ピエール・アヌー作 「火刑に処されるジャンヌ・ダルク」 列福記念の小聖画 (ブマール・エ・フィス 図版番号 5296)


中性紙にフォトグラヴュール


119 x 74 mm

フランス  1909年



 フランス救国の聖女ジャンヌ・ダルク (Jeanne d'Arc, c. 1412 - 1431)を描いた小聖画を、ベルベット張りマットを使用して額装しました。聖画は数々の美しい作品で知られるパリの大手版元、ブマール・エ・フィス (Boumard et Fils, Paris) による小品で、「フォトグラヴュール」(仏 photogravure)と呼ばれる古典的版画技法によります。





 聖画は良質の中性紙に刷られ、表裏とも金色に縁取られています。表(おもて)面の中心よりもやや上方、直径 55ミリメートルの円形画面に、1431年5月30日、ルーアン司教座聖堂前広場における少女ジャンヌの殉教を描きます。髪を短く刈られ、白い長衣を着せられたジャンヌは、後ろ手に縛られて、鎖で火刑柱に括りつけられています。イエズスの十字架に掲げられたINRI(IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM ナザレのイエズス、ユダヤ人の王)を思い起こさせる札がジャンヌの頭上に釘で留められており、15世紀式綴りのフランス語で、次の言葉が書かれています。

  Jehanne la Pucelle, heretique, schismatique, ydolâtre et relapse  ジャンヌ・ラ・ピュセル、エレティーク、シスマティーク、イドラートル、エ、ルラプス

 ジャンヌ・ラ・ピュセル (Jehanne la Pucelle) とは「乙女(処女)ジャンヌ」という意味です。ジャンヌは存命中から「ラ・ピュセル」と呼ばれていました。「エレティーク」(heretique) は異端者、「シスマティーク」(schismatique) は教会を分裂させる者、「イドラートル」(ydolâtre 現代の綴りでは idolâtre) は偶像崇拝者のことです。「ルラプス」(relaps/relapse 異端再転向者) という語は、いったん棄てた異端的信仰を再び表明した者を指します。中世の異端審問においては、被告人が「ルラプス」であると認められると、教会裁判所から世俗裁判所に引き渡され、死刑を含む厳しい刑が宣告されました。被告人に死刑判決を下すのは世俗裁判所であり、教会は手を汚しませんでした。

 若く魅力的な女性であったジャンヌは、投獄されている間に裸にされて性的暴行を受け、着衣を奪われて男性用の服を与えられました。他に着る物が無かったので、与えられた服を着たところ、その男装により「ルラプス」の宣告を受けたのです。


【下・参考画像】 ウィンチェスター司教アンリ・ボーフォール (Henri Beaufort, le cardinal de Winchester, 1375 - 1447) の尋問を受ける獄中のジャンヌ・ダルク。 Paul Delaroche, "Jeanne d’Arc malade est interrogée dans sa prison par le cardinal de Winchester", 1824, 277 x 217 cm, huile sur toile, Musée des Beaux-Arts, Rouen




 フランス国立公文書館に残る記録によると、ジャンヌの薪に点火したのは、ルーアンの死刑執行人ジョフロワ・テラージュ (Geoffroy Thérage) という人物です。ジョフロワの仕事の記録は 1407年から始まっており、ジャンヌが火刑に処された1431年の時点で、死刑執行人として25年のキャリアを持つベテランであったことがわかります。

 このジョフロワは、少女ジャンヌを生きながら焼くという残虐な刑に心を痛めていました。また火勢を強めるために油や炭が加えられ、風が送られたにもかかわらず、ジャンヌの心臓が燃え残り、これを燃やすために再び薪に点火しなければならなかったことに怖れを抱きました。仕事の後、兄弟二人のもとを訪ねたジョフロワは、恐ろしい悔恨にさいなまれ、聖女を焼き殺して赦され得ない罪を犯したという恐怖におののいていたとの証言が残っています。死刑の執行が日常の仕事であり、それまでに数百人の刑を執行していたジョフロワがこれほどまでに度を失うほど、ジャンヌの火刑は残虐であったことが分かります。


