(下) 店主(男性)の手に載せたところ。女性の手に載せると、もう少し大きなサイズに見えます。
ミシオン記念 アルマ・クリスティと「ペトロの鶏」のブロンズ製クルシフィクス 48.6 x 25.8 mm
突出部分を含むサイズ 縦 48.6 x 横 25.8 mm
フランス 19世紀中頃
19世紀中頃のフランスで制作されたブロンズのクルシフィクス。真正のアンティーク品ならではの美しいパティナ(古色)が、クルシフィクス全体を被っています。
クロスはシンプルなシルエットによる幅広のラテン十字で、コルプス(キリスト)、"INRI"(IESUS NAZARENUS
REX IUDAEORUM ラテン語で「ユダヤ人の王ナザレのイエズス」)の札、及びキリストの足下にある髑髏(どくろ)と一体になっています。
福音書によると(マタイ 22:33、マルコ 15:22、ヨハネ 19:17)、キリストが十字架に架かり給うたのは「ゴルゴタ」という場所で、「ゴルゴタ」とはへブル語で「されこうべ」(髑髏)のことです。この地名は刑場であることに由来するとも頭蓋に似た地形に由来するとも言われています。
またユダヤ=キリスト教の伝承によると、人祖アダムの骨がここに埋められているとも伝えられています。アダムと生命の木、及びキリストの十字架に関する伝承は、下の聖画(当店の商品)の解説ページで紹介いたしました。
髑髏は死の象徴です。とりわけ人祖アダムの髑髏は、原罪によって人類にもたらされた罪と死を象徴します。本品をはじめ、古い時代のクルシフィクスにはキリストの足下に髑髏が置かれる場合が多くありますが、これは受難の三日後に復活するキリストが、「死」に打ち勝ち給うたことを表しています。
本品において、キリストは茨の冠を被せられて、腰布一枚の姿で十字架に架かっておられます。太い釘に貫かれた両手からは、夥(おびただ)しい血が流れています。その姿のなんと痛々しいことでしょうか。
クロスの裏面には「アルマ・クリスティ」(ARMA CHRISTI ラテン語で「キリストの道具類」の意) 、すなわち受難に関連した事物が浮き彫りにされています。本品の「アルマ・クリスティ」は下表の通りです。表中の数字は上の写真の番号に対応します。
1 | . | 茨の冠 | ||
2 | 三本の釘(手用に二本、足用に一本) | |||
3 | 釘抜き | |||
4 | 金槌 | |||
5 | 降架の際に用いられた梯子 | |||
6 | ペトロの鶏 | |||
7 | 脇腹を突いた槍 | |||
8 | 酢に浸した海綿を先に付けた棒 |
5. の梯子はキリストの遺体を十字架から取り下ろす際に使われたものであり、3. の釘抜きとともに、信仰を表します。聖書における梯子が第一に思い起こさせるのは、ヤコブがハランに向かう途中で夢に見た天国の梯子です(「創世記」二十八章十節から二十二節)。眠りから覚めたヤコブは夢を思い返し、「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」(「創世記」
28: 17 新共同訳)と言いました。イエスを十字架から取り下ろす信仰は、天の門に他なりません。
十字架交差部にはフランス語で「ミシオン」(mission) と記されています。「ミシオン」あるいは「ミシオン・パロワシアル」(mission pariossiale) とは教区民の信仰心を高めることを目的とし、農村部を中心とした各地の教区でかつて盛んに行われたカトリック教会の運動です。ミシオンを記念してフランス各地に立てられた「クロワ・ド・ミシオン」(croix
de mission) には、「アルマ・クリスティ」を伴う作例が多く見られます。
「アルマ・クリスティ」はいずれも見る者の心を痛めますが、とりわけ胸に迫るのは「ペトロの鶏」ではないでしょうか。本品において、ペトロの鶏は高い柱の上、十字架の中央部にいます。
イエズスは十字架にかけられる前夜、弟子たちと共に過ぎ越しの食事をなさいました。その際弟子たちの離反を予告したイエズスに、リーダー格の使徒ペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言いますが、イエズスは「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と答え給います。これに対し、ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い切ります。(マタイ
26: 31 - 35)
その夜、イエズスは捕縛され、大祭司の屋敷に連行されて裁判にかけられます。いったん逃げ出したペトロは、こっそりと戻って大祭司邸の中庭に入り、様子をうかがっていましたが、人々に「お前もイエズスの仲間であろう」と言われ、むきになって否定します。ペトロが三度めに否定したとき、鶏が啼きました。
この逸話はすべての福音書に記録されています。「マタイによる福音書」 26章69節から75節を新共同訳により引用します。
ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。 |
