地上を旅する者の庇護者 四元素と闘う聖クリストフ 山道を駆け上がるクラシック・カーのメダイ 直径 16.5 mm


突出部分を除く直径 16.5 mm

フランス  1920年代



 今からおよそ九十年前、1920年代のフランスで制作されたクラシカルなメダイ。十三世紀の聖人伝にしたがって、幼子イエスを背負う聖クリストフ(聖クリストフォロス、聖クリストファー)を刻みます。裏面には当時のスポーツ・カーが刻まれています。





 本品の表(おもて)面には、幼児を肩に乗せて川を渡る聖クリストフ(聖クリストフォロス、聖クリストファー)が浮き彫りにされています。弦月が掛かる夜空の下、荒れ狂う自然の四元素と闘うクリストフの衣は強風をはらんで大きく膨らみ、衣の下部は腿に張り付いています。逆巻く川の水深は大男クリストフの膝のあたりに達し、逆巻く波は腰に届かんとしています。怪力無双のクリストフは、岩をも押し流すほどの巨大な水圧に抗(あらが)ってまっすぐに立ち、自信に満ちた足取りで向こう岸を目指します。

 しかしながら渡河の半ばで、肩に乗せた小さな男の子があまりにも重くなり、異変を感じたクリストフは問いかけるように男の子を見上げています。肩の上の幼児は全宇宙の支配権を示すグロブス・クルーキゲル(世界球)を左手に持ち、右手で天を指さして、自分が天地の造り主、神なる幼子イエス・キリストであることを宣言しています。クリストフの髪は強い風圧に押し付けられ、衣は強風にあおられてひるがえっていますが、幼子イエスは天上の存在であるゆえに、強風の中でも安定して座り、髪や衣も風の影響を受けていないように見えます。





 幼子イエスを肩に乗せて渡河するクリストフの姿は、ヤコブス・デ・ヴォラギネによる聖人伝「レゲンダ・アウレア」("LEGENDA AUREA") に収録された伝承を基にしています。同書によると、大男である武人クリストフは世界で最強の君主に仕えることを望み、まずはじめに、最強と思われるカナンの王に仕えました。しかしながら王が悪魔を恐れていることがわかったので、次に悪魔の家来になりました。やがて悪魔が神を恐れていることを知ると、神に仕えることを望みましたが、どうすれば神に出会えるかがわかりません。隠者に相談したところ、人を背負って深い川を渡す仕事をすれば神に出会える、と教えられました。ある日小さな男の子が現れて、向こう岸に渡してくれるようにと頼まれたクリストフは男の子を肩に乗せて運び始めますが、途中で男の子が非常に重くなり、やっとの思いで向こう岸にたどり着きました。男の子は世界を創ったキリストで、世界よりも重かったのです。クリストフはこうして神と出会い、神に仕える者となりました。

 上の写真はアルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer, 1471 - 1528)が 1511年に制作したウッド・エングレーヴィングで、大英博物館に収蔵されています。中央に大きく描かれているのはキリストとクリストフですが、向かって右側の岸辺には隠者の姿が見えます。隠者が手にするランプは「知恵」の象徴であり、「ロゴス」(λόγος ことば)の象徴でもあります。「知恵」あるいは「ことば」とはイエス・キリストのことに他なりませんから、ランプを手にした隠者の姿は、キリストを背負ったクリストフの姿と同じ象徴的意味を有します。「ヨハネによる福音書」 一章一節から五節を引用します。ギリシア語原文はドイツ聖書協会のネストレ=アーラント二十六版、日本語は新共同訳によります。


     Nestle-Aland 26 Auflage    新共同訳
     Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.    初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
     οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.    この言は、初めに神と共にあった。
     πάντα δι' αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν. ὃ γέγονεν    万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
     ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων:    言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
     καὶ τὸ φῶς ἐν τῇ σκοτίᾳ φαίνει, καὶ ἡ σκοτία αὐτὸ οὐ κατέλαβεν.    光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。


 フランス語「クリストフ」(Christophe)はギリシア語「クリストフォロス」に由来します。「クリストフォロス」(Χριστόφορος) はギリシア語で「キリスト」を表す「クリストス」の語根「クリスト」 "Χριστ-" と、「運ぶ人」を表す「フォロス」"-φορος" を、繋ぎの音 "-ο-" で接合した合成語です。すなわち「クリストフォロス」は「キリストを運ぶ人」という意味であって、実在した歴史上の人物の名前ではありません。この事実が端的に示すように、キリストを肩に乗せて荒天の中を進む聖クリストフの姿は、キリストを心に受け容れて、キリストと共に地上を旅する教会と信仰者を象徴しています。





 反宗教改革の時代に生きたカトリックの画家ペーター・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens, 1577 - 1640)は、アントウェルペン司教座聖堂翼廊の三翼祭壇画において、「クリストゥストレーガー」(Christusträger)すなわち「クリストフォロス」(Χριστόφορος 「キリストを運ぶ者」)を主題に一連の作品を描き、「キリストを受け容れる信仰」という不可視のテーマを美しい絵画に表現しています。上の写真はルーベンスの三翼祭壇画を開いて撮影したものです。本品を制作したメダイユ彫刻家テラックもまた、ルーベンスと同様に、困難な旅を続ける地上の教会と信仰者、及びそれを庇護したまう神の限りなき恩寵を、この浮き彫り作品において巧みに可視化しています。

 ちなみに「レゲンダ・アウレア」のクリストフォロス伝は有名で、芥川龍之介はこの話に取材し、「キリシタンもの」作品群のひとつである「きりしとほろ上人伝」を書いています。「レゲンダ・アウレア」によると、幼子キリストは世界を創った造物主であるゆえに、世界よりも重いということになっています。しかしながら芥川の作品においては、幼子キリストが重い理由は、世の罪を背負ったからということになっています。「レゲンダ・アウレア」は荒唐無稽な内容が多いゆえに十三世紀当時からしばしば批判されてきました。これに比べて芥川の「きりしとほろ上人伝」は、優れて薫り高い文学作品となっています。





