ジュアール、ベネディクト会修道院ノートル=ダム
L'abbaye Notre-Dame de Jouarre


 修道院全景。古い絵葉書。


 パリから東に60キロメートルほど離れた小さな町ジュアール(Jouarre イール=ド=フランス地域圏セーヌ=エ=マルヌ県)に、ベネディクト会の女子修道院ノートル=ダム (L'abbaye Notre-Dame de Jouarre) があります。

 ジュアールのベネディクト会修道院ノートル=ダムは7世紀に起源を遡(さかのぼ)る重要な巡礼地でしたが、フランス革命期の1792年に破壊されました。その後1837年に同じ場所に再建され、現在では女子修道院となっています。

 「祈り、働け」(ORA ET LABORA) というヌルシアの聖ベネディクトゥスの教えに従い、ジュアール修道院の一日は祈りの時間と労働の時間に二分されています。労働のための時間には菜園と果樹園での農作業、クレシュや聖画の制作が行われています。


【ベネディクト会修道院ノートル=ダム・ド・ジュアールの歴史】

 6世紀末から7世紀にかけては、聖コルンバヌス(コロンバン・ド・リュクスイユ Colomban de Luxeuil, 540 - 615)をはじめとするアイルランド人宣教師によって、フランク王国とその周辺に修道院が次々と開かれた時代でした(註1)。ネウストリア王クロタール2世 (Clotaire II, 584 - 629) の重臣オーテール (Autharius, Saint Authaire) の家に、610年頃、聖コルンバヌスが滞在し、オーテールとその一人目の妻アイガ (Aiga) との間の三人の子供のうち、この時点で生まれていた年長の息子ふたり、すなわちアドン (Adon) とダドン (Dadon) を祝福しました。このアドンが、630年、ジュアールに複合修道院(男子修道院と女子修道院が併設されたもの)を創建することになります。また父オーテールの二人目の妻モード (Mode) は、後にジュアールの修道院に隠遁します。

 ジュアール修道院の初代院長には、モードの姪聖テルシルド (Ste Telchilde, + 667) が就任しました。またテルシルドの弟である尊者アジルベール (Agilbert, + 685) はドーチェスター (Dorchester on the Thames)、次いでパリの司教であった人ですが、修道院に地下礼拝堂サン・ポールを設け、オーテール家の墓所としました。地下礼拝堂サン・ポールはメロヴィング美術の優れた作例となっています。

 当初ジュアールの修道院は聖コルンバヌスの厳格な修道規則に従っていましたが、8世紀にシャルルマーニュがエクス=ラ=シャペル Aix-la-Chapelle (アーヘン Aachen)に招集した教会会議で、すべての修道院は聖ベネディクトの修道会則に従うことになり、ジュアール修道院も以前よりも緩やかな聖ベネディクト会則を採用しました。

 836年から888年まで在任した修道院長エルマントリュード (Ermentrude) の下で、ジュアール修道院は発展の時代を迎えます。修道院に安置された聖遺物が大勢の巡礼者を惹きつけて収入をもたらし、耕地の整備、建物の増築、病院、救癩院、救貧院の建設が行われました。この時代はジュアール修道院が物質的にも繁栄した時期でしたが、887 - 888年頃、ノルマン人がパリからマルヌを遡上してこの地域に侵入しました。この頃からしばらく、ジュアール修道院に関する記録が目に見えて減ることから、修道院も掠奪を受けて荒廃したと考えられます。

 12世紀に入ると、ジュアール修道院でも他の修道院と同様に研究や写本作りが行われ、各地の修道院間の交流も盛んになります。また修道院が領主として大きな権限を有するようになり、市の開催や土地分配の管理、司祭の任命、領主裁判権の行使を行います。1225年、ジュアール修道院は教皇直属となり、この状態はその後450年間にわたって続きます。

