ラ・シャペル・デュ・ロゼール ロザリオ礼拝堂
La Chapelle du Rosaire, dit la Chapelle Matisse, Vence




(上) ラ・シャペル・デュ・ロゼール(La Chapelle du Rosaire, dit la Chapelle Matisse, Vence ロザリオ礼拝堂)内部。写真手前の部分で測った礼拝堂の幅は、およそ五メートルです。



 フランスの画家・彫刻家・切り絵作家であるアンリ・マティス(Henri Matisse, 1869 - 1954)は、二十世紀の美術界に最も大きな影響を与えた芸術家のひとりです。作品を特徴づける美しい色彩ゆえに、マティスはしばしば「色彩の魔術師」(仏 un magicien des couleurs)とも呼ばれています。


 モニク・ブルジョワ


 六角形のフランス本土は、南東端のマントン(Menton)でイタリアと接します。マントンの西隣がモナコ、モナコの西隣がニース(Nice)です。マティスは北フランスのル・カトー・カンブレジ(Le Cateau-Cambrésis オー=ド=フランス地域圏ノール県)の出身ですが、二十九歳であった 1898年、結婚後間もない時にコルシカに旅して西岸のアジャクシオ(Ajaccio コルス=デュ=シュド県)に滞在し、地中海沿岸に将来の居を定めようと決意します。1917年にニースにアトリエを購入し、爾後亡くなるまでの三十数年間をニースとその近郊のヴァンスで過ごしました。

 ニース時代の 1941年1月、当時七十二歳であったマティスは結腸癌で重篤な病状に陥り、リヨンで大手術を受けました。この手術は成功し、マティスは三か月間の入院を余儀なくされつつも、5月になってニースに戻ることができました。マティスはこれ以後の人生を「拾った命」と考えました。




(上) 「モニクと偶像」("Monique et L'Idole", 1942)


 翌 1942年、マティスは地元の新聞に次の広告を出します。

     L'artiste, Henri Matisse, cherche une infirmière de nuit, jeune et jolie.    芸術家マティス宅で夜間担当看護師求む。若い美女に限る。

 この広告に応募してきたのが、モニク・ブルジョワ(Monique Bourgeois, 1921 - 2005)でした。モニクは家族が戦争で困窮し、ニースで仕事を探す傍ら看護学生として学び始めたところでした。

 この頃のマティスは妻と別れて助手リディア・デレクトルスカヤ(Лидия Николаевна Делекторская, Lydia Nikolaevna Délectorskaya, 1910 - 1998)と住んでいましたが、リディアとモニクは打ち解けて、やがてモニクはマティスとも話をするようになります。マティスがモニクに初めて作品を見せて感想を求めたところ、モニクは「色がとっても素敵です。でもデッサンがもうひとつですね」("J'aime beaucoup les couleurs mais le dessin, pas trop !")と答えました。マティスはモニクの裏表の無さを大いに気に入り、この逸話を何人もの友人たちに話しています。モニクには絵を描く趣味があったので、マティスはモニクに作品を見せてもらい、助言を与えています。




(上) 「緑のローブとオレンジ」("La Robe verte et les oranges", 1943)


 マティスの体調がさらに回復して夜間の看護師が必要なくなり、雇用の期限が切れると、モニクは看護学校に戻りましたが、ある日マティスから電話がかかってきて、絵のモデルになるよう依頼されました。

 カトリック教会は離婚することを許しません。今日でも、一旦結婚した男女は、民法上の離婚が成立していても、教会が保存する教区民名簿の上では夫婦のままです。とりわけ第二次世界大戦期以前のフランスではカトリック信仰が市民道徳と綯(な)い交ぜになっていたので、妻と別れて若い女秘書リディアと同棲するばかりか、女を裸にしてポーズを取らせるマティスの家は、保守的な人々からは邪淫と悪徳の巣窟のように思われていました。真面目な娘であったモニクにとって、マティスの絵のモデルになるのは考え難いことでした。しかしながら無下に断る訳にもゆかずにマティス邸を訪ねると、モニクを迎えたリディアは、袖無しのドレスを着るようにとの画家の指示をモニクに伝えました。マティスはモニクの豊かな髪と肉付き良く滑らかな腕を気に入って、それを描きたかったのです。モニクは袖無しドレスにビジュ・ド・ファンテジ(コスチューム・ジュエリー)を着け、ポーズを取るようになりました。