 上の写真に写っている定規のひと目盛は一ミリメートルです。幼子イエス・キリストも聖クリストフも、その顔はいずれも直径一・五ミリメートル乃至(ないし)二ミリメートルの円内に収まりますが、目鼻立ちは大型の浮き彫り彫刻と同様に整ったできばえです。身体各部の比例が正しいのはもちろんのこと、聖人の髪や衣、逞しい筋肉がうかがえる腕と脚、杖をつかむ大きな手、幼子が着る継ぎ目のない衣と両足のサンダル、世界球を持つ左手と天を指す右手、恐ろしい水圧で聖人にぶつかる流れ、砕ける波、空に浮かぶ月と雲など、すべてが優れた写実性を以て表され、渡河するふたりを眼前に見るかのような錯覚さえも覚えます。





 中世以来、クリストフの絵や像を見た者は、その日のうちに「悪(あ)しき死」、すなわち臨終の場に司祭が立ち会わない突然の死に遭うことが無いと信じられてきました。上の写真は南ドイツで1423年に刷られた手彩色木版画です。教会を訪れる巡礼者はこの札を貰い、家の中の良く見える場所に張り付けました。版画の下部にはラテン語で次の言葉が書かれています。

  Christofori faciem die quacumque tueris, illa nempe die morte mala non morieris.   クリストフォロスの顔を見れば、その日は決して悪しき死に遭うことがない。


 下の写真はロベール・カンパン (Robert Campin, 1378 - 1444) が受胎告知を描いたテンペラ板絵で、暖炉の上の壁面に、上掲の版画と同じようなクリストフの彩色画が張られています。二枚目に示したのは拡大写真です。ロベール・カンパンが「受胎告知」を描いたこの作品は、現在ベルギー王立美術館に収蔵されています。


(下) Robert Campin, dit le maître de Flémalle, "l'Annonciation", 1420, tempera sur bois, 61 x 63 cm, les Musées royaux des beaux-arts de Belgique (MRBAB), Bruxelles






 「聖クリストフの姿(絵や像)を見る者は、その日のうちに悪しき死に遭うことが無い」という言い伝えは、ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」の冒頭部分でも引用されています。





 「クリストフの姿を見る者は、その日のうちに悪しき死に遭うことが無い」という伝承ゆえに、この聖人のメダイには、人々が乗り物に乗ったり危険なスポーツを楽しんだりする様子がしばしば刻まれます。メダイを所持する人が聖人の図柄を見て、加護を受けるべく期待されているのです。

 メダイの裏面には、現代、すなわちこのメダイが制作された1920年代の自動車が、山道を駆けあがる姿が刻まれています。遠景にはフレンチ・アルプスの山並みと教会堂らしき建物が見えます。自動車はくねくねと曲がる山道を走ってきて、いままさに急傾斜の坂道に差し掛かったところです。前輪の接地面からは小さな土煙、後輪の接地面からは大きな土煙が上がります。運転者はギヤをシフトダウンし、回転数を上げたエンジンがうなります。

 1920年代、ル・マンの耐久レース(les 24 Heures du Mans)に参戦した主な自動車は、ベントレー、アルファ・ロメオ、ブガッティで、これらの車種はフランス国内でよく知られていました。メダイに彫られたスポーツ・カーの車種は同定できませんが、ブガッティには見えず、この時代のベントレーやアルファ・ロメオに似ています。

 当時のスポーツ・カーは百数十馬力のエンジンを積んでいましたが、現代のスポーツ・カー、レーシング・カーよりもずっと狭いタイヤ幅でした。山道は思いがけない急カーブが多いですし、メダイに彫られている道は未舗装ですから、筆者(広川)であれば、このような状況ではスピードを控えます。しかしながらメダイの運転者はスピードを緩めず、スリルを楽しんでいるようです。メダイの下部には次の言葉がフランス語で刻まれています。

  Regarde Saint Christophe, puis pars rassuré.  聖クリストフを見てから、安心して出発せよ。

 聖クリストフは司祭が来るまで生命を持たせてくれるだけで、不死身にしてくれるわけではありませんから、たとえ聖人の加護があったとしても、無謀なことは絶対にしてはなりません。しかしながら不慮の事故は、誰の身にも、思いがけない時に意図せずして起こってしまいます。それゆえ聖クリストフの加護は、慎重に運転する人、道を歩く人、職場で働く人、家事をする人など、誰にとってもやはり心強く感じられます。





 上の写真に写っている定規のひと目盛は一ミリメートルです。運転者の頭部は直径0.3ミリメートル、ウインドシールドの高さは0.5ミリメートルしかありません。これほど小さなサイズにも関わらず、フロントグリル上部に取り付けたアール・デコ様式のマスコット、ボンネットの側面パネルの溝、乗員席後部に折りたたまれた幌、未舗装の土道の凹凸、不定形の土煙、道の脇に生える植物など、あらゆる細部が精密に表現されています。道の向こうに見える針葉樹は枝が下方に伸びていますから、ヨーロッパカラマツでしょう。ヨーロッパカラマツは南フランスの高山帯に多い木です。遠景の建物は尖塔を有し、一つ一つの窓が丁寧に彫られています。





 上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が現物をご覧になれば、ひと回り大きなサイズに感じられます。

 本品はおよそ九十年も前に製作されたメダイですが、保存状態は良好です。商品写真はサイズを大きく拡大していますので、突出部分のわずかな摩滅が判別できますが、肉眼で実物を見れば新品同様に感じられます。


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