サンタンヌ・ドーレのバシリカ (オーレの聖アンナのバシリカ)
La Basilqie de Sainte Anne d'Auray, Sainte-Anne-d'Auray




(上) 左はサンタンヌ・ドーレのバシリカ。右はバシリカに安置されている聖アンナとマリア像。いずれも1910年代の絵ハガキです。


 サン=タンヌ=ドーレ(Sainte-Anne-d'Auray ブルターニュ地域圏モルビアン県)はブルターニュ半島の南側、オーレ小郡 (canton d'Auray) に位置する人口2千人ほどの小さな町です。ここには聖母マリアの母である聖アンナに捧げられたルネサンス様式の聖堂、サンタンヌ・ドーレのバシリカ(La Basilque de Sainte Anne d'Auray オーレの聖アンナのバシリカ)があり、年間八十万人が訪れる大巡礼地となっています。


【ブルターニュにおける聖アンナ崇敬】

 ブルターニュの守護聖女とされる聖アンナは、どの教会にも像があり、数多くの礼拝堂が聖アンナに捧げられるなど、当地において熱心に崇敬されています。この地域がキリスト教化されたのは7世紀から8世紀にかけてのことですが、一説によるとそれ以前の時代にはアナ (Ana) という名前の女神が崇拝されており、聖アンナ崇敬が広まる素地となったとも言われています。


【聖アンナ出現の伝承】

 伝承によると、聖アンナは 1624年、モルビアン県オーレ (Auray) の農夫イヴ・ニコラジク (Yves Nicolazic, 1591 - 1645) に対して何度も出現しました。

 イヴ・ニコラジクの出自については何も伝えられていませんが、ケランナ(Keranna, Ker Anna 「アンナの村」)という村に住む正直で勤勉な義人であったと言われています。イヴ・ニコラジクは20歳の頃にギルメット・ル・ルゥ (Guillemette Le Roux) という女性と結婚しましたが、その後10年経っても夫妻は子供に恵まれませんでした。またイヴ・ニコラジクは、当時としては珍しく聖体拝領を頻繁に受け、オーレのカプチン会修道院の司祭のもとでたびたび告解を行う信仰篤き人でもありました。

 ニコラジクは数か所の畑を耕していましたが、このうちボセノ (Bocenno) と呼ばれる場所は収穫量が多いうえに休耕の必要も無く、あたかも特別に祝福されているかのようでした。奇妙なことに牛は犂を付けてこの畑に入るのを嫌がり、あるときなどは牛と犂を繋ぐ部分が一日に二度までも壊れましたので、ニコラジクは手ずから鋤を取って作業しなければなりませんでした。


 1622年8月のある夜、ニコラジクが聖アンナに執り成しを願って祈っていると、大ろうそくを持った手が部屋に現れ、明るい光が部屋を満たすという不思議が起こりました。そしてニコラジクが夜道を歩く際に、ろうそくが現れて周囲を照らすという不思議な出来事が、その後何度も起こりました。翌年の八月、畑仕事を終えたニコラジクと義兄弟のル・ルゥが牛たちを水飲み場に連れて来ると、光り輝く貴婦人に出会いました。貴婦人は微笑むだけで、何も話しませんでした。その後、同じ貴婦人がたびたびニコラジクに出現しましたが、その場所は水飲み場であったり、ニコラジクの自宅であったり、路傍に十字架が立つ場所であったりしました。ニコラジクはこれらの出来事について思いを巡らし、いっそう熱心に祈るようになりましたが、日々の生活が変わることはありませんでした。

 司祭は貴婦人が現れた際に名を問うようにニコラジクに命じました。1624年7月25日の夜、ニコラジクが野良仕事から帰る途中の道で、またもや貴婦人が出現しました。この日は聖アンナの祝日の前日にあたります。ろうそくを手にした貴婦人は、自宅に帰るニコラジクの前を歩きました。ニコラジクは帰宅しても眠ることができず、納屋で祈ろうとしました。大勢の巡礼者が道を歩くような物音が聞こえたので外を見ましたが、誰の姿も見えません。そのとき光が周囲を照らし、ふたたび貴婦人が現れました。ニコラジクが司祭に命じられてたとおりに名を問うと、ブルトン語で次の答えが返ってきました。