【下・参考画像】 Jules Eugène Lenepveu, "Jeanne d'Arc sur le bûcher", 1886/90, le Panthéon, Paris




【下・参考画像】 Georges-Henri Prud'hommes, "Ve CENTENAIRE DE LA MORT DE JEANNE D'ARC", 1931 当店の商品です。




 聖画には描かれていませんが、火勢が増す前は火刑柱の側に聖職者がいて、「異端者、教会分裂者、偶像崇拝者、異端再転向者」であるジャンヌに対し、長い棒の先端に取り付けたクルシフィクスを突きつけて、「回心」を迫りました。しかし信仰深いジャンヌにとって、「異端者、教会分裂者、偶像崇拝者、異端再転向者」の汚名は身に覚えのないことです。聖画に描かれたジャンヌは、二本の木切れを紐で括った粗末な十字架を握りしめ、ジョフロワ・テラージュの松明から薪(たきぎ)に燃え移った炎と煙の中、天を仰いでいます。





 聖画の下には次の言葉がフランス語で記されています。

LA BIENHEUREUSE JEANNE D'ARC 福者ジャンヌ・ダルク
.
Non, mes Voix ne m'ont pas trompée! 「いいえ、私は『声』に騙されてなどいません。
Ma mission était de Dieu! 神が私に命じ給うたのです。
Jésus, Jésus, Jésus! イエス様、イエス様、イエス様!」
.
(paroles de Jeanne d'Arc sur le bûcher) 火刑台上のジャンヌ・ダルクの言葉
30 Mai 1431 1431年5月30日


 フランス語で異端者の火刑のことを「オトダフェ」(autodafé) と言いますが、これはポルトガル語の「アウト・ダ・フェ」(auto da fé) に由来します。「アウト・ダ・フェ」とはポルトガル語で「信仰の行為」という意味です。火刑は異端者の肉体を滅ぼして魂を救う行為である、という理論づけが為されたゆえに、火刑を「信仰の行為」と呼んだのです。いわば親切で火刑に処してやっている、というのは、現代人の感覚からすればとんでもないことですが、これに加え、処刑された異端者の財産は教会の所有になりました。異端者や魔法使い、魔女の嫌疑を掛けられた人に対する火刑が猖獗(しょうけつ)を極めたのは、中世よりもむしろ宗教改革期で、多くの裕福な市民が異端審問の餌食になりました。この時代はカトリック側、プロテスタント側とも異端審問に熱心でしたが、どちらかと言えばプロテスタント側の方が盛んに火刑を行いました。これは当時の社会において、富裕層が概(おおむ)ねカトリック市民で構成されていたからでしょう。

 異端審問は、一見したところ純粋に宗教的な問題であるように見えますが、実際にはこのようにたいへん醜悪な側面を持っていました。財産を狙った異端審問という図式はジャンヌの場合は当てはまらないでしょうが、純粋な信仰のみを恃(たの)む少女が敵対勢力の手中に落ちたとき、いかに醜い偽善の犠牲になるかを、ジャンヌの火刑は如実に示しています。聖職者が掲げる立派なクルシフィクスと対極にあるジャンヌの十字架は、混じりけのないジャンヌの信仰の証しであり、罪のない少女を火刑死に至らせた当時の教会と政治の過ちを、無言のうちに指弾しています。





 聖画の中ほどの左側に、画家ピエール・アヌールのサイン (P. Annould) が描き込まれています。ピエール・アヌール (Pierre-Léon-Adolphe Annould, 1861 - 1925) はこの小聖画の版元、ブマール・エ・フィスで、美術関係の責任者 (directeur artistique) を務めた画家です。死の直前まで彩管を握り、リジューのテレーズを描いた作品も、1923年の列福記念に描いた四点をはじめ、数点遺しています。