 14世紀には百年戦争のゆえにこの地域は荒廃し、ジュアール修道院でも略奪と破壊が行われて、その影響は15、16世紀まで及ぶことになります。荒廃して放棄され、修道院経営を圧迫していた土地が、1470年頃に貧民に分け与えられ、今日まで続く入会(いりあい)地の起源となりました。1525年から1543年にかけて教会と修道院の修復が行われましたが、1544年にはカール5世との戦争があったために、修道女たちはジュアール修道院から退避しました。

 17世紀になるとジュアール修道院は勢力を回復しましたが、修道院長アンリエット・ド・ロレーヌ尼 (Henriette de Lorraine, 1631 - 1693) の時代にモー司教ボシュエ (Jacques-Benigne Bossuet, 1627 - 1704) と対立したために、アンリエットは修道院長の座を追われました。

 1790年、修道院の所領は没収され、建物群は売却されます。1792年には廃院が宣告されて修道女たち58名は退去し、修道院敷地は34の区画に分割されて、翌年売却されました。

 ジュアール修道院を追われた修道女たちは、1828年、プラディン(Pradines ローヌ=アルプ地域圏ロアール県)のベネディクト会修道院サン=ジョゼフ=エ=サン=ピエール (l'abbaye Saint Joseph et Saint Pierre) の設立者テレーズ・ド・バヴォ尼 (Therese de Bavoz, 1768 - 1838) に助力を求め、1837年12月7日、テレーズ・ド・バヴォ尼は11名の修道女を率いてジュアールに到着しました。こうして1837年から1840年まで最初の修道院長を務めたサント・シンフォローズ・バゴ尼 (Sainte Symphorose Bagot) の下、ジュアール修道院の活動が再開しました。1840年から1881年まで修道院長を務めたアナターズ・ジルカン尼 (Athanase Gilquin) の時代に、ジュアール修道院は本来所有していた建物の大部分を買い戻し、1863年には聖堂を再建しました。

 こうして修道院は飛躍的な発展を遂げましたが、やがて第三共和政のカトリック教会に対する対決姿勢が鮮明となり、1903年に共和国による教会財産の接収が実施されると、ジュアールの修道女たちはベルギー、次いでオランダに亡命しました。

 第一次世界大戦中の1915年、ジュアール修道院は軍の病院となりました。修道女たちがジュアールに戻ったのは、大戦終結後の1919年でした。


【ジュアール修道院とフェデラシオン・CIM】

 現在、ジュアール修道院は他の六つの修道院とともに「ラ・フェデラシオン・デュ・クール・イマキュレ・ド・マリ」(la Fédération du Cœur Immaculé de Marie フランス語で「マリアの汚れなき御心連盟」の意)の一員です。下の画像は「ラ・フェデラシオン・デュ・クール・イマキュレ・ド・マリ」の印章で、玉座の聖母を十二の星が取り巻いています。周囲に描かれているラテン語は次の通りです。

 SIGILLUM FOEDERATIONIS A SANCTO CORDE MARIAE SANCTIMONIALIUM ORDINIS SANCTI BENEDICTI  ベネディクト会女子修道院の「マリアの汚れなき御心連盟」印章




 「ラ・フェデラシオン・デュ・クール・イマキュレ・ド・マリ」を構成する修道院はいずれもベネディクト会女子修道院で、次の通りです。


・フランス国内 (六箇所)

 ジュアール アベ・ノートル=ダム(聖母修道院) l'Abbaye Notre Dame de Jouarre

 ジュアール(Jouarre イール=ド=フランス地域圏セーヌ=エ=マルヌ県)にあるベネディクト会女子修道院。7世紀に創建された修道院が1792年に破壊され、1837年に同じ場所に再建されたもの。

 プラディーヌ アベ・サン・ジョゼフ・エ・サン・ピエール(聖ヨセフ聖ペトロ修道院) l'Abbaye Saint Joseph et Saint Pierre de Pradines