(上) ヴィラ・ル・レーヴ(夢荘)で寛ぐマティス アンリ・カルティエ=ブレッソンが 1944年に撮影した写真。


 ニースから二十キロメートルほど西に、海沿いの町ヴァンス(Vence プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏アルプ=マリティーム県)があります。1943年、ニースは数度に亙る空襲を受け、マティスのアパルトマンも爆弾がかすめました。このためマティスはヴァンスに移り、ヴィラ・ル・レーヴ(仏 Villa Le Rêve 「夢荘」の意)を住まい兼アトリエとします。ヴィラ・ル・レーヴの向かい側はドミニコ会の女子修道院で、病気療養する俗人女性たちを受け容れていました。モニクはニースに残っていましたが、体を壊し、ドミニコ会で療養するために、同年秋、ヴァンスに移りました。修道院はヴィラ・ル・レーヴの目の前であったので、モニクはマティスの世話とモデルの仕事をすることができました。

 モニクはもともと信仰深い女性でしたが、修道院滞在中に修道女になる決意を固めます。ヴァンスの女子修道院はモンテル(Monteils オクシタニー地域圏アヴェロン県)にある女子修道院の分院でした。翌 1944年二月、モニクはマティスとリディアに別れを告げてモンテルに行きます。同年九月、モニクは修練女ジャック=マリー(Sœur Jacques-Marie)となり、1946年9月8日、修練期を終えて初誓願を誓立しました。初誓願を立てたジャック=マリー(モニク)は同年ヴァンスに戻り、再びマティスの看護を始めて画家を喜ばせました。

 ジャック=マリー修道女が属するヴァンスのドミニコ会女子修道院では、ガレージを礼拝堂として使っていましたが、建物の傷みが激しくなったので、新礼拝堂を建設することとなりました。ジャック=マリー修道女はステンドグラス窓の設置を提案し、1947年8月、聖母被昇天の意匠を描いてマティスに見せました。マティスはジャック=マリー修道女のデッサンを褒め、ステンドグラスとして実現するように励ましました。




(上) 1951年に完成した新礼拝堂、ラ・シャペル・デュ・ロゼール


 礼拝堂の設計は、建築家でもあるドミニコ会のルイ・ベルトラン・レシギエ修道士(Frère Louis-Bertrand Rayssiguier, 1920 - 1956)が担当することになりました。レシギエ修道士は 1944年に終生誓願を立てたソミュール生まれの若者で、俗名をルイ・エドゥアール・ピエール・レシギエ(Louis Édouard Pierre Rayssiguier)といい、ジャック=マリー修道女よりも一つ年長の二十七歳でした。レシギエ修道士は女子修道院のすぐそばにマティスが住んでいることを知り、修道女たちを介して画家に紹介してもらいました。このときマティスは建築家レシギエ修道士と新礼拝堂について話し合い、翌日、ステンドグラスをデザインすることを修道院に申し出ました。

 新礼拝堂の建設は、1948年に始まりました。一月に設計が完了し、オーギュスト・ペレ(Auguste Perret, 1874 - 1954)の総監督の下、現場の工事が始まりました。

 マティスはジャック=マリー修道女に依頼して、レシギエ修道士が設計した建物の十分の一模型を、自宅内に合板で作ってもらいました。マティスはグアッシュ(不透明水彩)を塗った紙を切り抜いて、内陣に設置するエルサレムのステンドグラス、及び身廊に設置する蜂のステンドグラスの模型を作りました。次いでマティスは礼拝堂内壁に描く聖母子像と十字架の道行の習作に取り掛かりました。

 1949年1月、マティスはヴィラ・ル・レーヴからニースのアパルトマンに移り、聖母子、聖ドミニコ、十字架の道行を主題とする壁画の実物大習作を、梯子を使って制作しました。ステンドグラスは生命樹を主題とする意匠に変更されました。この年の12月12日、ニース司教によって、新礼拝堂の定礎が行われました。