【下・参考画像】 ピエール・アヌールがテレーズの幼少時を描いた木炭画。小冊子「絵で見るスール・テレーズの生涯」("La vie en images de Sr. Thérèse de l'Enfant Jésus") より。

 La veillée à Alençon, 80 x 60 cm environ


 聖画の下端には版元名 (Maison Charles Letaille, Boumard et Fils, Paris) と図版番号 (pl. 5296) が記されています。シャルル・ルタイユ (Charles Letaille, Paris) は 1839年から1873年まで存続した老舗の版元で、ブマール・エ・フィス (Ancienne Maison Charles Letaille, Boumard et Fils successeur, Paris) は1873年にシャルル・ルタイユの事業を引き継ぎました。それゆえブマール・エ・フィスが1873年以降に刷った聖画、カニヴェにも、シャルル・ルタイユの版を使用したものが見られます。





 ジャンヌ・ダルクは1909年4月18日、教皇ピウス10世により、パリ司教座聖堂ノートル=ダム(ノートル=ダム・ド・パリ)で列福され、11年後の1920年5月30日、教皇ベネディクトゥス15世により、ヴァティカンのサン=ピエトロ聖堂で列聖されました。本品は1909年、ジャンヌ・ダルクが列福された記念に制作された聖画で、ジャンヌ・ダルク列福に際しての神への祈り、また新福者ジャンヌ・ダルクにフランスへの加護を求める祈りが、裏面にフランス語で記されています。内容は次の通りです。

LA BIENHEUREUSE JEANNE D'ARC 福者ジャンヌ・ダルク
 O mon Dieu, qui, parmi toutes les nations, avez choisi la France pour votre soldat sur la terre et pour le plus solide appui de votre Église; qui tant de fois déjà avez sauvé le monde par ses héros et par ses saints;  わが神よ。地上において御身に仕える兵士と為すべく、また御身の教会の堅固な支え手と為すべく、世のすべての国からフランスを選び給うた神よ。フランスの英雄と聖徒を用いてすでに幾たびも世を救い給うた神よ。
 faites qu'elle ne manque jamais aux devoirs que sa haute mission lui impose, mais qu'elle dilate sans cesse ici-bas le royaume de la vérité pour augmenter au ciel le nombre des élus.  その高き使命ゆえに課せられた義務を、フランスが常に果たせるように計らい給え。フランスがこの地上において真実の王国を広げ続けて、選ばれて天に住まう者の数を増やせるように計らい給え。
 Et à cette heure solennelle où le Souverain Pontife proclame la béatification de notre sainte Héroïne, la France entière tombe à ses genoux pour implorer son secours:  我らを救いし強き聖女の列福が、教皇聖下により宣言されるこの厳粛なときを迎えて、全フランスは跪き、聖女に助けを請い願います。
 O vous, Bienheureuse Jeanne d'Arc, dont l'épée et l'étandard bénis ont sauvé notre patrie; O vous, qui du haut du ciel en connaissez les misères, ne nous abbandonnez pas à l'heure présente; nous mettons en vous notre confiance; sauvez la France chrétienne des périls qui la menacent; protégez les âmes de nos enfants; apprenez-leur à combattre le mal, à entendre la voix du bien dans le chemin du devoir et de l'honneur.  祝せられたる剣と軍旗にてフランスを救いし御身、福者ジャンヌ・ダルクよ。フランスの悩み苦しみを天の高みより知り給う御身よ。いまこの時に我らを棄て給うことなかれ。我らは御身を信じて頼ります。キリストを信じるフランスを脅かす危機から救い給え。我らの子供たちの魂を守り給え。子供たちが悪と戦い、善の声を聴いて、義務と名誉の道を歩むように、子供たちを教え導き給え。
Ainsi soit-il. アーメン。