十字架の腕木の右側にある金槌は人間の罪を、左側にある釘抜きは信仰を表します。人間の弱さを表す「ペトロの鶏」は、金槌と釘抜きのちょうど中間に刻まれています。
信仰を表す釘抜き、人間的弱さを表す「ペトロの鶏」、罪を表す金槌がこの順に並んで刻まれているのは、人間が天使的なものと悪魔的なものの中間的存在であること、人間の弱さ自体は罪でないにしても、神に向かう信仰無くしては容易に罪に至る入り口となることを、象徴的に表しています。
少し余談を書きます。音楽の好きな方は「マタイ受難曲」に上記の場面が含まれているのをご存じでしょう。「マタイ受難曲」はJ. S. バッハの作品が最も有名ですが、バッハの「マタイ受難曲 BWV
244」はルターのドイツ語訳聖書に拠っています。上の引用箇所は、ルターの訳では次のようになっています。
Petrus aber saß draußen im Palast, und es trat zu ihm eine Magd und sprach: Und du warest auch mit dem Jesu aus Galiläa. Er leugnete aber vor ihnen allen und sprach: Ich weiß nicht, was du sagest. Als er aber zur Tür hinausging, sahe ihn eine andere und sprach zu denen, die da waren: Dieser war auch mit dem Jesu von Nazareth. Und er leugnete abermal und schwur dazu: Ich kenne des Menschen nicht. Und über eine kleine Weile traten hinzu, die da stunden, und sprachen zu Petro: Wahrlich, du bist auch einer von denen; denn deine Sprache verrät dich. Da hub er an, sich zu verfluchen und zu schwören: Ich kenne des Menschen nicht. Und alsbald krähete der Hahn. Da dachte Petrus an die Worte Jesu, da er zu ihm sagte: Ehe der Hahn krähen wird, wirst du mich dreimal verleugnen. Und ging heraus und weinete bitterlich. |
72節と74節のペトロの言葉「そんな人は知らない」を、ルターは属格(二格)を使って "Ich kenne des Menschen nicht" と訳しています。通常であれば対格(四格)を使って "Ich kenne den Menschen nicht" と言うところでしょう。ちなみにギリシア語原文とヴルガタ訳(ラテン語)では、この箇所は "Οὐκ οἶδα
τὸν ἄνθρωπον."(Nestle-Aland, 26 Auflage)、"Non novi hominem."(Nova
Vulgata) と、ごく普通の表現になっています。ルターはこの箇所をドイツ語に訳する際に、なぜ対格ではなく属格を使ったのでしょうか。
インド=ヨーロッパ語の属格には、知る、憶える、思い出す、忘れる、憐れむ等の心的はたらきが及ぶ範囲を、無限定的に表すという機能があります。つまり通常通り対格を使って
"Ich kenne den Menschen nicht" と言えば「その人は、私がよく知っている人ではない」というニュアンスになりますが、これに対して属格で "Ich
kenne des Menschen nicht" と言えば、「その人」(der Mensch) との関わりが希薄であること、あるいは何の関わりもないことが、言外に強調されるのです。
ここでペトロは単にとぼけるのではなく、呪いの言葉さえ口にしながら誓いを立てて「そんな人のことなど全く知らない」「私はその人と如何なる関わりも無い」と言っています。「マタイ受難曲 BWV
244」を聴く度に、筆者(広川)はこの箇所でいつも涙を流し、ペトロと共に泣いています。
本品の浅浮き彫りは細部までよく残り、均一で美しいパティナ(古色)に被われて、柔らかな陰翳のうちに息づいています。交差部の下側一箇所に小さな亀裂がありますが、この亀裂が広がることはありません。19世紀半ば、フランスのとある農村で「ミシオン」が開催され、そこに参加した人の純朴な信仰が、百数十年の時を経て、美しいアンティーク品に結晶しています。
15,800円 販売終了 SOLD
電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。
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