 「イヴ・ニコラジク、恐れる必要はありません。わたしはマリアの母アンナです。司祭に伝えなさい。昔、現在の村々がまだ無かった頃、わたしに奉献されたブルターニュで最初の礼拝堂がありました。その礼拝堂は914年前に無くなりました。礼拝堂をあなた自身の手ですぐに再建しなさい。この場所でわたしが崇敬されうことを、神が望んでおられるのです。」「心配する必要はありません、ニコラジク。わたしはあなたが礼拝堂の建設を始められるように、そしてその仕事をやり遂げることができるようにしてあげます。わたしは天の宝を自由に使うことができますから。」

 この言葉を聞いたニコラジクは貴婦人の正体がわかり、なすべきことがわかったので、安心して眠りに就きました。ニコラジクから報告を受けた村の司祭はこの話を信じず、ニコラジクを叱責しましたが、ふたりの村人がニコラジクの話を信じました。うちひとりはボセノの畑の地主でしたが、聖アンナの礼拝堂を建てるために土地を寄付すると約束し、またニコラジクの証言を信じるように司祭に勧めました。

 また1625年3月7日の夜、ニコラジクが部屋でロザリオを祈っていると、聖アンナがふたたび現れて言いました。

「イヴ・ニコラジク。村人たちを呼んで、この光が導くところへ連れて行きなさい。そこに像があります。その像を皆で大切にしなさい。そうすればわたしがあなたに約束したことが本当であるとわかります。」

 そこでニコラジクは村人たちとともにろうそくの導きに従ってボセノまで行き、大勢の村人が見守るなか、地中から一体の木像を掘り出します。ニコラジクが昔の礼拝堂に安置されていた聖アンナの像を見つけたという知らせはすぐに各地に伝わり、3日後には大勢の巡礼者がボセノを訪れるようになりました。1624年7月25日の夜にニコラジクが聞いた不思議な足音は、巡礼者の足音だったのです。

 ニコラジクは像を彫り出した日以来、礼拝堂の建設に取り掛かりました。ニコラジクは読み書きさえできない無学な農夫でしたが、物資の調達に采配を振るい、現場の監督もよくこなしました。礼拝堂が完成した後、ニコラジクは1645年5月13日に亡くなりました。


【巡礼地サン=タンヌ=ドーレの発展】

 ニコラジクに起こった出来事はヴァンヌ司教ド・ロスマデク師(Msgr. Sebastien de Rosmadec 在任 1622 - 1646)の耳に入り、司教は調査を命じました。厳しい訊問の結果、ニコラジクに対する聖アンナの出現は真正の出来事であると結論付けられ、司教は当地における聖アンナ崇敬と礼拝堂建設を許可し、1625年7月26日には聖アンナに捧げる最初のミサが行われました。また1628年2月からはカルメル会が巡礼者を受け入れることとなりました。

 フランス国王ルイ十三世 (Louis XIII, 1601 - 1643) と王妃アンヌ・ドートリッシュ (Anne d'Autriche, 1601 - 1666) は、エルサレムから13世紀にもたらされた聖アンナの遺物をはじめとする品々を、サン=タンヌ=ドーレの礼拝堂に寄進しました。またアンヌ・ドートリッシュは教皇に願い出て、聖アンナ信心会 (confrérie) 設立の許可を得ています。ちなみにこの信心会は1872年、ピウス9世によって大信心会 (archiconfrérie) に昇格されています。

 フランス革命時代の1793年、サン=タンヌ=ドーレの礼拝堂は掠奪に遭ってカルメル会員は追放され、ニコラジクが地中から掘り出した木像もヴァンヌで焼却されてしまいましたが、巡礼が途絶えることはありませんでした。ニコラジクの聖アンナ像の燃えがらからは小像が彫られ、現在安置されている聖アンナ像の基部に納められています。現在の聖アンナ像は1825年に製作されたもので、1868年にピウス9世によって戴冠されました。

 ニコラジクが建てた礼拝堂は手狭になったために1865年に取り壊され、翌年にはレンヌ大司教サン=マルク師 (Msgr. Godefroy de Brossays de Saint-Marc, 1803 - 1878) の手で、現在のサンタンヌ・ドーレのバシリカの定礎が行われました。バシリカが完成したのは 1877年のことです。サンタンヌ・ドーレのバシリカはルルドリジューに次ぐフランス第三の巡礼地で、この地で毎年行われるパルドン祭はブルターニュのパルドン祭のなかでも最大の規模を誇ります。


(下) ブルターニュのパルドン祭 1890年頃の彩色フォトグラヴュア 画面サイズ 23 x 18 cm 当店の商品です。





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