 聖画に取り上げられるテーマと図像表現、裏面に書かれる祈りの内容は、多くの場合、その聖画が製作された時代に固有のものです。「キリストを信じるフランス (la France chrétienne) を脅かす危機」からの救いを求める上記の祈りもやはりそうであり、この時代の全ヨーロッパに共通の精神状況と、この時代のフランスに固有の精神状況を重層的な背景として、この時代ならではの内容が神に祈願されているということができます。

 すなわちまず第一に、この祈りは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて全ヨーロッパを覆った精神状況、社会状況と、それに対して当時のカトリック教会が抱いた強い危機感を色濃く反映しています。19世紀後半から20世紀初頭は、急激に影響力を強めた近代思想がカトリックの伝統的価値観を脅かした時代でした。教皇ピウス9世は 1864年12月8日に回勅「クアンタ・クーラ」("QUANTA CURA") を出しましたが、この中の「誤謬表」(SYLLABUS ERRORUM) は自然主義、合理主義、汎神論、高等批評、社会主義、共産主義、信教の自由などあらゆる近代思想を批判し、「異端」として断罪するものでした。近代思想がカトリック教会に与えた脅威が、この「誤謬表」に良く現れています。この聖画が制作された1909年当時のカトリック教会は、フランスの行く末を担う子供たちが有害な近代主義に染まらないために、悪と戦う騎士ジャンヌに加護を求めました。死後478年の年月を経たジャンヌの列福には、「カトリック教会による対近代主義闘争」という時代背景があったのです。


【下・参考画像】 19世紀後半にフランス各地に建てられた巨大な聖母像のひとつ、ノートル=ダム・ド・フランス。力強い像は、近代主義と戦う聖母の姿です。




 本品裏面の祈りをこの時代ならではのものとしている第二の背景は、フランスに固有のものです。祈りの前半を再掲します。太字の部分にご注目ください。

 わが神よ。地上において御身に仕える兵士と為すべく、また御身の教会の堅固な支え手と為すべく、世のすべての国からフランスを選び給うた神よ。フランスの英雄と聖徒を用いてすでに幾たびも世を救い給うた神よ。
 その
高き使命ゆえに課せられた義務を、フランスが常に果たせるように計らい給え。フランスがこの地上において真実の王国を広げ続けて、選ばれて天に住まう者の数を増やせるように計らい給え。


 上記の祈りに見られる太字部分の表現は、フランスこそが「カトリック教会の長姉」である、という思想に基づきます。フランスは、イタリアやスペインをさし措き、全カトリック世界、否、全キリスト教世界から、神が特に選び出し給うた選民である、と考えられたのです。

 17世紀フランスの聖女マルグリット=マリ・アラコック (Ste. Marguerite-Marie Alacoque, 1647 - 1690) に対して、神が1689年に与え給うた啓示が、この考えの根拠となっています。マルグリット=マリがパレ=ル=モニアルの聖母訪問会修道院長に宛てた1689年6月17日付第98書簡によると、聖女に出現したキリストは、当時のフランス国王ルイ14世を「わが聖心の長子」(le fils aîné de mon sacré Cœur) と呼び、王が聖心を崇敬するならば、「王はすべての敵に勝利し、驕り高ぶる覇者たちの頭をその足下へと打ち倒し、聖なる教会のすべての敵を征服するであろう。」と語りました。(Marguerite-Marie d'Alacoque, Lettre IIC, 17 juin 1689, Vie et œuvres, vol. II, Paray-le-Monial) しかしながら王は啓示に従わず、その後のフランスは革命や内乱、戦争に引き裂かれます。

 マルグリット=マリの第98書簡は修道院の書庫に埋没し、その後長らく知られていませんでしたが、1864年、教皇ピウス9世がマルグリット=マリを列福したことをきっかけに聖女の著作に関心が高まり、1867年になって初めて第98書簡が公開されました。この書簡が伝えるキリストの言葉を知り、その後の自国の歴史を振り返ったフランス人たちは、不信心と神への反逆を悔いて、「フランスをキリストの聖心に奉献する」信仰の運動を国民的規模で推し進め、モンマルトルをはじめとする各地に聖心教会(サクレ=クール教会)を建造しました。


