antonio di Monte Savello)に娘の宗教教育を委ね、フランチェスカは師によく従って聖女たちの生涯を学び信仰心を深めました。

 フランチェスカは修道生活を夢見ましたが、十三歳のとき父に命じられ、結婚せざるを得ませんでした。夫ロレンツォ・ポンツィアーニ(Lorenzo Ponziani)はローマの有力な貴族で、時の教皇ボニファティウス九世(Bonifatius IX, c. 1350 - 1389 - 1404)とは縁続きに当たりました。結婚後のフランチェスカはトラヴェステーレ地区の邸宅に移り、主婦として家庭を取り仕切りましたが、日曜日ごとにサンタ・マリア・ノヴァ教会に通って告解し、聴罪司祭の指示に従って、日常生活のうちに信仰を実践しました。婚家の人々はフランチェスカの信仰を見守り支え、とりわけ夫の兄嫁ヴァノッツァ(Vanozza)は良き理解者となってくれました。

 1400年、フランチェスカは十六歳で第一子の長男バティスタ(Battista)を出産します。続いて二十歳のときに第二子の次男エヴァンジェリスタ(Evangelista)、その三年後には末子の長女アニェーゼ(Agnese)が生まれています。しかしながらエヴァンジェリスタとアニェーゼは、1410年にローマで流行したペストの犠牲になりました。

 ペスト流行の際、フランチェスカと兄嫁ヴァノッツァは患者の看護に献身し、ペストの流行に続く飢饉の際にも貧者の救済に奔走しました。フランチェスカは自分の衣服や装身具を売って得たお金を貧者に分配するとともに、ローマの上流階級の女性たちに対し、虚飾を捨てて神に近づくように呼びかけました。

 1408年4月25日、ナポリ王ラディスラオ一世(Ladislao I, 1376 - 1414)がローマに侵攻し、永遠の都は無秩序な混乱に陥りました。このときポンツィアーニ邸は略奪されて財産が奪われ、夫ロレンツォはナポリ王が死去するまでローマから逃れざるを得ませんでしたが、フランチェスカはローマに残り、慈善の働きを続けました。フランチェスカは「ヨブ記」一章二十一節「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」を引用し、無条件の信仰、神への信頼を表明したと伝えられます。


 フランチェスカは、1425年8月15日、聖母被昇天の祝日に、サンタ・マリア・ノヴァ教会においてマリア奉献者会(伊 le oblate della Vergine)を創始しました。マリア奉献者会は、正式な修道誓願を宣立せずに信仰に基づく共同生活を送る在俗者の会です。フランチェスカのマリア奉献者会は、サンタ・マリア・ノヴァ教会に本拠を置くベネディクト会系修道会「オリーヴ山の聖マリア修道会」(伊 la Congregazione olivetana 羅 CONGREGATIO SANCTÆ MARIÆ MONTIS OLIVETI, O.S.B.Oliv.)に従属しました。マリア奉献者会の会員は、創立後八年あまりのあいだ、それぞれの家庭に在って信仰を守っていましたが、1433年3月、カンピドリオの丘のふもとにトール・デ・スペッキ(伊 Tor de' Specchi 鏡の家)を得て、共住生活が始まりました。

 マリア奉献者会を創設したフランチェスカ自身は、トール・デ・スペッキ修道院ができた後もしばらくのあいだ家庭に暮らしましたが、1436年に夫ロレンツォが亡くなるとトール・デ・スペッキに移り、会の指導者となりました。マリア奉献者会では野菜と水のみを口にし、粗い衣を身に着けて苦行を続けました。フランチェスカは指導者の地位にもかかわらず、最も辛い仕事を好み、貧者に対する物心両面の慈善に勤しみました。


 フランチェスカは 1440年5月9日に亡くなりました。「天が開き、天使たちが降りてきています。大天使が御業を終えて、私の前に立っておられます。附いて来るように合図しておられます」というのが、最期の言葉であったと伝えられます。マリア奉献者会の会則は、1444年、教皇エウゲニウス四世(Eugenius IV, 1383 - 1431 - 1447)により、正式に認証されました。フランチェスカが創始したマリア奉献者会は聖フランチェスカ・ロマーナ奉献者会(伊 le Oblate di Santa Francesca Romana 羅 CONGREGATIO OBLATARUM TURRIS SPECULORUM)と名を改め、現在に至ります。


【フランチェスカ・ロマーナの奇跡と崇敬】

 1378年から 1417年の西ヨ-ロッパではシスマ(羅 SCISMA 教会大分裂)が起こって、同時に二人、ときには三人の教皇が立ち、政治と社会に大きな混乱が起こりました。この状況のなか、ナポリ王ラディスラオ一世は、1408年、教皇領に侵攻しました。ナポリ王はアスコリ・ピチェーノ(Ascoli Piceno マルケ州アスコリ・ピチェーノ県)とフェルモ(Fermo マルケ州フェルモ県)を陥落させ、テヴェレ河口のオスティア(Ostia ラツィオ州ローマ県)の防備を解いた後、1409年4月25日、ローマに入城しました。教皇側の要人であったロレンツォ・ポンツィアーニは、ナポリ王側の刺客に襲われて重傷を負いました。

