プラハの幼子イエス
Enfant Jésus de Prague


 プラハの幼子イエスの小聖画


 プラハの歴史地区マーラ・ストラナ(Malá Strana)に、勝利の聖母教会(Kostel Panny Marie Vítězné)があります。勝利の聖母教会は跣足カルメル会の聖堂で、蝋でできた高さ四十八センチメートルの像、「プラハの幼子イエス」を安置することで知られています。

 「プラハの幼子イエス」は奇蹟を起こす像として信心の対象になっており、豪華な刺繍がある衣に包まれ、頭に王冠をかぶり、左手に世界球を載せ、右手を挙げて人々を祝福しています。像の衣は、願を掛けて願いが叶った人々から寄進された感謝の徴(しるし)です。


【プラハの幼子イエス 崇敬の歴史】

・ハプスブルク家のスペインからボヘミアへの到来

 この像は元々 1340年頃にスペインの修道士によって制作されました。

 プラハは旧ボヘミア王国の首都ですが、1437年以降ハプスブルク家出身者が王位に就き、やはりハプスブルク家の支配下にあったスペインと強いつながりを有しました。このような情勢を背景に、ボヘミアの貴族ペルンシュテイン公ヴラティスラフ二世(Vratislav II. z Pernštejna, 1530 – 1582)は、マンリケ・デ・ララ家のマリア(María Maximiliana Manrique de Lara y Mendoza, 1538 - 1608)をスペインから妻に迎えました。幼子イエス像はマリア・デ・マンリケ・デ・ララによってスペインからボヘミアにもたらされたのですが、この像はマリアの母がアビラの聖テレサ(イエスの聖テレサ Santa Teresa de Ávila/Jesús, 1515 - 1582)から与えられたものであると伝承されています。


・フス戦争とカルメル会

 跣足カルメル会 勝利の聖母教会


 ボヘミア王国はフス派をはじめとする改革派勢力の強い地域でした。教皇パウルス五世はカトリックの神聖ローマ皇帝フェルディナント二世(Ferdinand II. HRR, 1578 - 1637)の求めに応じ、1620年6月、カルメル会総長ドミンゴ・デ・ヘスス=マリア(Domingo de Jésus María, 1559 - 1630)を戦場に派遣しました。ドミンゴ神父は聖母被昇天の祝日(八月十五日)に脱魂状態に陥り、カトリック側の勝利を幻視していましたが、プロテスタント軍に略奪破壊されたストラコニッツェ(Strakowitz)城で、救世主降誕の日の聖母を描いた聖画が損壊されているのを見つけました。ドミンゴ神父にとってこれはプロテスタントによる瀆神的イコノクラスム(聖画像破壊)の実例に他なりません。1620年11月8日、プラハ西郊ビーラー・ホラ(Bílá hora)で戦闘が行われたとき、神父はこの聖画を首から下げ、クルシフィクスを手に馬にまたがり、詩編を大声で唱えながら戦場をめぐって神聖ローマ帝国軍を励まし続けました。この戦闘において、カトリックの神聖ローマ帝国軍はプロテスタントに勝利しました(註1)。

 ビーラー・ホラにおけるドミンゴ・デ・ヘスス=マリア師の活躍を多とした神聖ローマ皇帝フェルディナント二世はプラハにカルメル会を招き、1624年11月8日、当地に跣足カルメル会修道院が開かれました。フェルディナント二世とプラハ市参事会は修道院に聖堂を寄進しました。


 カルメル会では幼子イエスへの信心が盛んでした。ポリクセナ・フォン・ロプコヴィッツ(Polyxena von Lobkowicz, Polyxena Rosenberger von Pernstein, 1566 – 1642)は前出のペルンシュテイン公ヴラティスラフ二世とマリアの娘で、ビーラー・ホラの戦いにおける総司令官ズデニェク・アダルベルト・フォン・ロプコヴィッツ(Zdeněk Adalbert von Lobkowicz, 1568 - 1628)の妻でしたが、ポリクセナは祖母がアビラの聖テレサから受け取ったとされる幼子イエス像を、夫が亡くなった 1628年に、プラハのカルメル会に寄進しました。