キリストを幻視するマルグリット=マリ 当店の商品です。


 したがって、本品裏面の祈りに見られる「世のすべての国からフランスを選び給うた神」等の文言は、19世紀の半ばから続く「悔悛のガリア」(Gallia poenitens) 運動の宗教的・社会史的コンテクストに位置づけられる表現であることが、おわかりいただけるでしょう。

 マルグリット=マリ・アラコックは、1864年9月18日にピウス9世により列福、1920年5月13日にベネディクトゥス15世により列聖されました。ジャンヌ・ダルクは1909年4月18日にピウス10世により福され、1920年5月30日にベネディクトゥス15世により列聖されました。フランスを代表するふたりの聖女が生きた時代には二百年以上の隔たりがありますが、同じ年の同じ月に、同じ教皇によって聖人の列に加えられています。一枚の小聖画に記された祈りを読み解くことにより、このふたりのフランス人聖女が、19世紀後半から第一次世界大戦へと続くヨーロッパ史、フランス史の流れの中で、時代精神との有機的連関のうちに列福、列聖されたことがはっきりと理解できます。

 聖画の 裏面最下部には、版元名が次のように記されています。

  Boumard et Fils, Éditeur, Paris  パリ、ブマール・エ・フィス


【下・参考画像】 キリストに身を投げかける悔悛のガリア。背景は 1914年9月4日のドイツ軍による空襲で炎上するランス司教座聖堂ノートル=ダム。ノートル=ダム・ド・ランスは歴代のフランス国王が戴冠した司教座聖堂です。手前にジャンヌ・ダルクの騎馬像が見えます。当店の商品。




 本品の聖画はアンティーク・フォトグラヴュールによって制作されています。フランス語で「フォトグラヴュール」、英語で「フォトグラヴュア」または「フォトエッチング」と呼ばれるこの技法は、現代のスクリーン・フォトグラヴュア(グラビア印刷)と同じ名前ですが、技法としては根本的に異なり、熟練した専門家の手作業で制作される高品位のアンティーク版画です。

 アンティーク・フォトグラヴュールは、ルーペや顕微鏡で拡大しても網点(現代の印刷物に見られる格子状に配列された点)が見えません。アンティーク・フォトグラヴュールには、網点がもともと存在しないのです。したがって現代の技術による美術印刷に比べても、格段にきめ細かな刷り上がりとなります。明暗の諧調を無段階に再現できる点でも、アンティーク・フォトグラヴュールは現代のグラビア印刷や写真に勝(まさ)ります。下に示した二枚の写真は、現代の高精細グラビア印刷と、アンティーク・フォトグラヴュール(本品)を比較するために、同等の面積を撮影したものです。いずれのサンプルも同じ拡大倍率で、定規のひと目盛は 1ミリメートルです。







 アンティーク・フォトグラヴュールは制作に多大な労力がかかる版画技法であり、現代の画集や聖画にこの技法が採用されることはありません。アンティーク・フォトグラヴュールに関する詳しい解説、および近年の印刷物と比較した他のサンプル写真を見るには、こちらをクリックしてください。


 本品は良質な中性紙に刷られており、変色は見られません。百年以上前のアンティーク紙製品としては充分に良好なコンディションです。木製フレームにベルベットを使用し、額装しました。額のサイズは縦 20センチメートル、横 15センチメートルの自立式です。ご希望により、壁掛け用金具を無料で取り付けます。サンプル写真では赤のベルベットを使っていますが、ベルベットの色は無料で変更できます。ご注文時において写真の額が手に入らない場合は、同等クラスの額をご用意いたします。





本体価格 14,800円

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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