 その後ナポリ王側はロレンツォを拉致監禁し、解放の条件として長子バティスタを人質に取ることを要求しました。フランチェスカはやむなく指示に従うことになり、ナポリ側が指定したサンタ・マリア・アラチェリ教会(la basilica di Santa Maria in Aracoeli)の前までバティスタを連れて行きました。フランチェスカが息子の命を聖母に委ね、教会内で祈りを続ける間、ナポリ側の兵士はバティスタを馬に乗せましたが、馬は頑としてその場から動きません。ナポリ側は子供を人質にとることを諦め、バティスタは母の許に返されました。


 マリア奉献者会の家でパンが尽きたとき、フランチェスカが祈るとパン切れが増えて、全ての会員に行き渡る量となったうえ、籠一杯のパンが余りました。またある年の一月、森で木を伐っていた奉献者会の会員たちは渇きを覚えましたが、飲む物がありませんでした。フランチェスカは冬枯れの葡萄の木に近づくと、瑞々しい葡萄を取り出し、会員たちに配ったと伝えられます。

 この奇跡譚において、たわわに実った葡萄の果実は神が下さる物質的恩恵を表すとともに、キリストが贖い給うた生命(「ヨハネによる福音書」 15章 1 - 10節)をも象徴します。冬枯れの葡萄の木は十字架上に死せるキリストのメタファーであり、フランチェスカがそこから摘み取った瑞々しい果実は、救い主が与え給うた永遠の生命の形象化に他なりません。

 葡萄の果実は神の国、すなわち活きた信仰の象徴(「イザヤ書」 5章 1 - 10節、「マタイによる福音書」 21章 33 - 44節)でもあります。枯れていると見えた木から果実が得られた出来事は、一般社会で生活する俗人のうちにも神の国が到来していることを、目に見える形で示しています。


 フランチェスカの傍らには常に守護天使が附いていました。フランチェスカには天使の姿が見えており、天使の表情の微かな変化によって、自分のしようとすることが神の御心に適うかどうかを知ることができたと伝えられます。

 アンジェラという名前の、片腕が麻痺した女性がいました。市中でフランチェスカと出会ったアンジェラが聖女に助けを求めると、腕の麻痺はその場で癒されました。フランチェスカの死後、その遺骸は薔薇とジャスミンの芳香を放ち、大勢の病者に奇跡的治癒をもたらしました。


 1608年5月29日、フランチェスカ・ロマーナはパウルス五世(Paulus V, 1552 - 1605 - 1621)によって列聖されました。インノケンティウス十世(Innocentius X, 1574 - 1644 - 1655)はフランチェスカ・ロマーナの祝日を3月9日と定めました。1638年には墓所から遺骨が取り出され、聖遺物箱(展示用の棺)に移されました。


【フランチェスカ・ロマーナの図像学】



(上) Orazio Gentileschi, "Madonna col Bambino e Santa Francesca Romana", 1615/19, olio su tela, 157 x 270 cm, Galleria Nazionale delle Marche, Urbino


 カニヴェ(仏 canivets)やダンテル・メカニーク(仏 dentelles méchaniques)、小聖画に描かれるフランチェスカ・ロマーナは、ほとんどの場合ベネディクト会の修道衣、すなわち黒衣に白いヴェールを着けています。貧者にパンを施す場面がしばしば描かれ、またたいていの場合、傍らに守護天使を伴います。野菜の籠や驢馬、奉献者会の会則を象徴する本が描き込まれることもあります。聖母とともに描かれるフランチェスカは、聖母から幼子イエスを受け取り、その腕に抱きとめています。




(上) Nocolas Poussin, "Sainte Françoise Romaine annonçant à Rome la fin de la peste", c. 1657, huile sur toile, 101 x 130 cm, le musée du Louvre


 上の写真はニコラ・プッサンが 1657年頃に描いた油彩「ペストの終熄を告げる聖フランチェスカ・ロマーナ」(101 x 130 センチメートル、ルーヴル蔵 収蔵品番号 RF 1999.1)です。この作品は長い間所在が知れませんでしたが、1999年にパリの美術市場に現れ、4500万フランで買い取られてルーヴルに収蔵されました。この作品において中空に出現した聖フランチェスカ・ロマーナは、世俗の貴族女性の服装で描かれていますが、神への祈りを象徴する純白のヴェールを被っています。向かって右奥に、病に斃れた子供を運び去るメドゥーサのような人物が描かれていますが、これはペストの擬人化です。ペストは聖女と共に出現した守護天使によって追い払われています。聖女が両手に持つ折れた矢は、病禍が力を失いつつあることを示します。画面左奥、聖女の真下に斃れる犠牲者は、サンタ・チェチーリア・イン・トラヴェステレ教会(la Basilica di Santa Cecilia in Trastevere)にあるステファノ・マデルノの聖セシリアをモデルにしています。


(下) Stefano Maderno (1575 - 1636) , St. Cecilia, 1600, length 130cm, marble, Santa Cecilia in Travestere, Roma




 フランチェスカ・ロマーナはローマの守護聖人、並びにベネディクト会系奉献者会の守護聖人です。守護天使を伴うゆえに、フランチェスカ・ロマーナは乗り物を運転する人の守護聖人でもあります。



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