 1950年になるとマティスはヴァンスの建築現場に入り、磁器製の壁面パネルに聖母子、聖ドミニコ、十字架の道行を描きます。ステンドグラスの制作はポール・ボニ(Paul Bony, 1911 - 1982)が担当しました。マティスは内陣裏の外壁上部に円形の聖母子像を描き、また礼拝堂と調和する司祭の祭服もデザインしました。

 新礼拝堂ラ・シャペル・デュ・ロゼール(La Chapelle du Rosaire ロザリオ礼拝堂)は、1951年6月25日、ニース司教によって祝別されました。マティスにとって、四年の間かかり切りになったラ・シャペル・デュ・ロゼールは、生涯最後の大仕事でした。礼拝堂が祝別されて三年後の 1954年11月3日、マティスはニースで亡くなり、シミエ墓地(le cimetière de Cimiez)に埋葬されました。


(下) 体の自由が利かなくなっていたマティスは、棒の先にチョークを取り付け、ラ・シャペル・デュ・ロゼールの壁画下絵を制作しました。




 結腸癌で死を覚悟したマティスは、1941年の大手術後の人生を、二度目に与えられた命と考えました。人生の最後になって、残された力と時間のすべてをラ・シャペル・デュ・ロゼールに注いだマティスは、この仕事について次のように語っています。

     この礼拝堂を望んだのは私ではない。私は、これを造るよう強制された。義務として課せられたのだ…。ピカソが私にとてもよいことを言ったことがある。「われわれは労働者のように働かなければいけない。」 しかし礼拝堂はそれ以上のものだった。すべては他の場所から、私より高い所からやってきた。
       金寅中「マティスの遺書」 末木友和訳

 色彩の魔術師マティスはラ・シャペル・デュ・ロゼールの仕事を通して可感的事物を超越する世界に触れ、これを形象化する仕事を果たしました。マティスはフランス北東部の町ル・カトォ=カンブレシス(Le Cateau-Cambrésis オー=ド=フランス地域圏ノール県)の出身ですが、1952年11月8日、故郷におけるマティス美術館の開館に際し、前年に完成したラ・シャペル・デュ・ロゼールについて次のように語っています。日本語訳は筆者(広川)によります。

      C’est dans la création de la chapelle de Vence que je me suis enfin éveillé à moi-même et j’ai compris que tout le labeur acharné de ma vie était pour la grande famille humaine, à laquelle devait être révélé un peu de la fraîche beauté du monde par mon intermédiaire. Je n’aurai donc été qu’un médium.     ヴァンスの礼拝堂を創ることで、私はようやく眠りから覚め、自分が一生かけて追求してきた仕事が、人類という大家族のためであったことを悟りました。世界が有する新しい美を少しばかり、人類に対して示す必要がありました。その仲介となったのが、私だったのです。ですから私は、ただの伝達手段に過ぎません。

 この言葉には、創造主の前にへりくだる神のしもべマティスの姿がよく表れています。


 しかしながらその一方で礼拝堂完成から没するまで四年間、マティスは絵筆を執らず、美しい色彩の切り絵細工に没頭しました。感覚で捉え得る世界を、マティスは亡くなるまで目いっぱいに楽しんだのです。ラ・シャペル・デュ・ロゼールについても「キリスト教徒でなくても、そこで心が高まり、考えが開かれ、気分そのものが軽やかになるような場所であってほしい」と語っています。

     私の望みは、礼拝堂を訪れる人たちの心が軽やかになることだ。そしてキリスト教徒でなくても、そこで心が高まり、考えが開かれ、気分そのものが軽やかになるような場所であってほしいと思う。
       金寅中「マティスの遺書」 末木友和訳

 1908年に発表した文章で、マティスは自分が理想とする芸術を「あらゆる頭脳労働者を肉体的疲労から癒してくれる、何か良い肘掛椅子のようなもの」と形容しています。小難しい解釈から離れて楽しめるラ・シャペル・デュ・ロゼールのステンドグラスと壁画は、マティス作品にふさわしい美の形となっています。



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