・プラハの幼子イエス像の破壊と修理

 勝利の聖母教会に安置されたプラハの幼子イエスは、まもなく霊験あらたかな聖像として人気を集めるようになりましたが、1631年、プラハはルター派であるグスタフ・アドルフのスウェーデン軍に占領され、勝利の聖母教会も略奪を受けました。幼子イエス像はその際に祭壇の裏に投げ捨てられて両手が取れ、そのまま放置されました。

 1637年にカルメル会士たちが修道院に戻った際、神の御母のキリルス(Le Vénérable Père Cyrille de la Mère de Dieu, carme déchaussé, 1590 - 1675)という修道士によって、破損したまま放置されている幼子の像が発見されました。修道院長はキリルス修道士が幼子の像を礼拝堂に安置することを許可しましたが、両手の修理は費用の問題であきらめざるを得ませんでした。プラハのカルメル会修道院は当初皇帝フェルディナント二世の財政的援助を受けていましたが、皇帝がプラハを離れて以降、財政が逼迫していたのです。

 帝国の元高官であったダニエル・ヴォルフ(Daniel Wolf)が、その頃は自身も富裕でなかったにもかかわらず費用の寄進を申し出て、像は修理されましたが、すぐに再び破壊されました。ダニエル・ヴォルフは再び修理費用の寄進を申し出ましたが、長年の宮仕えに対する慰労金がちょうどその頃に帝室から支払われたことでこの寄進が可能になり、1638年、像は再修理されました。


・プラハの幼子イエスに対する崇敬の発展

 無事修復されたプラハの幼子イエス像は、数々の奇跡譚を生み出しました。像は再び篤い崇敬を集めるようになり、これを安置する新礼拝堂の建設が構想されました。新礼拝堂は、1644年1月14日、イエスの御名の祝日に祝別されました。神の御母のキリルス修道士によって始められたプラハの幼子イエスへの信心は、十七世紀に入ってますます盛んになり、神聖ローマ皇帝フェルディナント三世(Ferdinand III. HRR, 1608 - 1657)やマンスフェルト公フィリップ(Philipp von Mansfeld, 1589 - 1657)も、幼子の像を崇敬するためにプラハを訪れました。1648年7月26日にプラハに入城したプロテスタントのスウェーデン軍は、幼子イエス像を崇敬する人々の熱意に驚愕しました。 1651年、再び建設された新礼拝堂に幼子の像が安置され、新礼拝堂は 1655年3月19日、プラハ補佐司教ド・コルティ師(Mgr. de Corti)によって祝別されました。同年、プラハの幼子イエスには金の冠が奉献されました。

 1737年には、プラハの幼子イエス像の歴史と信心、幼子の像によって得られた数々の奇跡をまとめたハギオグラフィが成立しました。修道院付属聖堂では院長席の右側に新しい側祭壇が造られ、1741年1月13日、プラハの幼子イエス像はその上に安置されました。中央ヨーロッパ各地のカルメル会修道院を拠点に、数多くの信心会が設立されました。

 神聖ローマ皇帝ヨーゼフ二世(Joseph II. HRR, 1741 - 1790)は代表的な啓蒙専制君主のひとりですが、ヨーゼフ二世による改革には反カトリック的な側面を有しており、非常に多くの修道院が閉鎖の憂き目にあいました。プラハにおいても教会と修道院を合わせて七十か所が閉鎖され、プラハの幼子像を安置する修道院も廃院となって中等学校の校舎になりました。


・近現代におけるプラハの幼子崇敬

 プラハの幼子を安置する「勝利の聖母」教会は 1878年に修復工事が始まり、新しい祭壇が設置されました。プラハ大司教カレル・カスパル師(Karel Kašpar, 1870 - 1941)は幼子イエスに対する信心の再興をプラハの人々に促し、1913年3月30日、カルメル会総長(Préposé Général)に直属する信心会が再び設立されました。共産主義時代のチェコにおいて幼子イエスへの信心は抑圧されましたが、共産主義政権が崩壊して以降、プラハの幼子イエスは毎年数千人の巡礼者を集めています。像の奇跡によって病気が治癒したという巡礼者も多く、プラハの幼子を写した像は数多くのカトリック教会に置かれています。



註1 この聖画はクイリナーレ(ローマ)のカルメル会修道院に運ばれ、「勝利の聖母」と名付けられて崇敬を受けることになります。聖画「勝利の聖母」には、ビーラー・ホラの戦いでプロテスタント側の戦旗二十五本が供えられたほか、カトリック諸国から冠や宝石などが寄進されました。



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