 プラディーヌ(Pradines ローヌ=アルプ地域圏ロワール県)にあるベネディクト会女子修道院。1814年に創建され、ジュアール修道院と同様に聖画制作で知られています。1837年にジュアール修道院を再建したのは、プラディーヌから移った修道女たちです。

 ベルモン=トラモネ アベ・サン・ジョゼフ・ド・ラ・ロシェット(ラ・ロシェットの聖ヨセフ修道院) l'Abbaye Saint Joseph de la Rochette

 ベルモン=トラモネ(Belmont-Tramonet ローヌ=アルプ地域圏サヴォワ県)にあるベネディクト会女子修道院。ベルモン=トラモネは風光明媚な山中の村で、スイス国境に近いフレンチアルプス、シャンベリー地域にあります。
 聖ヨセフ修道院は、デュグジョン医師の家で知られるリヨン近郊カリュイール=エ=キュイール(Caluire-et-Cuire ローヌ=アルプ地域圏ローヌ県)で1824年に創建されましたが、1970年にベルモン=トラモネに移りました。修道院名の一部となっている「ラ・ロシェット」(La Rochette フランス語で「小さな岩」の意) は、ベルモン=トラモネの修道院が小さな岩の上に建てられたことに由来します。


 ジュイニャック アベ・サント・マリ・ド・モーモン(モーモンの聖マリア修道院) l'Abbaye Sainte Marie de Maumont

 フランス西部の美しい田園地帯、ジュイニャック(Juignac ポワトゥー=シャラント地域圏シャラント県)にあるベネディクト会女子修道院。1816年、サン=ジャン=ダンジェリ(Saint-Jean-d'Angély ポワトゥー=シャラント地域圏、シャラント=マリティーム県)に創建され、1959年、東隣のシャラント県にある現在の場所に移りました。
 修道院の建物は、かつての領主の城を使用しています。修道院名の一部となっている「モーモン」(Maumont) は、領主の家名「ラ・ロシュフーコー=モーモン」(La Rochefoucauld-Maumont) に由来します。


 シャンテル アベ・サン・ヴァンサン(聖ヴァンサン修道院) l'Abbaye Saint Vincent de Chantelle

 六角形のフランス本土の中心近く、風光明媚な村シャンテル(Chantelle オーヴェルニュ地域圏アリエ県)にあるベネディクト会女子修道院。10世紀前半に創建された小修道院を起源とし、現在の建物は12世紀に建てられたロマネスク建築です。修道院はフランス革命時に国有化され、売りに出されました。1853年にプラディーヌ修道院がこれを買い取ったのが、聖ヴァンサン修道院の直接的な起源です。

 ポワチエ アベ・サント・クロワ(聖十字架修道院) l'Abbaye Sainte Croix de Poitiers

 ポワチエの聖ラドゴンド (Ste. Radegonde, c. 519 - 587) が552年に創建したフランス最古の女子修道院。修道院の名前「サント=クロワ」(聖十字架)は、聖ラドゴンドが皇帝ユスティヌス2世 (Justinus II, 520 - 578) から譲り受けた「真の十字架の破片」に由来します。


(下・参考画像) ピエロ・デッラ・フランチェスカ 「十字架の礼拝」 詳しい解説は、こちらの解説をご覧ください。





・コートジヴォワール (一箇所)

 ブアケ アベ・ラ・ボンウ・ヌーヴェル(よきおとずれ修道院) l'Abbaye la Bonne Nouvelle de Bouaké




註1 聖コルンバヌスが創建した修道院としては、次のふたつがとりわけ有名です。

・590年頃、フランス東部、リュクスイユ=レ=バン(Luxeuil-les-Bains フランシュ=コンテ地域圏オート=ソーヌ県)に開かれたサン=ピエール・エ・サン=ポール修道院 (Le monastre Saint-Pierre et Saint-Paul de Luxeuil)

・614年にイタリア北部、ボッビオ(Bobbio エミリア=ロマーニャ州ピアチェンツァ県)に開かれたサン・コロンバーノ修道院 (Abbazia di San Colombano)




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