アルテッティングの聖母の礼拝堂
Gnadenkapelle Unserer Lieben Frau von Altötting



(上) アルテッティングのグナーデンカペッレ(手前)


 アルテッティングはバイエルン自由州(ドイツ)の小さな町で、毎年百万人以上の巡礼者が訪れるドイツ最大の聖母マリアの巡礼地です。ドイツには反宗教改革の時代に起源を有する巡礼地が多いですが、アルテッティングの礼拝堂の起源は 7世紀に遡り、中央ヨーロッパ最古の巡礼地のひとつということができます。


【ゲルマン土着の樹木崇拝とキリスト教】

 キリスト教化される以前、ゲルマン民族の宗教において、聖なる樹木は世界軸の役割を果たしていました。ゲルマン人たちはそれら神聖な樹木の根元で生贄などの奉献物を奉げたり、リースを掛けたりして崇拝していました。ニレ等の樹木を伐ることへの禁忌や、樹木を女性名、特に女神の名で呼ぶ習慣も見られ、樹木の洞(うろ)に座る美しい少女の姿をした女神の伝承も多く残っています。

 これら神聖な樹木はキリスト教化の過程でそのほとんどが伐り倒され、キリスト教の聖堂で置き換えられました。伐り倒された神聖な樹木が聖堂の建築材として用いられることもありました。ヘッセン州フリッツラー (Fritzlar) ではドイツ人の使徒聖ボニファティウス (Hl. Bonifatius, der Apostel der Deutschen, c. 672 - 754) が 723年にトール (Thor) のニレの木を伐り倒してキリスト教の優越を示し、その材を使用して聖堂を建てたといわれています。

 ボニファティウスの例でわかるように、キリスト教はゲルマンの神々と対決しつつも土着の習俗を完全に切り捨てずに、むしろキリスト教のなかに取り入れる道を選びました。樹木を伐り倒した跡に教会堂を建てることで、その土地が本来有していた聖地の機能を維持したり、巨木の洞(うろ)から聖母像が発見されたという伝承によってゲルマンの聖なる樹木をキリスト教化したうえで、「聖母マリアの菩提樹」(Marienlinden) として大切にする例も多く見られます。




(上) トールのニレを伐り倒す聖ボニファティウス 19世紀の版画


 アルテッティングの聖母の礼拝堂の隣にも、かつては樹齢数百年のゲルマンの神聖な菩提樹が立っており、この場所がキリスト教以前の時代から聖地であったことがわかります。

 17世紀、アルテッティングにバロック式の大バシリカ建設が計画され、ゲルマン異教時代からの聖なる菩提樹は大バシリカ建設の妨げになったので 1674年に伐り倒されました。聖なる菩提樹の伐採に憤慨した民衆が資金協力を拒んだためにバシリカ建設は暗礁に乗り上げ、基礎工事が終わった段階で計画は放棄されました。18世紀には、もとの菩提樹が立っていた場所に新しい菩提樹が植えられました。また1980年には、当時のローマ教皇ヨハネ=パウロ2世が聖コンラート (Hl. Konrad von Parzham, 1818 - 1894) の修道院 (Kapuzinerkloster Altötting) の前に菩提樹を植えました。


【アルテッティングの黒い聖母】

 アルテッティングの黒い聖母 (Unsere Liebe Frau, Altötting)

 680年、聖ルパート (Hl. Rupert von Salzburg, c. 660 - 710) はアルテッティングにおいてバイエルン伯テオド2世 (Theodo II, c. 625 - c. 716) に洗礼を施し、伯の許可を得てバイエルンで布教を行って、多数の貴族と民衆をカトリックに改宗させました。伯は異教の聖地であったアルテッティングに八角形の洗礼堂を建て、堂内に聖母像を安置しました。現在の聖堂の八角形の塔が当時の洗礼堂の場所にあたります。

 907年、アルテッティングはフン族の略奪を受け、以後300年間にわたって荒廃します。最初の聖母像もこの頃に失われ、現在の聖母像は 1330年頃のものです。

 1489年、3歳の男の子が川で溺れ、3時間後に水から引き上げられるという水難事故がありました。子供の母親を含む数人の人々は悲嘆にくれつつ、冷たくなった男の子をアルテッティングの聖母のもとに運んで祭壇に寝かせ、みなで跪いて祈ると、男の子はまもなく蘇生しました。

 この奇跡に続いて、さらにもうひとつの奇跡が起こりました。ある農夫が穀物を満載した荷車を馬に引かせて家に帰る途中で、馬にまたがっていた6歳の息子が落馬して荷車に轢かれるという事故が起こりました。子供が助かる見込みは無いと思われましたが、家族が聖母に祈ると、男の子は次の日に元気になっていました。

 アルテッティングの聖母が起こした奇跡の噂は瞬く間にヨーロッパ中に広まり、巡礼者を集める聖地になりました。

 バイエルン選帝侯マクシミリアン1世 (Maximillian I, 1573 - 1651) は 30年戦争 (1618 - 1648年) に際して自分の血で誓いを書き、自身とバイエルンをアルテッティングの聖母に捧げました。このとき以降、バイエルン王の心臓は「聖母の庇護の下に」(sub umbra Magnae Mariae) アルテッティングの礼拝堂に安置されることになりました。 

 アルテッティングの聖堂のギャラリーは数百のエクス・ヴォートー(感謝の奉献物)で隙間無く埋め尽くされ、聖母崇敬の熱心さを物語っています。

 バイエルン王ルートヴィヒ2世 (Ludwig II, 1845 - 1886) の心臓を納めた容器

 エクス・ヴォートー



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